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ずっとRRRのことを考えている

RRRについて考えていることをとりとめなく書きますがインド初心者で知識面フワフワなので何かとアレかもしれないです。そして思いついたことをつらつら整理しているだけなんで考察とかないしただただ長いだけ。有益な情報はないだぜ!! オラ言ったからな!!!!

ジェニーのこと

『バーフバリ』と比較すると女性描写が弱いともっぱら言われている(?)『RRR』。そのためジェニーについての考察もそれはそれはファンの中で捗っていると思うのですが、私もジェニーのことを考えている。
私の感想として、ジェニーは心優しい人だが、基本的に中盤まで英国政府と市井のインド人がどういう関係かあまり知らない人なんだろうなと思った。これはジェニーが不勉強というよりは、あの時代公邸にいるような階級の英国女性たちは暴力や弾圧が行われているような場に居合わせる機会がまずないんだと思う。出世も階級もすべては男性のためのもので女性は完全に弾き出されていたと思うし、多分ジェニー以外のお屋敷の女性たちはあまりお屋敷から離れたところに行かないし、出かけたとしても現地のインド人が多い場所にも行かないんだと思う。逆に普段お屋敷にやってくるインド人は英国政府とよろしくやっている藩の貴族の方々で、その方々とよろしくやってるもんだから英国とインド人はまあまあ対等に共存できてると思っていて、だから「日常的に」「当たり前のように」市井のインド人が英国側から理不尽な暴力を受けていて反英意識が高まっていることとかあまり知らないんじゃないだろうかと思った。屋敷の前でぶたれるジャングをかばえたのも、お目目キュルルンのアクタル相手とは言え警戒心なくバイクの後ろに乗れるのも、地元のインド人しかいないマーケットを興味津々でねり歩くのも、社交パーティにアクタルを誘うのも、彼女の「無知ゆえに示せる優しさや好意」というか、もっときつい言い方をすれば「根底にある不和を知らず目先の親切をしているだけ」とも取れる。見て見ぬふりで何もしない人よりはめちゃ立派なので好感持てるけど、ビームやラーマ、シータの「人助け」の精神と比べると少々軽さが否めない。優位な立場からなので…。

そういえばラーマ兄貴はジェニーが総督の姪って気付いてたかどうかなんだけど、多分あれは気付いてませんよね? ラーマ兄貴も総督に姪がいることまでは調べがついていたとしても、やはりジェニーの行動範囲に警察官としてのラーマが配置される機会はなさそうだから、顔までは知らなくて気付かなかったかもなと思っている。気付いてたら今後の計画に差し障るかもしれないから接触避けるだろうし、まさか総督の姪が一人で出歩くとは思わないだろうし。だからアクタルがパーティに誘われたと聞いたとき最初は素直に喜んだけど、会場に着いた途端周囲の気温を10度くらい下げんばかりの怖い目をしてたんじゃないかな。「パーティーってこの規模のかよ」的な目? ちょっと根拠が薄いので分からないけど、ジェニーやアクタルと違ってラーマだけ「これは相当場違いだぞ」ってことに気付いていた表情なのかと。そう考えたらある意味純粋だからこそアクタルとジェニーって惹かれ合ったのかもしれないな。

案の定パーティや屋敷の前でアクタルがめっちゃいじめられるので「失礼を許してね」なんて謝ってるけど、実際これよりもっと酷い暴力が英国政府によって行われているし、よろしくやってる貴族でもないインド人のアクタルを正面から屋敷に招いたらこんなことになるのぐらい分かるやろと言いたくなるが、ジェニーはマジで知らなかったんだと思う。

あとこれはマッリとのやりとりでも何となく感じたことで、洋服やおもちゃを貰ってもマッリがほとんどジェニーを見ないんだよな。バングルを貰ってようやくはっきり目を合わせるけど、ジェニーに感激したというよりバングルに感激したんだろうし、抱きついているのも目の前にたまたま攻撃的ではない人がいたから抱きついただけで(言い方)なんかすれ違いコントを見ているかのような気持ちになる。その後も二人が絡むシーンは皆無だし。

ここも含めてジェニーは可愛らしく心優しい女性として描かれているが、頼りになる人のようには見えず、前半はちょっと上滑りしている感じがある。それはやはり上流階級の英国女性である以外に、「何にも知らないから」なんじゃないかなって。

だとしたら祝賀会襲撃時のジェニーは相当混乱しただろうな。何故あのアクタルがこんなことを、ここまでのことをしなければならないのか分からなかっただろうな。あんな中でアクタルに近づけるの凄すぎる。でも分からないなりにジェニーはアクタルのことをちゃんと理解したいと思ったのだと思う。

