”与えること”とは

コースに出会ったのが2018年1月2日。もうすぐ丸4年になる。

ここへきて、ふと”与えること”とはどういう意味なんだろう?と
ようやく疑問に至る。
『与えることは受け取ること』とはコースを学んでいれば耳にタコができるほど聞くセリフ。何度も何度も、解説を聞き一時期は知った風になり、すぐにまたよくわからない状態に戻るの繰り返し。

しかし、そもそも”与えること”の意味をわかっていないから『与えることは受け取ること』も理解できないんじゃないだろうか?と思い至る。

与えること=愛のまなざしで兄弟をみること

愛のまなざし=キリストのまなざし=赦しであり癒し

と理解している。

そうすると、”与えること=視ること”と捉える方がしっくりくるのではないか。

今まで、私がこの世界で使ってきていた「与える」という単語には、物理的に何かものをプレゼントするという意味合いがとても強い。その固定概念がどうにも邪魔をしてコースを学んでいてもイエス兄さんの言わんとする”与える”を素直に受け取れなかった。

その上、テキストにもワークブックレッスンにもそこここに”贈り物”という表現があり、そこからもクリスマスプレゼントのような綺麗に包まれた箱をイメージしてしまっていた。

なので、『与えることは受け取ることです』と言われた時には「何を与えればいいのだろう?何をこの人にしてあげられるだろう?」と”行動”をすぐ考えてしまっていた。『受け取ることが先』と言われれば相手の言動を元に「確かに一見攻撃に見えるあの態度もあの中にあの人の優しさがあったのかもな」とあくまで”解釈”を変えただけで、真に相手の神聖性を見ようとしなかった。

”与えること”とは相手の無罪性をみることなのに。

「与える」には意思が介在する

この世界で誰かに「与える」時は、そこに必ず自分の意思がある。
プレゼントにしろお金にしろ、私がこの人にあげたいと思わなければ与えない。
例え、目の前にあるお菓子をあげようと思っていても、無断でとっていかれるとムッとする。自分の意志であげてないから。
子供の時から何百回とプレゼントをあげたり貰ったりと繰り返してきた過去の記憶から「与える」という行為をするときは必ず自分の意思が伴うものだと思い込んでいる。

  1. 与えようと決意する

  2. 実際に与える

この二つの時に、どちらも自分の意志が伴うのがこの世界。
ここも混乱の元であった。

コースの”与える”ときは
『2.実際に与える』のは聖霊である。
私は、ただ与えます(兄弟の無罪性を見たいです)と決意する時だけ自分の意思が反映する。
祈りの中で、どうにもこうにもうまくいかない時というのは「与えなきゃ」と自分でしようとしていた時。聖霊にお任せしていない時だった。

”贈りもの”とは

今日の私のレッスン162の中(奇跡講座下巻レッスン162.4.3)にも
「すべての贈り物」「それらの宝物」という表現があり、このような表現はテキストにもたくさんある。「すべて」や「それら」という単語から「複数」をイメージする。『神の愛』ってひとつしかないのに?と混乱する。
「すべて」とか言われちゃうと、すぐにエゴがやってきて「じゃあさ、君の願いのあんなことやこんなことも貰えるんじゃない?」と囁く。分離の信念がブワーッと広がる。

そこで、はたと気付く。
あ、これってエコーのことかと。
エコー(奇跡講座下巻祈りの歌.第1章Ⅰ-2.8~3.4)
確かに、この幸せな夢の世界でも「たくさんの贈り物」を受け取るんだろう。
だけどそれはあくまでエコーであり、エコーを求めてもエコーだけは返ってこない。エコーを与えようとしても”神の愛の歌”がなければ与えられない。
私が祈るのは”歌”だけであり、与えたいと願うのも”歌”だけでありたい。

与えるとは真の解放?

実在しないものは存在しない。
存在しないものは与えられない。
与えられるものは実在するものだけ。
実在するものは神の愛だけ。

では、愛を与えるとは?

『兄弟をキリストの愛のまなざしでみること』
であるなら、赦ししかないわけで。

「与えよう」として与えるものではなく
「兄弟の神聖性を見たいです」と祈り聖霊に見させてもらうことが
結果的に『与えていた』ことになるのだろうか?

兄弟の神聖性・無罪性をみるということは、兄弟の中の自分の神聖性・無罪性を
みるということ。つまり、自分の神聖性・無罪性を受け取るということ。
自分も相手も十字架から下ろす。
私にもあなたにも罪など最初からなかったと、改めて思い出し解放する。
あなたは私でした、とひとつであることを知覚する。

『与えることは受け取ること』というのは『全一である』と認識することかな?
と今は理解する。だから同時に行われる。

もう少し学びが深まれば、もっと整理され「頭」で考える余計な些事は減っていくのだろうと思う。
混乱はよくない。混乱は学びを遠ざける。
どこで混乱しているのか、よく観察して(この世界の幻想を引き込んで読んでいるから混乱しているのだけど)見誤っていることを一つずつ紐解いていくしかない。

幻想は一つずつ聖霊に預けて手放していきたい。
私は、神が創造したままの私であるから。

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