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『シン・エヴァ』の何がすごいかーひろゆき氏への返答、二度同じことを繰り返すこと

『シン・エヴァ』観てきました。なんなら3回観てきました。

様々な不評理由があるみたいですが、そのうち二つに対して、「でもやっぱエヴァすごい」を打ち返してみたいと思います。

不評理由その1:結局、設定の詳細が最後まで明かされないからつまらない

一緒に観に行った人の感想でした…。言いたいことはよくわかりますし、『Q』の時はあまりの「訳のわからなさ」に腹が立ったのも覚えています。そして、『Q』の「訳のわからなさ」が『シン・エヴァ』で全て解決されないことへ怒りを覚えるのも理解できます。

しかし、「訳のわからなさ」は一種の舞台装置として機能しています。もちろん、考察の余地が生まれたり、難解なものへの憧れを観客に呼び起したり、という機能もあります。特に、「難解なものへの憧れ」は私がエヴァにハマった理由でもあります。

一方で、『Q』の「訳のわからなさ」はそれ以外にも機能があります。つまり、訳のわからない理由で、かつシンジのせいで世界が滅び、でもよくわからないけど「世界を救う」手段があり、完全に謎な理由で失敗する。「世界を救う」とはいえ、一種の自己保身(=槍を抜けばみんなまた優しくしてくれる)ゆえにその「訳のわからなさ」に便乗する形になるわけです。

『シン・エヴァ』においてもシンジは再び「世界を救う」ことをしますが、その意味は180度かわっています。すなわち、リアリティ(=第三村)で立ち直っているシンジは「相補性」のある世界を求めるという強い目的意識があり、自己保身ではなく他者への思いやり(⇒相補性)にあふれた行動になっています。

このようなコントラストを描き出すための舞台装置であったことがよくわかります。

また、さらに面白いのが「(ゲンドウが求めている)シームレスな世界」vs.「相補的な世界」という対立にオーバーラップする形で「イマジナリー」vs.「リアリティ」が展開されているという点です。

この場合、「イマジナリー」な世界とは、(狭義の)アニメや漫画の世界、つまり現実にはあり得ない美しい(かつ病的な)友情や恋愛関係が描かれる、ある意味シームレスな世界のことです。一方、「リアリティ」の世界(現実世界、ないし「リアル」なアニメや漫画の世界)は相補性を目指す以外手段がない世界です。すなわち、べったりとした阿吽の呼吸の世界ではなく、相手の自分の差異を認めて、人間関係を共創する世界です。

そういった意味で、庵野監督にとっては(おそらく)「人々がエヴァにすがらなくてよい世界」が理想であり、シンジに『エヴァのない世界』を目指させます。

つまり、『シン・エヴァ』はただのアニメではなく、「アニメを見るという行為」についてのアニメ、すなわちメタ・アニメだと言えるのではないでしょうか。

不評理由その2:新劇場版は蛇足だ

以下、ひろゆき氏の発言。(編集動画をもとに作成した引用なので、実際の発言が異なっている恐れがあります。)

エヴァンゲリオンは終わらせないことで、ずっと何度も何度も作り続けてお金儲けをするって言うのを、庵野監督の奥さんの安野モヨコさんが提案して。それに乗っかった結果、庵野監督の株式会社カラーという会社はずっと黒字で回っているんですけれど。(中略)僕としてはそれは蛇足と言ってもおかしくはないんじゃないかなと思っていますけれども。

ひろゆき氏の考えは決して否定できないと思います。(実際に確かめられませんが)会社存続のための新劇場版というのは十二分に考えられると思います。

それでは、「蛇足」であるから観に行くべきではないのでしょうか。(ちなみにひろゆき氏は観に行くかもとは言ってますが…)

『Q』公開直後の岡田斗司夫と東浩紀の対談でも、「同じことを二度やるひとは好きじゃない」的な批判を二人して庵野に食らわせていました。
(また、「新しい世代が旧劇時代のエヴァを追体験したいだけ」的な発言もしていました。結果的に、『シン・エヴァ』は旧劇現役世代にものすごく刺さったわけだし、東はご存知の通り絶賛してる)

言わんとしていることはよーくわかります。ある物がヒットすると、それと同じような物(小説であれば続編?)を求める消費者が一定層現れます。

同じことを繰り返す(同じような物を生産する)とは、その一定層の消費者のニーズに合わせた商業精神が見え隠れするような気もします。(たぶん、この理由でback numberが嫌いになったんだと思います。)

それでも、『シン・エヴァ』をぜひ見てほしいです。というのも、TV版や旧劇場版のときよりもアヴァンギャルドな表現にチャレンジしていて、60歳のおじさんがまだまだ果敢にチャレンジしている姿だけでも感動します。

また、映画のメッセージ性も自信の経験を踏まえてパワーアップしているのは間違いないです。

私はこの映画を通して、二度同じことを繰り返すことは一概に悪くないことだと感じました。つまり、それを自分にとって新しい経験として繰り返そうとする限り。

(これはキルケゴールの<反復>という概念に近い気がします。もちろん、キルケゴールの概念は「原罪」を個々人が反復的に経験することを指しているみたいですが…。)

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