ビームの鞭打ちに立ち会ったジェニーもそうで、普段ならたとえ総督の親類だろうと公邸の女性があんな場に立ち会うなんてきっとあり得ない。あれだけのことをしたアクタルをかばうまでは出来なくても、なぜこんなことになったのかはさすがに総督まわりの人から聞き出しただろう。
立ち会うことにしたのはきっと自分がどれだけビームやマッリのことを分かっていなかったか、どれだけ英国が暴力的なやり方で植民地支配をしているのかをちゃんと自分の目で見て確かめるためだったと思う。そして統率・見せしめという名目のもと、ほとんど愉悦で暴力をふりかざすキャサリン総督夫人にも愕然としたことだろう。鞭打たれるビームを見て流す涙は、きっとただ「友達が打たれているのに見ていることしかできない悲しみ」だけでなく、自分が今までのどれだけ無知で無自覚なままだったかを悔いる自罰の涙でもあったんじゃないだろうか。柱にもたれてしまいながら最後まで立って見ていて偉かった。

…ちょっと待って、今「無知を鞭打つ」って話しようとしてる?
最悪なんですけど!!!!!!!! 警察呼んで!!!!!!!!!!!!

とまあ(とまあ!?!?)鞭打ちのシーンはラーマだけでなくジェニーにとっても大きな転機となる場面だっただろうが、そこを深堀りして描写してる場合ではなかったというか、観客からすれば「待って今ビームの誇り高くしなやかな強さとラーマの地獄のような情緒を受け止めるので忙しいから!!!!!!!」ってなると思う。

ジェニーに関してはそこからかなり描写が、というか映る時間すらほぼ無くなっていたのがかなり潔い。前半とはまた雰囲気が変わってシータがキーマンになる展開だし、ビームとラーマのクライマックスだしね。
そしてビームに収容所の図面を教えたジェニーはもうただの優しい人ではない。白いブラウスで少し洗練された印象のあるジェニーが一瞬映るのみだが、彼女はもう目先の親切をしているわけじゃなくこの親切がどういう意味を持つのかちゃんと分かった上でビームに手を貸しているのだと思う。ビームもラーマの大儀、つまり「祖国のために」という大義がいかなるものかということに目覚めたあとなので、きっと向かい合う二人の心持ちは今までと全く異なっただろう。痺れる。そこもすごく観たいが、展開的に観客は「ラーマ兄貴を早く迎えに行って!!!! 他でもないビームくんが行ってくんなきゃヤダ!!!!!!!」って発狂しちゃってるところなのでやはり差し込む余地がない。
ジェニーももしかしたらラーマ逃しただけで総督ごと城を木っ端みじんにされるとはさすがに思ってなかったかもしれないけど、実際総督夫妻を裏切ることはしているわけだし(だってあの図面きっと国家機密的なものよね…?)、最後は笑顔でビームを迎えてるんだから本当大したもんだわ。

バーフバリとの違いのこと

実は私は『RRR』初見時直後、「バーフバリの方がすごかったかも…?」とちょっと思った覚えがある。ラーマ兄貴にガチ恋してしまったものの、ストーリーの強度とかは『バーフバリ』と比べるともしかしてちょっと地味…?なんて思ってしまったのですが、『RRR』に関しては何度も観るほどに、調べるほどに加速度的に面白くなっているという体験をしているところ。あ、もちろん『バーフバリ』も何回観ても面白いです。最高に興奮しましたし、「世界一面白い映画だ」ってはじめて観たとき本気で思いました。なんだけれども、『RRR』ほど気が狂わなかったかもしれないと思っていて、なので『バーフバリ』との違いを自分なりにちょっと整理してみようかなというメモです。

まず前提として神話的叙事詩をベースにした王宮ものファンタジーと、実在の革命家をベースとした歴史修正エンタメという時点でわりと毛色が違うので、優劣というより好みの差はあるだろうなと思う。あ、ちなみに『マッキー』はまだ観ていません、ごめんなさい。

違うなと思ったのはまず単純に台詞量。『バーフバリ』はその豪華絢爛で伝説的な叙事詩を形成するために、「語り継ぎたくなるような」「声に出して言いたくなるような」かっこよく装飾された名台詞が沢山あり、もはや全ての台詞を「名言まとめ」に入れてしまいたくなるほどゴージャスで恍惚的。キャラクターも濃ゆ濃ゆ、台詞も濃ゆ濃ゆで、「それなのに混乱もせずこんなに面白いなんてことが可能なのか!!」と度肝を抜かれた記憶がある。その突き抜け感と実現力がまさに『バーフバリ』が魅せた映画の魔法で、多くの人を今も酔いしらせているんだろう。

