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「生きがいについて」の源流へ
7月6日土曜日。
岡山県日生に向かった。駅前の桟橋から長島愛生園行きの船に乗るためである。
参加したのはガイド付き無料のツアー。
12時15分出発
16時半 日生着
リンクがうまく貼れないが「長島愛生園」「ツアー」で検索すればすぐに出てくる。
ずっとここに行ってみたかった。
それは数年前に出会った本から始まっている。
神谷美恵子著
「生きがいについて」
生きがいについて (神谷美恵子コレクション) https://amzn.asia/d/0bsd4MwO
長島愛生園に精神科の医師として勤務した神谷先生。島で出会った患者たちとの交流の中で生まれた本だ。
長島愛生園は1930年、日本初の国立療養所として設立された。療養といっても患者たちの病名はひとつしかない。
ハンセン病
癩病とも呼ばれた病気である。今は良い薬があり完治するが、昔は原因不明、感染力が強い上に治りにくいとされ、隔離して療養するしか道はなかった。隔離のために「島」は最適だと考えられ、色々な島が候補に上がったが、最終的にこの長島に建てられることになった。
大人でも子どもでも、感染が判明するとこの島に連れて来られた。そして一生この島を出ることは叶わなかった。さぞつらかっただろうと思う。家族と離れ、生まれ育った土地を離れ、1人で島に入る時はどんなに心細かっただろう。
当時、絶望して自ら命を絶った人もいた。しかし、この島で病を抱えながらも前向きに生きた人たちもいた。「生きがいについて」はそういう人たちを支えたものは一体何であったかを神谷先生が患者たちの生き様を交えながら論じている本だ。
読んだ時は衝撃を受けた。
人間の底力。どんなにひどい状況でも他者のために尽くそうと思うその尊い気持ちが誰の中にもあるのだ、ということがずしんと心に響いた。
神谷先生は当時神戸にお住まいで毎日船で療養所まで通勤していた。というのを読んで、では今住んでいるところからそんなに離れていないんだ、ぜひ行ってみたいと思うようになった。そして今回のこのツアー参加になった。
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日生は岡山県だが、赤穂のすぐ隣なのでほぼ兵庫県といってもいい。我が家から車で小一時間である。「カキオコ」牡蠣のお好み焼きでも有名な街だ。
ツアーの最大人数は80人とあったが、この日の参加者は30人くらい。それでも問い合わせたら満員と言われたので、そこは謎である。座席は外にもあるが中にもある。中はクーラーがついていて快適。この日も猛暑。見学の時に倒れないように中の席にした。
長島に着くまでもたくさん島がある。鹿久居島、頭島、大多府島、鴻島など、色々な島を見ながら進むと長島が見えてくる。ところがなかなか着かない。後でわかったのだが、行きだけ船が長島をぐるりと一周するように進んで、まっすぐ行けば30分くらいのところが1時間くらいかかった。ちょっと失敗したなと思うのは、長島を間近に見えるのが右側で、わたしは左側に座ったので、海から見える長島の施設などはあまり見えなかった。帰りに見ればいいや、と思っていたら帰りは全然違う航路で見えなかったのだ。
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この青い橋などは行きにしかくぐらなかった。この橋は1988年に本土と島を結ぶ橋としてかかった。別名「人間回復の橋」。隔離が必要ではなくなった。島の外に自由に出られるようになった、と元患者さんたちは大層喜んだそうだ。
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やっと船着場に着く。ここでガイドと入居者の方が出迎えてくれた。入居者は元患者の男性で
「今日はよく来てくれた。短い時間だから島の4分の1くらいしか見れないがしっかり見ていって」
えっそうなの。長島って大きな島なんだ、ということをここで初めて知る。
ツアー開始。いきなり上り坂である。帽子を被り、首に冷え冷えタオルを巻いて500メートルくらい歩くと歴史館に到着。
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ここでハンセン病とは。そして今までの歴史を教わる。ハンセン病は慢性の感染症で温度の低いところで活発になる病気で、指先、足先の感覚がなくなり、顔の神経に作用して瞬きができなくなる。
怪我をしても火傷をしても気づけないので、重症化しやすく、瞬きができないので失明する人が多かった。
