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同姓同名のひとに会ったはなし

最近偶然知り合ったひとに「あなたと同じ名前の女性を知っている」とご紹介をいただいて、先日、自分と漢字も読みもまったく同姓同名の人物と会わせてもらった。

四半世紀ばかりの人生ではあるけれど、同じ名前のひとと直接話すのははじめてのことだった。わたしの名前は、苗字はありふれているながら、親のつけた名のほうは少しめずらしくて、めったに見かけない。

こんなに名前を知り合っている相手に自己紹介するのをわくわくする日はないな、と思いながら、はじめまして○○です、とフルネームを口にした。相手もにっこり笑って、同じ口のかたちで、同じ音を、同じだけ教えてくれる。「嫣然」という単語を辞書で引いたら載っていそうな笑顔だった。

わたしより少しお姉さんで、ことばや文化を大切にする、すてきな女性だった。都合があってお話できたのは短い時間になってしまったけれど、彼女が思慮深くまっすぐなひとであることを理解するにはじゅうぶんだった。

彼女に名付けの由来をきくと、お母さんから一文字もらったのだといった。母親の名前をよぶ口調のやわらかさとよどみなさに、勘違いかもしれないけれど、少なくとも彼女は自分の名前を嫌いではないんじゃないかなと感じた。わたし自身が自分の名前を、数多ある両親からの贈り物の中でとくに気に入っているから、同じものを喜んで受け取っているひとがいるとしたらそれは嬉しいことだ。

最初のうちは会話のなかのふとした瞬間に、このひとはわたしと同じ名前で、わたしとはまったく違う時間を生きてきたんだな、というあたりまえの感慨が頭をもたげていたけど、いつしかそんなこともすっかり忘れて、趣味のことや仕事のこと、最近考えていることなんかをお話しした。
同姓同名という初動のブーストがかかっているだけでとくに盛り上がらなかったらどうしよう、と最初に抱いていた不安もなりを潜めて、楽しい夜が更ける。

あらためて、「名は体を表す」ってとてもいいかげんなことばだ。同じ呼ばれ方をして生きてきたけど、当然のことながら、彼女とわたしの在り方は全然違っていた。


わたしにとって自分の名前は、わたしの人生だけをびっしり書き込んだ1冊のノートのタイトルみたいなものだ。殴り書きのページ、よく読み返して開きぐせのあるページ、やぶりかけたページ、いろいろあって、だいたいは自分の筆跡だからどのあたりにどんな項目があるか覚えている。

顔を上げると目の前に、つかいこまれたもう1冊のノートがあった。表紙には、いつかどこかの夫婦がたいせつに選んだ題名が、ていねいな字で書かれている。それはたまたまわたしのと同じ4文字だけれど、間違いようがないくらい、筆致が違うのだった。
なかを開いて直接覗くことはできなくて、持ち主に少しだけ読み聞かせてもらう。ぱらぱらと、ものすごいスピードでページがめくられているから、結局ほとんど中身は分からずじまいだ。

ただ知っているのは、その日、二冊のノートの最後のページに、たまたま同じ場所おなじ時間のできごとが書き加えられたということだけだった。


帰りの電車に揺られながら、わたしはきっとまた開くだろうな、とそのページの端をゆっくり、三角に折った。

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