対する『RRR』は『バーフバリ』に比べるとだいぶ台詞量が少ないと思う。麗句を尽くして誰かを褒め称えたり、自身の考えや胸の内を比喩を用いてドラマチックに語るような場面が少なくて、どのキャラクターの見せ場においても台詞自体はわりとすっきりとした語彙でまとめられている。これはやっぱり『バーフバリ』と違って現代劇だからというのと、そしてラーマもビームも革命家としてはまだ無名時代の設定、というのも大きいんだろうと思う。
見せ場で口上らしい口上があったのはラーマの牢屋筋トレシーンとか、ラーマ覚醒時とかかな。『バーフバリ』はもっとあった気がする。それも主人公以外のキャラクターからもいくらでも「決め台詞」的なものが。

『RRR』はその代わりに表情で心情を語る部分が非常に多かったと思う。
ラーム・チャランさんは言わずもがなあの5メートルのまつ毛の奥の冷たい炎をたたえたような瞳が何とも信念と苦悩を反映していて素晴らしいし、NTR Jr.さんの表情のお芝居でも大好きなところがあって、それはジェニーからマッリの名前を聞いたときの目。「驚く」→「ようやく見つけたマッリの手掛かりにすがりつきたいような表情になる」→「この機を逃してはならないと切り替える」という感情の遷移があの短い時間の目のお芝居に全部表れていてすごくドキドキする。すごすぎる!!!
ラーム・チャランさんはどこかな…ラーム・チャランさんの目のお芝居も素晴らしいところいっぱいあるからな…。毒蛇に噛まれたあとの穏やかな目とか、友の血と共に涙を拭うところとか、マッリとビームを逃がそうとしてビームにトドメ刺されそうになったときの表情とかすごいですよね。死にかけてるとこばっかか。他はあれですかね、鞭打ちの処刑台を車の座席から見上げて、一瞬目を伏せて、もう一度見上げるところですかね…。同じ見上げている目なのに前後で微妙に変化をつけてるのがすごい。押し殺すように深呼吸しているのももうもう…助けてくれ…。

本作以外は『マガディーラ』くらいしかラーム・チャランさんの出演作をまともに観てないお前がラーム・チャランさんのお芝居を語るなんて厚かましいにもほどがあるという意見は謹んでお受けするのですけれど、『RRR』のラーム・チャランさんて「受け止め」のお芝居がめちゃくちゃ輝いてますよね。
誰かの言葉や、何かアクションを受け取ったあとのリアクションというか、黙って何か思慮している、葛藤しているという「内省的」な表情芝居にとっても魅力がある。それはラーマの「大儀」が中盤まで伏せられていたからそういう描写が多いってところもあると思うけれど。
その白眉がやはり鞭打ちのシーンでしょう。こわばった特別捜査官モードのラーマがビームを鞭打つあまりに辛い場面ですが、『コムラム・ビーム』の歌が始まってから徐々に表情が変化していきますよね。ビームを早く跪かせてこの時間を終わらせたいという気持ちと、それでも屈しないビームに心を揺さぶられて、どこかで跪かないでくれとも思ってしまいそうになる矛盾。情緒の乱れが御髪にも表れて、真っ赤で大層な制服とのギャップに観客も感情がぐっちゃぐちゃ。そしてビームの歌に心を動かされた民衆の反撃を見ている表情もめちゃくちゃ強調されてるんですが、あれは何。もう言葉で説明出来ないあのなんとも言えない表情。反撃する民衆の気迫や力強さを目にしたあの表情は、大義を秘める冷たい目の警察官とも、アクタルといるときのニコニコ兄貴とも違う、ラーマの中で何かが明確に変わったシーンですよね。観客としてもラーマの過去を知ったあとのシーンなので、ぐぐぐっと感情移入してしまうし、果たして彼は何を思うのか、これから彼にどんな変化が生じるのか、彼の大儀はどうなってしまうのか、と引き込まれる場面です。複雑な感情を内包した瞳と、揺れる髪がその、何あれ!? ラージャマウリ監督どう演出したの!?!?  ほんとにラーム・チャランさんの目と髪がお好きなんですね!!!!!!

