アルセントのZM #3

さて。「三十六歌仙」についてZMざっくりまとめをやると言ったので、やっておきましょう。

そもそも・・・・・・

「三十六歌仙」とは、村上天皇の第七皇子である具平ともひら親王藤原公任ふじわら の きんとうにより柿本人麻呂かきのもと の ひとまろ紀貫之きの つらゆき、どちらが優れているか論戦が交わされ、敗れた公任が選定した『三十六人撰』を元とするくくり。

1. 柿本人麻呂かきのもと の ひとまろ

飛鳥時代の人。歌集に名前はあるが、歴史書にはなく、詳しいことは分かっていない。

・足引きの 山鳥の尾の しだり尾の  長々し夜を 一人かも寝む
ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

2.紀貫之き の つらゆき

嵯峨さが天皇に日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』を献上したこと、赴任先の土佐国から京へと戻る道中についての日記を女性として書いた『土佐日記』が有名。

・人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける

3.凡河内躬恒おおしこうち の みつね

甲斐権少目かいの ごんのしょうさかん丹波権大目たんばの ごんのだいさかん和泉権掾いずみの ごんのじょう宇治 権掾うじの ごんのじょうなど地方官を多く務めていた。

・心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊しらぎくの花
・照る月を 弓張りとしも いふことは 山辺をさして いればなりけり

4.伊勢いせ

宇多うだ天皇の中宮である温子おんしの女房として仕え、自らも宇多天皇との間に皇子を産むがその子は早世する。その後、宇多天皇の第四皇子である敦慶あつよし親王と結婚し、中務なかつかさ36番)を産む。

難波潟なにはがた みじかき芦の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

5.大伴家持おおとも の やかもち

出自は皇別こうべつ〔臣籍にくだった皇室の子孫〕と恵まれており、大宝たいほう二年(702年)に無位むいながら遣唐使の少録しょうさかんとして留学している。
『万葉集』所収の農民の苦しい生活を詠んだ『貧窮問答歌ひんきゅうもんどうか』や『子等こら思ふしのう歌』が有名。

・憶良らは 今はまからむ 子泣くらむ それその母も を待つらむそ

6.山部赤人やまべ の あかひと

正史に名前が残っておらず、下級官僚であったらしい。また、神亀じんき天平てんぴょう年間の歌しか残っていない。

・田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
(『万葉集』に収められたこちらが本歌)

7.在原業平ありわら の なりひら

父親は平城へいぜい天皇の第一皇子である阿保あぼ親王、母親は桓武かんむ天皇の皇女である伊都いと内親王という高貴な身分の生まれ。しかしながら、薬子くすこの変の結果、皇統が嵯峨天皇の系統に移っていたこともあり、父が得た勅許ちょっきょを以て、臣籍に下っている。

容姿が端麗だったらしく、『日本三代実録』内で卒去そっきょ〔亡くなること〕を伝える記事に「体貌ハ閑麗ナリ、放縦ほうしょうニシテ不拘かかわらず」〔「放縦」・・・気ままであること〕と記されるほど。『伊勢物語』の主人公に擬せられることもある。

・ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
・世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
・唐衣 着つつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ

8.遍昭へんじょう

俗名は良岑宗貞よしみね の むねさだ仁明にんみょう天皇の時代に蔵人を務めていたが、天皇の崩御に伴い、出家する。
天台宗の僧侶である円仁・円珍に師事し、現在、京都の花山にある元慶寺がんけいじを建立する。

・天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

9.素性そせい

遍昭が出家する前に生まれた子。仁明天皇の第七皇子である常康つねやす親王が出家して雲林院うんりんいんを御所とした際に父とともに出入りを許され、親王の薨去後もここに住んでいた。

・今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな

10.紀友則き の とものり

紀貫之の従兄弟。40歳を過ぎるまで無官でありながら、様々な歌合うたあわせ出詠しゅつえいしている。
 『古今和歌集』の撰者に選ばれるが、完成を見ずに死去している。

・ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

11.猿丸さるまる

元明げんめい天皇の時代〔平城京への遷都せんと前後〕とする説や元慶がんぎょう年間〔880年前後〕とする説があり、詳しい素性すじょうが分からない人物。
『古今和歌集』の「真名序」に「大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也」とあるため、それより前の時代の人物ではあるらしい。
また、下に掲げる百人一首にも入る和歌もまた本人の作でない可能性がある。

・奥山に 紅葉もみぢ踏み分け 鳴く鹿の こゑ聞く時ぞ 秋は悲しき

12.小野小町おの の こまち

絶世の美女であるとはやされがちであるが、実際の絵や彫像が残っているわけではなく、出自も謎に包まれている。

・花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に
・思ひつつ ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを

13.藤原兼輔ふじわら の かねすけ

娘の桑子そうし醍醐だいご天皇の更衣こうい〔妃の一人〕であったため、その皇太子時代から仕えていた。
即位にあたって昇殿も許され、庇護も受けつつ順調に出世し、最終的には従三位じゅさんみに至った。
曾孫に紫式部がいる。

・みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

14.藤原朝忠ふじわら の あさただ

左近衛将監さこんえの しょうげん春宮とうぐう侍従〔後の朱雀天皇〕を経て、従五位下じゅごい の げに叙された。
朱雀天皇が即位すると、武官を務めながら位階を上げていった。一時期近江守おうみの かみに転任するが、左近衛中将さこんえの ちゅうじょうとして京に戻ってくると参議に任じられたほか右衛門督うえもんの かみ検非違使別当けびいしの べっとうを兼務していた。
また、笛やしょうが得意であったことが伝わっている。

・逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

15.藤原敦忠ふじわら の あつただ

藤原時平の三男として生まれ、武官として順調に出世していった矢先、38歳で急死。
これを父の讒言ざんげん〔言われのない悪口〕によって大宰府に左遷された菅原道真の怨霊によるものとする噂が流れた。

・あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり

16.藤原高光ふじわら の たかみつ

藤原師輔ふじわら の もろすけの八男として生まれ、九歳で父と参内した際、村上天皇の前で『文選もんぜん』と『三都賦さんとのふ』の序を暗誦あんしょうして天皇を感嘆させた逸話が残っている。
その後、姉が村上天皇の中宮であったことから有していた叙位権を利用して授爵すると、翌年には侍従として任官し武官を歴任していた。
しかし、父の師輔が亡くなると出家。少なからず世間に衝撃を与えた。

・春すぎて 散りはてにける 梅の花 ただかばかりぞ 枝にのこれる

17.源公忠みなもと の きんただ

光孝こうこう天皇の孫。掃部助かにもりの すけを経て醍醐天皇に六位蔵人ろくいの くろうどとして任じられ、仕えた。
醍醐天皇の崩御ほうぎょに伴い一度職を辞するが、朱雀天皇のもとで再任され、一時期は地方官を務めながら順調に出世していた。

きやらで 山路暮らしつ ほととぎす 今一声の 聞かまほしさに

18.壬生忠岑みぶ の ただみね

出自が不明かつ下級武官でありながら、『古今和歌集』の撰者せんじゃに抜擢されるほど実力は一流であったとされる。
後世においても、藤原定家や藤原家隆から作風を評価されている。

有明ありあけの つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし

19.斎宮女御さいぐう の にょうご

名は徽子きし。〔または「よしこ」とも〕醍醐天皇の皇孫にあたり、身位〔皇室内部の身分〕は女王。
伊勢神宮の斎宮〔天皇の名代として伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王、女王〕であった叔母である斉子せいし内親王が急逝したことにより自らが斎宮となる。約7年後、母親が亡くなったことでその地位を退いた。
しばらくしたのち、村上天皇のに請われて後宮に入り、女御となった。
父である重明しげあきら親王譲りの和歌と七弦琴の腕前が有名であったとされている。

・琴の音に 峰の松風 かよふらし いづれのをより しらべそめけむ

20.大中臣頼基おおなかとみ の よりもと

もとは祭司をつかさどる家系で、神祇官かみづかさでキャリアを積んでいった。
 宇多上皇に信任され、上皇の主催する歌合への参加が記録されており、和歌の腕前は息子たちに受け継がれていった。

・ひとふしに 千世をこめたる 杖なれば つくともつきじ 君がよはひは

21.藤原敏行ふじわら の としゆき

清和天皇のときに大宰少弐だざいの すないのすけ図書頭ずしょの かみ、陽成天皇のときに因幡守いなばの かみ右兵衛権佐うひょうえの ごんのすけを歴任した。
宇多天皇の時代は病気がちである一方、皇太子である敦仁あつひと親王〔後の醍醐天皇〕の下で春宮大進とうぐうの たいしん、春宮すけを務めた。
また、書家としても名高く「三蹟」として有名な小野 道風おのの とうふうが空海とともに名を挙げるほどであった。

・すみの江の 岸による浪 よるさへや 夢のかよひぢ 人目よくらむ
・秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

22.源重之みなもと の しげゆき

村上天皇のとき、皇太子の憲平のりひら親王〔後の冷泉天皇〕の護衛者である帯刀先生たちはきせんじょうを務め、親王の即位後は近衛将監このえの しょうげんとなった。
円融天皇に代替わりしてからは地方官を歴任しながら歌合への出詠を行なっていた。

・しら浪の よりくる糸を をにすげて 風にしらぶる ことひきの松
・風をいたみ 岩うつ波の 己のみ くだけて物を 思ふころかな

23.源宗于みなもと の むねゆき

光孝天皇の孫として生まれたが、源姓を賜って臣籍に下る。醍醐天皇の在位中、前半は武官を歴任したが延喜十二年(912年)に三河権守みかわの ごんのかみを兼務してからは朱雀天皇の在位初期まで地方官を務め、その後承平じょうへい三年(933年)に右京大夫うきょうの だいぶとして京に戻った。
歌合への参加のほか、紀貫之(2番)や伊勢(4番)とのやりとりが残っている。