1945年に特効薬ができて劇的に良くなった。今、この島に居住している人たちはもはや患者ではない。完治している。
が
完治しても一度失った指や失明した視力は良くならない。それらは後遺症、障害として一生残ってしまう。外見上目立つ障害なのであまり外に行きたくない、家族ももう誰も生きていなくて帰る場所がない。色々な理由で病気が治ってもこの島で生活する人は80人くらいいるそうだ。
視力を失ったら普通は点字などで本を読んだりするが、指先の感覚がない、あるいは指自体を失った人たちは指で文字を辿ることもできない。それで「舌読」と呼ばれる唇や舌で点字を読んだそうだ。聞くだけでも壮絶な話だ。
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元患者さんの体験を記録した映像も少し見た。その方は女性で10代で発症。お兄さんに送ってもらったが1人になったら心細くてずいぶん泣いた。でも周りの人はみんな優しかった。お茶をくれたり「疲れたでしょう?」と声をかけてくれた。夜になると空に銀河が見えてとても美しかった、と語っておられた。
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歴史館を出て次は元患者さんたちを乗せた船のついた桟橋に向かう。私達が降りた桟橋は昔の職員専用だったらしい。ここで患者たちは家族と別れ、持ち物やお金も没収される。そして「収容所」という建物で「消毒風呂」に入らされる。
収容所
と聞くとやはり「アウシュビッツ収容所」を思い出してしまう。ただここに収容された人たちは「患者」で、ここは「療養所」なのでアウシュビッツのようにひどい環境で強制労働させられることはなかったし、もちろんガス室で殺されることもなかった。
ただ
島を出ることはどうあっても許されなかった。逃亡を図った患者は有無を言わさず「檻房」に入れられた。
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一部しか残っていないが高い塀、その中にさらに二重に部屋が作られていたそうだ。もちろん懲罰の意味で入れられるので長くても10日くらいだったそうだが、何も見えない場所に閉じ込められるのは恐ろしかっただろう。
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しかしもっと恐ろしいのは外の人間たちだった。
差別感情はずっと人々の中に残り続け、病気が治ったのに家族からは「帰ってくるな」と言われる。旅行すればホテルで宿泊を拒否される。
死んでお骨になってからも受け取りを拒否される。
それで島には大きな納骨堂がある。4000人近い人たちが眠っているという。しかし骨壷に記された名前はほとんどが偽名だという。名前から出身が特定されたら家族に迷惑がかかるから、という理由らしい。とても辛くて悲しい理由だ。
この人たちは罪を犯したわけではない。
病気になりたくてなったわけでもない。
困難を乗り越え病気を治したのに、それなのに残りの人生も自分の思う通りには生きられないのか。
あまりにも過酷だと思った。
ガイドの人の話では、病気を発症した親についてきた子どもたちは発症しなければ島の外に出ていったという。島には高校まで学校もつくられ、そこで学んだのだという。その学校の授業のなかには「嘘」についての授業があったそうだ。
外の世界に行って「どこの出身?」と聞かれたら、この島だと正直に答えなくていい。どこでもいい。自分の好きなところを出身地として答えていい。通わなかった学校の名前を書いていい。こういう「嘘」はついてもいいんだよ、と教えたのだそうだ。
これも本当に切ない。
差別はする方が悪い。
でも差別はある。
だから差別から自分を守らなければならない。傷つかないために。
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いろんなお話を聞いて改めて青い海を見ると遠藤周作の言葉を思い出した。
人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりに碧いのです
帰りの船に乗る時、ついた時に出迎えてくださった入居者の方々見送りに来られていた。
その方に握手したいと言うと快く承諾してくださった。
「生きていてくださって本当にありがとうございます。どうぞお元気で」
手を握り、言いながら涙がこぼれた。
この島には1人でも多くの方に訪れてほしい。心から切に願っている。
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