これもまたインド映画スターニュービーがナマ言ってんじゃないわよって怒られたら「ハイッ!! 仰り通りです!!!」と膝を折るばかりの感想なのですが、NTR Jr.さんのお芝居を「役を自分のものにする」という堂に入ったタイプとするならば、ラーム・チャランさんは「役に自分を献上する」というちょっと不思議なタイプに見えるんですよね。憑依型とも違う、でも自己犠牲的ともちょっと違うのかなあ。どちらも高水準で見事に演じ切られているという点は同じなのですが、こうお芝居のアプローチの違いが感じられるのってめちゃくちゃ面白いなって思っているところです。

『バーフバリ』との違いに話を戻すと、次は「女性描写」と「恋愛要素」とについて。
『バーフバリ』では伝説の王バーフバリや、息子マヘンドラ・バーフバリがとっても強く気高い女性を見初めるのが最高に素敵。息子バーフバリとアヴァンティカはなんかもう「可愛い~幸せになって欲しい~」って感じで温かく見守っちゃう系だけど、父バーフバリとデーヴァセーナは共闘シーンがあまりに尊く、畏敬と憧れを本気で抱いてしまうような惚れ惚れとするカップルだった。
確か監督のインタビューで強い女性像を意識したというより性別関係なくインパクトの強いキャラクターを配置したかった的なことを仰っているのを読んだ覚えがある。カッタッパも最高ですし、暴君バラーラデーヴァでさえ魅力的ですもんね。
「映画を通して何かメッセージを訴えるつもりはない」と『RRR』のインタビューでも公言されている監督の作家性は確かなもので、あれだけ女性の強さや尊厳を尊重する描写がありながら、フェミニズムへの目配せ過ぎない、説教臭すぎないバランスが見事。というか適切にエンタメに組み込んでいるから観る側もちゃんとかっこいい、快感と思えるんでしょうね。

だから『バーフバリ』のその「強い女性像」、デーヴァセーナのような「もはや凶暴なくらいのかっこいい女性像」要素に感銘を受けた人はきっと『RRR』を物足りないと思うんだろうし、それは当たり前だと思う。実際ああいうタイプの強い女性は出てこないし、期待していた、好きだった要素がなかったわけだから。
ただ私もデーヴァセーナとか大好きなんだけど、『バーフバリ』全編を通した「強い女性像描写」の盛り具合は、本当に器に乗せていい量のギリッギリ(このギリッギリで調整できる監督の手腕がそもそもヤバイのだが)だったんじゃないかと思っている。個人の体感。

あともうこればっかりは慣れとか好みの問題なんだけど、男性と女性が顔を寄せ情熱的に踊り、指先で女性のお腹を「タララン♪」と奏でる所謂求愛ダンス的なシーン、最高にロマンティックでゴージャスで贅沢な気持ちになるけど、どうしても私「ひゃあ~~~~~~!!!!!!」ってなっちゃうんですよね~。どうにも照れてしまう。グロ描写とか全然もう真っ黒な目で真っすぐ見ることが出来るのに、情熱的でロマンティックで甘美なラブシーンはちょっぴり面食らってしまう。たとえば『マガディーラ』のハルシャとインドゥの追いかけっこダンスは可愛いな~って見てたけど、バイラヴァとミトラ姫の心が結ばれた時のダンスなんか「あらあらあらあら~~~~!!!!!」って感じで顔を覆って指の隙間から見たいぐらいの気持ちになるときがあって。
ただ私も恋愛要素ある作品が全面苦手なんじゃなく、『ゴッズ・オウン・カントリー』とか『アンモナイトの目覚め』とか、邦画で言うなら『アンダー・ユア・ベッド』とか『そこのみにて光輝く』みたいな恋愛描写がめちゃくちゃ好きなんです(なんとも言えない知名度の作品ばかりですみません、でも本当に好きで…)。傷を背負い世界の片隅に取り残された者同士が臆病なりに人を愛そうとする、人間の弱さみたいなものも内包している恋愛模様がどちらかというと好きで。あと内3作品は結ばれたときにがっつり性描写があって、むしろセックスが描かれた方が逆に安心するタイプでもある。(どうでもいい)
だからって『バーフバリ』の恋愛描写が無理って言ってるんじゃないですよ。ダンスは素敵だしロマンティックだし超最高だから何回も観てますもん。でも心の片隅に顔真っ赤っかにして縮こまっている私がちょっぴりいるんです、実は!!!!!!

そういう意味で言ったら、『RRR』はそこは構える必要がないというのがある。あくまで私の中では。ラーマとシータが想像するだに強い信頼と愛で結ばれているというのは明白だけど甘いシーンは皆無でどちらかと言うと「切ない」関係だし、ビームとジェニーに関しても何なら「友達」で落ち着く可能性だって十分あるように思えた。女性キャラクターの出番が控え目なのもラーマとビームという二大ヒーローを処理するには致し方なかったと思うし、二人とも闘う理由が『バーフバリ』のような女性の奪い合いや王位継承、親子・兄弟関係の確執ではないから、作劇としても必要性があまりなかったのではないかなと思う。
また『バーフバリ』は「強」「強強」「強強強強強」と、強い女性が何人も出てくるものの強さの種類が「タフ」で「男勝り」のインフレであった感がちょっぴりあったのに対し、『RRR』は女性描写が落ち着いているからこそ彼女たちなりのしなやかさを推し量れるし、彼女たちが出てくるとちょっと心が休まるような作用もあったと思う。あくまで好みの話で、『バーフバリ』はあの突き抜け感が魅力だと思っている。

