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春、るてんッ!



●2022年4月7日(もく)の日記




生暖かい微風が部活終わりを彷彿とさせる夕方、目の前に散らばる読みかけの本、グミの空袋、切れたままのギターの2弦、文字通り随分と重くなった腰を浮かし、食っちゃ寝で終わりそうな1日へのせめてもの贖罪に近所を徘徊する。



狂ったように、まいにち知らないお爺たちの副流煙を吸いながらベンチに座っておひとり様のお花見をしています。
これはぜんぶ春のせいで、春は最高の気温で、それがとても厄介で、家の中で惰眠を貪ろうとすると、春が匂いでわたしをやさしく確実に責めてくるから、こわくなって居てもたってもいられなくなり思わず外に出てしまう。

耳をつんざく小型犬の吠え声、舗装されたばかりの道路、新しいまま潰れた果物屋、乗客のいる回送バス、死ぬまでつづく明後日以降への不安、だれもかれも攫ってくれない最悪の感覚。

何に手を出しても埋められなかった思考の隙間から入り込む暗くて湿ったものが身体じゅうに充満して、苦痛と羞恥と羨望と後悔にまみれる。
幸福と思いたいみたいな、そんなことばかりを考えてずっと歳をとっていて可哀想。そんなことばかり考えられるなんてきっと幸せそう。

まだ間に合うので、はやく老衰したい。

もう間に合わないかもしれないけれど、はやくたすかりたい。




●2023年3月(もく きん ど) の日記


生暖かい日の光を存分に浴びながら、ようやく座れた児童公園のベンチで去年の春の日記を読んだ。

なんかさ、東京って座れるところが少な過ぎませんか。別に名古屋に座れるところが多かったとも思わないけど、東京って、座れたとしても背もたれがなさ過ぎませんか。もたれるな、自立をしろってことですか、そうですか。頻繁に落ち着きたいし隙あらば何かにもたれかかってたい時期なのに・・・

児童公園にはもう桜が咲いていて、やっぱりわたしは隣のベンチに座っている知らないお爺の副流煙を吸いながら、その桜を見た。
これって去年と変わらないじゃんと思ったけれど、それ以外のあらゆることに関してわたしは、去年と全然変わってるよと思いなおす。
あの時みたいに留まることしかできない自分をやめたことで今はここにいるんだな、とおもう。


東京に引っ越してきてから、知らない曲がり角とかに貼ってある知らない名前の政治家のポスターを見るたび、自分はいま慣れない場所にいるんだとはっきり自覚して、それがちょっと心細さに拍車をかける。
人間みんなが1輪ずつ赤い花を持って道を歩いていた代官山、品揃えが惜しくて仕方ない上野のブックオフ、青くて狭い新宿の空、夜をころしにいく勢いで光る渋谷の電気。

これからわたしはどれだけの人に受け入れられるのか、はたまた放っておかれるのか、わたしはなにをどれくらいできるのか、どんな人と会話を交わせるのか、どれだけの場所の地面を踏めるのか。

春は、こわくてあおい。あおくて、こわい。
それがきっといまのわたしにちょうど良かった。去年のわたしが聞いたら卒倒する発言なんじゃないのか。

春はいつも一瞬なのにしぶとく記憶に残りつづけるから、季節の中でもとりわけ顕著に繰り返されている感覚がある。

繰り返される春があって、その中で移り変わる自分がいる。
右も左も前も後ろもわからない状態で、この恐ろしい季節の空気とお爺の澱んだ煙をスーとかハーとかウーとか言いながら、吸って吐く。
春がおわったら夏だな、とか考える。

ちょっと最後に、夏用の自己紹介をしようかな。


はじめまして、115(いいこ)です。
蟹座B型左利き、苦手なタイプは“頑張る”を“顔晴る”とか表記するひとです。
将来の夢は夏の淘汰と老衰、コンプレックスは夏生まれなことです。
はやく冬がきますように。





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