おんぶを考える
放課後に子どもたちに遊んでもらう仕事をしています。子ども食堂やこどもの居場所作りと呼ばれます。最近はこどもたちと過ごしながら、自分の中の子どもを探している、自分のための活動だと気づきました。
最近スタッフと話していた
“おんぶ”について。
数年前はよーくおんぶしてました。
小学生の子たちが『おんぶぅ』と声をかけてきました。わんぱく男子はおんぶというより私によじ登るような。
おんぶも含めたスキンシップを求めることは保護者との関わりが薄いからだ、という分析を耳にします。愛着形成に課題があるとか。よくわかりませんが。
他人の私に“おんぶ”として身を委ねることを何故子どもたちは平気なのか不思議でした。
先日スタッフから「このおんぶ考に新しい考えがあります!」と教わりました。
その新しい説は、『おんぶはただの乗り物にしか過ぎない』というもの。
このスタッフと学生ボランティアさんとで子どもたちにおんぶを要求され続けることについて振り返りをしていたそうです。そこでは、振り返り参加者で“おんぶをされていた時の気持ち”になってみようとなり、
当時の感覚を思い出してシェアしたようです。
・歩きたくない
・目線が高くなって楽しい
というような昔の感覚を思い出して、この振り返りチームは『おんぶは移動手段である』という説を打ち出しました。
みなさんはどう考えますか?
私はこの説を聴いたときに「たしかにそうかも!」と感じました。
また、“乗り物”ならば、乗り心地の良さが大事では?と思い、心地よいという安心を得る為という、これまでのスキンシップ必要説に近い考えになっています。
みなさんはどう考えますか?
何故こどもたちは、子ども食堂にいるスタッフや学生さんに“おんぶ”を求めるのでしょうか?
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