そういえば先ほど挙げた恋愛映画のタイプで言うなら、私はどちらかと言うと台詞が少ない映画が好きなのかもしれないと思った。これも『バーフバリ』はその台詞の豪華絢爛さが作劇上とても効果的かつ不可欠だっただけで「台詞過多」「説明過多」とか言いたいわけじゃないんですよ。あの会話劇がむしろ快感ですからね。また『RRR』は植民地時代の実在の革命家や歴史を改変している点や、英国を悪役にした上で勧善懲悪を描こうとしている点においても、あまり大仰な、余計なことを言わないように抑制している部分があると思う。強すぎる言葉やキツイ言葉を使ったらそれを監督の「政治的メッセージ」と取られかねない題材だと思いますし。
意外と台詞は多くないのにアクションなどで満足度が高い傑作と言えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を思い出す。そういえば私は瀕死のフュリオサがマックスから輸血を受けながら名前を告げられるシーンが大好きなんだけど、ラーマとビームにも近しいシーンがあってすっごく感激しちゃいましたねえ…。命を救う、血を分ける、本当の名前を教える、この行為が同義であることが描写されるんですよね、うう、美しい!!!
あとあれだ、歴史修正エンタメも好きです。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も映画の魔法や人の祈りを心から信用しているから成立している歴史修正ものですよね。ラージャマウリ監督が勇気を貰ったと仰っていた『イングロリアス・バスターズ』も観ないと。『アンモナイトの目覚め』もちょっとニュアンス違うけど歴史修正ロマンスとして大好き。メアリー・アニングをレズビアンとして描いたもので、本作を「史実もの」として観ていた人々から「そんな証拠ない」と一部批判が出てたけど、メアリー・アニングのことや、メアリー・アニング研究家の視点、ヴィクトリア朝の女性の性の問題や、自然史の芸術的・視覚的想像力の歴史とか調べてたらだいぶ誠実で納得の行く創作だと私は思ったりした。
そういう風に、『RRR』ではどこが史実通りで、どこが史実から改変されているのかの軌跡を辿ることで監督の「祈り」や「願い」が感じられるという点もとても好きなのだと思う。映画を通して何かメッセージを訴えるつもりはないと仰っているけれど、それでも監督が「映画の魔法」を心から信用しているのは浴びるように伝わるし、それが「伝説的王宮ものファンタジー」だけでなく「実在の革命家の歴史修正エンタメ」というジャンルにおいても遺憾なく発揮されたことを嚙みしめているところ。

そして面白いなと思ったのが『マガディーラ』も『バーフバリ』も『RRR』も「悲劇をハッピーエンドに」というところは共通してるんですよね。
『マガディーラ』はバイラヴァとミトラ姫の悲恋を「転生」という奇跡でハッピーエンドにしてますし、『バーフバリ』は伝説的王の悲劇を世代を超え息子が代わって壮大な復讐を果たしている。そして『RRR』では個人的な事情を捨て祖国の自由のために闘い志半ばでこの世を去った(ガンディーほど有名ではない)実在の革命家たちが、映画の中だけでも、自分の命も、友達や恋人も犠牲にせずに悲願を果たせたとしたらという歴史改変が描かれた。ハルシャの活躍や、息子バーフバリの活躍に心が湧いたように、史実では投獄され処刑されたはずの英雄が、映画の中では唯一無二の友人と脱獄し暴れまわる姿そのものがカタルシスだったわけですね。
最後のラーマとビームは実在の銅像とそっくりのビジュアルとなりつつ、実際のコムラム・ビームのスローガン『水、森、大地』はラーマからもらった言葉だったとここでまた気の利いた創作を見せるあたりもまさに『映画』って感じですよね~。(実際のコムラム・ビームさんは元から読み書きが出来たそうなので)(そもそも出会ってないし)

批評のこと

なんでこんな色々書いているかというと、結局なんだかんだ批評家・夏目深雪さんの『RRR』の辛口批評に何か自分なりに反論が出来るかなあとかどこかで考えていたような気がする。
私よりずっと海外の映画や国際情勢などにもお詳しいであろうプロの方に素人が反論などおこがましいが、プロが言うならしょうがないと思考停止したり「難しいよね」と言って流してしまうのもちょっとなって思うし、何より作品に惚れた者としては「まず監督を信じたい」という思いがある。