・山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も 枯れぬと思へば

24.源信明みなもと の さねあきら

源公忠(17番)の子。〔第何子かは分かっていない〕父が蔵人を辞した際に入れ替わりで蔵人となった。式部丞しきぶの すけを務めたあと、任命された国司に代わって実際に任国へ赴く受領ずりょうとして地方官を歴任していた。

・ふる雪の 下ににほへる 梅の花 しのびに春の 色ぞ見えける

25.藤原清正ふじわら の きよただ

藤原兼輔(13番)の次男。
朱雀天皇、村上天皇の時代の宮廷歌人として著名。

・ほととぎす かねてし契る ものならば なかぬ夜さへは 待たれざらまし

26.源順みなもと の したごう

若い頃から博学で有名であり、醍醐天皇の第五皇女である勤子きんし内親王の求めを受けて日本初の辞典と言われる『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう』を編纂へんさんしたことで知られる。
また、『うつほ物語』や『落窪おちくぼ物語』の作者として擬せられることがあり、『竹取物語』についても作者とする説がある。

・夕されば いとどわびしき 大井川 かがり火なれや 消えかへりもゆ

27.藤原興風ふじわら の おきかぜ

昌泰しょうたい三年(900年)、父親と二代続けて相模 掾さがみの じょうに任命された。一時期、治部少丞じぶの すないすけを務めたあとは地方官を歴任した。
官位は低かったものの、歌合への参加が多く記録に残っている。

・誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

28.清原元輔きよはら の もとすけ

天暦てんりゃく五年(951年)に河内権少掾かわちの ごんのしょうじょうに任命されるが実際に赴くことはなく勅撰和歌集〔『後撰和歌集』とされる〕の編纂へんさんにあたっていた。
寛和かんな二年(986年)、79歳という高齢で肥後守ひごの かみに任じられ、そのまま当地で卒去そっきょ〔亡くなること〕。
娘は『枕草子』で著名な清少納言。

・ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは

29.坂上是則さかのうえ の これのり

高祖父は蝦夷えみし征討で有名な坂上田村麻呂とされる。
醍醐天皇の御前で蹴鞠けまりが行われた際、200回以上鞠を回されながらも落とすことがなく、天皇から絹を下賜かしされたという逸話が残っている。

・朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

30.藤原元真ふじわら の もとざね

丹波介たんばの すけを務め、歌合への出詠を行なって選抜もされていた。

・思ひつつ 夢にぞ見つる 桜花 春はねざめの なからましかば

31.小大君こおおきみ

系譜については全くの不明。
円融天皇の中宮、藤原媓子ふじわら の こうしに女房として仕えたほか、三条天皇の皇太子時代に下級女房として仕えた記録がある。
また、藤原兼光ふじわら の かねみつの子である藤原朝光ふじわら の あさみつと恋愛関係にあったらしい。

・いかに寝て 起くるあしたに 言ふことぞ 昨日をこぞと 今日をことしと
在原元方ありわら の もとかたの「年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年こぞとや言はむ 今年とや言はむ」を踏まえている〕

32.藤原仲文ふじわら の なかふみ

冷泉天皇から円融天皇の在位中にかけて地方官を歴任していた。

・おもひしる 人に見せばや 夜もすがら 我がとこ夏に おきゐたる露

33.大中臣能宣おおなかとみ の よしのぶ

大中臣頼基(20番)の子の一人。
伊勢神宮の斎主を務めたほか、冷泉天皇と円融天皇の大嘗会だいじょうえに和歌を詠進している。

・みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼はきえつつ 物をこそ思へ
〔しかし、能宣の作ではないという説がある〕

34.壬生忠見みぶ の ただみ

壬生忠岑(18番)の子。摂津大目せっつの だいさかんなどを務めたことが分かっている。
沙石集しゃせきしゅう』に村上天皇によって開かれた「天徳内裏歌合てんとくだいりうたあわせ」で平兼盛たいら の かねもり35番)に敗れ、悶死もんし〔もだえ死ぬこと〕したという話が収められているが、信憑性に乏しい。

・恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

35.平兼盛たいら の かねもり

光孝天皇の子孫ではあるが、細かい系譜に疑問が残されている。
役人としては、京と地方を行き来していた。

・しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで

36.中務なかつかさ

父の敦慶あつよし親王が中務卿なかつかさの かみであったことからこう呼ばれる。
源信明(24番)と関係が深く、娘が太政大臣の藤原伊尹ふじわら の これただに嫁いでいる。

・桜花 散りかふ空は 暮れにけり 伏見の里に 宿や借らまし


途中がダレているな。一定のペースで書き続けられるよう精進します。

ちょっとでもいいな、と思っていただけたらサポートいただけるとうれしいです。 VTuberになるための一歩に利用します!