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保護者が教師の評価をしたところで何もいいことはないというごく単純な話

Good Morning Alps!
おはよう伊那谷。

2024年5月6日 日曜日(だが今日ではない)

先日、大人同士(Not 教育関係)で話していて、「小学校の学級崩壊は、保護者が担任や教師の批判や評価を子どもの前ですることから始まるケースがある」という話になった。

4月、新学年。新しく学校に着任したベテランの先生が、担任クラスの保護者懇談会で、「今は子どもたちとの信頼関係を構築中です。どうか親のみなさんにおいては、家庭で教師の悪口を言わないようにお願いします(何か意見があれば直接言ってね)」という旨をサラッと伝えていた。

そんな当たりまえのことをわざわざ言語化して伝えないといけないのかと重く感じる。実際、あちこちで保護者が二人三人集まればカジュアルに教師を批判、批判までいかずとも「評価」しているのを見聞きすることは多い。

学校に通うのは大人ではなく子どもなのに。
保護者視点でいえば、子の担任はいわば「よそのシマの上司」、観察はするけれど評価の対象外の存在だと私は思っている(異論は認める)。

親が担任の文句を言う。批判をする。評価をする。それを聞けば、多くの子どもは親を信用する。同じ文言をコピーしていく。学級でペーストする。こうして広まれば学級崩壊につながることもあるし、広まらなかったとしても、その子どもの中では教師に対する不信感が芽生える。カジュアルな「評価」は、単なる表現の自由を超えて、子どもへの影響が大きい。そのことを大人は自覚しているだろうか。

私が教師を信用しなかった理由

小学校中学年の頃を思い出す。
私の父は、私が通っていた小学校の教頭先生と取引をしていた時期があった。「業者」の父が学校に電話をかけると、職員室での取次で長く待たされた挙げ句に不在を告げられたことも多かったようで、当時「教師には社会人としてのマナーが足りない」「民間の会社だったら考えられない対応」のようなことを話していた。

教頭先生は校内えらいポジション第二位の人だと私は思っていたし、親しみやすかった。それでも、父の話で「大学を出て社会を知らずに教師になっている」という評価を間に受けていた。父が極端だったのか、当時の教頭先生や学校現場が世間知らずな対応をしていたのか、実際はわからない。でも、残念なことに小中高と(主観で)その評価を覆すほどの素敵な教師には出会えなかったので(むしろ尊敬できない教師に出会うことの方が多かった)、私は教師を信頼することはなかったし、教師を目指したいと思うこともなかった。

子どもにとって、父が口にした「評価」の影響は大きかったように思う。残念ながらその評価をなぞる体験しかできなかったので、私は教師を慕うことはなかった。同じ小学校・中学校に通った兄には恩師ができたので、私のごく個人的な受容の問題かなとも思う。その後も、私の中には「教師は世間知らず」というイメージが根強く残っていた。我ながら雑なイメージを描いているし、そもそも主語がデカい。

それがこの10年間で保育や教育の現場を目の当たりにする機会を持てたことで、ようやく、自分の実体験をもとにした印象を持つことができた。

人と人、感じること思うことはあっても、子どもを間にはさむことはしない。もし「よそのシマの上司」に何か思うことがあれば、私はタイマンで話をつけにいこうと誓っている。

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