夏目深雪さんの主な批判はざっくり4点
①過去作の二転三転するアクロバティックな作劇と比べるとストーリー展開が物足りなく感じる
②女性描写の後退、監督が得意とする男勝りな女性描写が、キャサリンの残酷な人物造形へと悪い方向に出てしまっている
③史実をフィクションとして編み上げ直すのに捻じ曲げていい事実の許容範囲を超えている
④モディ政権下でのヒンドゥー至上主義が映画業界に与える深刻な影響を注視すべき

①と③については、そもそも夏目さんが『RRR』を「史実フィクション」と捉えていて、「歴史修正エンタメ」と捉えてないゆえに出た意見なんじゃないかなと思った。この作品の「アクロバティックな作劇」とは「史実」を改変し、映画の中だけの新しい光景を作り出したところにあると思う。前述の通り『マガディーラ』の400年前の悲恋や、『バーフバリ』の王の死と言った「悲劇」部分が、『RRR』では祖国の独立を勝ち取るために闘い散った、名も無き革命家たちの「血と悲願の史実」に該当する(と思う)。そういうことならば私は本作を「アクロバティックな作劇が物足りない」とは思わない。
ちなみにこのコラムが出たあとに夏目さんはツイッターで『イングロリアス・バスターズ』について言及している監督のインタビューを引用して「腑に落ちた」と仰っていたが、監督が『イングロリアス・バスターズ』に歴史修正の勇気を貰ったというのはパンフレットの江戸木純さんのコラムにも書かれていることなので、そういうの読まずにコラムって書いても良いものなんだとちょっと思った。パンフレットなどの副読本はいったん置いといて、本編のみを観て批評することが悪いことだとは思わないけど。

あと「ストーリーの強度」みたいなことについて、自分でも最近『バーフバリ』を見返したりしたのですが、ストーリーというよりそのストーリーを繋ぐ「ドラマ」部分が濃厚なんだなと思った。バーフバリとデーヴァセーナの恋、シヴァガミとデーヴァセーナの嫁姑バトル、バーフバリとシヴァガミ親子の亀裂、そしてカッタッパとの信頼関係…。なのでストーリーにひねりがあるというより、そのストーリーを担う人物たちに濃厚な感情を通わせるためにしっかりとしたドラマを描いており、それが王道的ストーリーによく効いている、という構造なのかなと。
そういう見方をしたら『RRR』は登場人物も関係性もだいぶすっきりしていて、ドラマ部分もラーマとビームの友情関係がメイン。だけどそれゆえにかなり焦点が絞れているとも言える。『バーフバリ』は前後編合わせると『RRR』の2倍弱という尺の違いはあるものの、ラーマとビームの友情というドラマだけで3時間のストーリーを持たせてるというのは結構すごいことなのではないだろうか。
『マガディーラ』や『バーフバリ』の系譜で言えば、ラーマとビームの友情を知る第三者(カッタッパや、『マガディーラ』のソロモン的な)ポジションがいてもよさそうだけどそういうキャラクターは存在しないし(ラーマと一緒に警察に入ってた叔父さんでさえ、ビームとご飯食べたことあるのにラーマが逃がすと言い出したら「何故?」と言ってて結構シビアねえ!と思った)、パーティーでビームをいじめてた英国人のジェイクが『バーフバリ』のクマラ的なポジションでちょっぴり再登場して粋なドラマを見せても良さそうなのにそれもない。ジェニーがもっとマッリと接触するかと思ったけどそれもない。
ラーマの過去のエピソードについてもそこはあくまで「ラーマの血となる出来事」という距離感で描かれていて、親子や夫婦の関係性は最低限のやりとりで(でも的確に)描かれている。ヴェンカタとサロージニの筆舌に尽くしがたい夫婦関係を「私の戦いは お前の戦いだ」という言葉とそのリアクションだけで表わす手際の良さ。おそらくそのやりとりは知らないであろうラーマがのちにシータに「お前の勇気が私を勝利に導く」と告げる素晴らしいシーンはそのリフレインになっているのだと思うが、そこもやはり最低限の味付けで上品かつさっぱりしていて、あまりドラマドラマしていない印象。
つまり「見せ場しかない」と言われる本作でも意外と丁寧に緩急があってドラマをギチギチに詰めているわけではないから、もっと他の人物やドラマを盛ろうと思えば盛れなくもないだろうに、意図的に思えるほど「ラーマとビームの友情」以外のドラマを必要最低限まで削ぎ落してるように見える。それは監督が主演のお二人を信じて『バーフバリ』とはまた違った作劇に挑戦し、そして見事に成功しているからこそこれだけの人々を熱狂されているのではないだろうか。

すごく長くなっちゃいましたが夏目さんの批評に戻ります。元も子もないことを言いますが②についてはただただ好みの問題では? と思う。『バーフバリ』の頃から監督はフェミニズムを意識したわけではないと語っているし、というかおそらく監督は女性に対する(ある種畏怖に近い)敬意がそもそもあって、だから”フェミニズム”を意識して描く、という感覚自体お持ちではなさそうな気がする。
また『バーフバリ』では「強い女性像」が「タフ」「男勝り」の強調で、その突き抜けこそ当時は快感があったけれど、今新しく生まれる映像作品の「強い女性」のレパートリーが「タフネス」のみなのはちょっと疑問視され始めていないだろうか。
あともう一つの私の感想として、『バーフバリ』のシヴァガミ、デーヴァセーナ、アヴァンティカはそれぞれがとても魅力的な人物でありながら、同時に「責務」「復讐」「怒り」など作品全体の「感情」の役割が与えられたキャラクターにも思えるときがある。カッタッパはまさに「忠義」!
なのでキャサリン総督夫人は「強い英国女性」ではなく「残虐」という役割を与えられた、つまり擬人化されたキャラクターなのではないだろうか。そう思うと私はあのキャラクター造形がストンと胸に落ちる気がするし、「残虐」の権化であるならば、最後は凄惨な死を遂げるのがふさわしい。スコット総督は「冷酷」の擬人化で、その冷たく厳しいイメージの最期が髪を乱した命乞いと飛び散る血だなんて、最高じゃあないっすか…。(唐突なチェンソーマン)
監督はダイナミックなアクションに大事なのはそこに行き着くまでのエモーションだとよく語っておられる。そのエモーションとアクションの合致の上手さと快感は『バーフバリ』で鼻血が出るほど伝わっているが、『RRR』も経てみると改めて「驚くべきアクション」と共に「感情の濁流」が襲い掛かってくるのが最高の映画体験になっていたんだなと気付かされる。この感情の濁流を生むために、キャラクターたちにモチーフとなる感情が振り分けられていて、『感情の巨人』『感情の博覧会』『感情VR』を我々は目撃されられているのかもしれない、と考えると面白い。

④については不勉強で恥ずかしい限りだがインドの政治状況についてあまり分からないので正当な反論が出来ない。ただここまで挙げた内容で考えると、夏目さんは「本作を歴史修正エンタメではなく史実フィクションと捉えているがために改変や結末をやりすぎで安直だと感じている」のと、「『バーフバリ』でフェミニズムを感じた強い女性描写が、残虐な英国女性描写へと悪い方向に生かされていると捉えている」がゆえに、そういう政治的な影響を必要以上に感じ取るバイアスがかかってしまったということはないですか…?と素人なりに思ってたりします。プロにこんなこと言ったらぶっ殺されちゃうよ、どう転んでも私より頭良いし知識もあるんだぜ。でもだからって大好きな映画こき下ろされて黙っているのも癪なので言っちゃうんだ。監督だって「映画を通してメッセージを込めることに興味はない」と仰っているし、NTR Jr.さんもラーム・チャランさんも「映画はエンタメ、人を楽しませるもの」とそこに同意しているのだもん。彼らが嘘ついてるって言うのか。私はそう思いませんけどね!!!!!!

夏目深雪さん自身はその単語を使ってないが、やっぱりコラムの後半部分は「ナショナリズム」のことをお話しされているのかなあと思う。私は「ナショナリズム」とか「プロパガンダ」とか言われると「それどういう意味だったっけ…?」と毎回忘れるからその都度毎回調べている低能カス野郎でして、『RRR』でそういう批判がちょみっと出てきたときに改めて調べてみたりした。そしてそこで「国家主義と愛国主義ってどう違うのだろうか…?」と疑問に思って調べ直したりした。教養のある方で「その次元なの!?!?」って驚かれた方、ごめんなさい。私の知能の位置はここです。

以下、調べて出てきた記事の引用です。

例えば自国が外国に支配されたとき、独立を求めて戦うのはパトリオティズムなのでしょうか、それともナショナリズムなのでしょうか。

祖国の自由を取り戻すという意味ではパトリオティズムですし、自国の独立を求めて敵を排除するという意味ではナショナリズムです。両者に大きな違いは見いだせません。

【柴山桂太】愛国心とナショナリズムの対立?

パトリオティズムとは「愛国心」「愛国主義」のことだそうです。つまり「国家主義(ナショナリズム)」と「愛国主義(パトリオティズム)」は別物、と言い切ることは現実問題難しいというとっても分かりやすい解説。(ありがてえや)
また、だからといってパトリオティズムは良くて、ナショナリズムが悪い、みたいな単純なことでもないということも説明されてます。

『RRR』で描かれる勧善懲悪を私は「不当な支配に抗い闘う」物語とも取っているけれども、「独立のために他国を排除する」物語と観ることも出来なくはない。それは前述の通り『RRR』を「歴史修正エンタメ」ではなく「史実フィクション」と捉えていたらそういう風に感じる可能性はあるし、ビームの歌で”銃のない革命を知った”と言っていたラーマが最終的には武器を村に届けている点と、クレジットにガンディーが出てこない点を紐づけて「結局暴力を肯定している」「結局他害的な団結」と捉えていたら最後の晴れやかなエンディング曲も納得出来なくなるのかもしれない。

私も実を言うところ、初見のときに「あ、やっぱり銃は持って帰るんだね!?」と一瞬混乱した覚えがある。
だけど後日、天竺奇譚さんのnoteでインドの英国統治時代の歴史を読んだり、Mayo JapanというYoutuberさんのインタビューなどを見てBIG納得をしたのでした。

特にMayo Japanさんはクレジットにガンディーが出てこないことについてとても丁重にインタビューしてくださり、監督からとっても重要な意図を引き出してくださった。マジで素晴らしいインタビューだと思いました。
あと最近アッルーリ・シータラーマ・ラージュさんの日本語Wikiが出ましたけれど(ちょっと前まで日本語Wikiなかったですよね!?)、本当に警察署襲撃して武器奪いまくってたんですね!! これで映画の中のラーマが武器を村に持ち帰る展開を捻じ曲げてしまったらさすがに不遜。色んな革命家がいて、祖国の自由のために色んな考えや戦いがあって、そして結局完全な非暴力での抵抗も難しかったのが実際のインド独立だった。血を流さずにいれたらどれだけ良いか。でもそんなに単純なことではないですよね。

それから『RRR』の記事についてはBANGER!!!さんにも足を向けて寝れない。 特に同じテルグ語圏であるテランガーナとアーンドラが分割され不和が起きてしまったこと、そして『RRR』はテランガーナ人のコムラム・ビームと、アーンドラ人のA・シータラーマ・ラージュというそれぞれのヒーローが友情を結んだら…?というifの物語だったことが監督から語られていた記事は本当に勉強になりました。

https://www.banger.jp/movie/85137/

こういった情報を見ていても、やはりラージャマウリ監督はナショナリズムだとかプロパガンダだとか、そういう政治的メッセージからは巧妙に距離を置いている作家だと思う。もちろん監督なりに思うところはおありだろうが、それを自分の作る映画で消化することに本当に興味がないと思うし、あれだけ観客を楽しませることに全力を注いでる監督が、そんな皮肉や苦味を忍ばせることを望むだろうかとも思う。
もちろん映画というものが興行である以上「政治性」はつきまとうし(たとえばアーリアー・バットさんが本編では出番が控え目でもエンディングでは出ずっぱりなのは彼女が大人気の女優さんだからだろうとか、そういう意味の政治性)、映画が時代を投影するものである以上「社会性」も多かれ少なかれ反映されるのは当然だ。だけれどそういうのまで何でもかんでも「政治的メッセージ」「政治的プロパガンダ」として積極的に捉えようとする病にかかっている人が、一定数いるような気がしてならない。懸念や疑問を持つところまでは理解できるし、どんなことでも「手放しに有難がる」のは危ないかもしれないが、逆に積極的に断罪しようとするその姿勢はあなたの「懲罰欲」ではないと言い切れるのか、そもそも物事というのはそうやって簡単にカテゴライズして断罪していいものなのか、よく踏みとどまらずに執行出来るなあ、と思うのだ。

ということで私は『RRR』でなんかプロの批評家の真似事みたいな物言いで「ナショナリズムの闘いを絶賛していて危険」みたいなこと言ってる素人のSNS感想は、ラージャマウリ監督のBIG LOVEの前では紙切れ同然だなあと思うわけでございます。これは夏目さんの話じゃないです。むしろ夏目さんみたいなプロの批評家からの受け売りの言葉をまるで自分の評論かのように鼻の穴膨らませて引用してそうな層の話です。急に喧嘩売るじゃん。

でもなんかそういうの見るんですよね。素性も分からないのに毎回もっともらしい感想書くからちょっとフォロワーが多いぐらいの映画アカウント(中身は素人)がよお、自分の主張を通したいがために都合の悪い情報から目を逸らしてこき下ろしたり、シンプルに誤解してたり見間違えたりしてるだけのことを発信して以後訂正せず垂れ流すのとか見てるんですわ。自分が映画より上などと思うなよ!! 映画批評の基本は「自分は映画より下」ってところからなんだからな!!!!
私の好きな映画評論家・森直人さんがそう仰ってました!!!!!!!

終わりです!! 長すぎた!!! シメ最悪!!!!! すんません!!!!!
【今日の学び】上手な文章は着地が大事。

じゃ、復活IMAX行ってきます。


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