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NOという勇気は経年劣化する

数年前の僕は、気軽にNOと言えた。自分の思う最適解に向けて直進し、間違っていると思うことを直球で否定できた。

だけど今では、自分にとっての「最適解」が誰かにとっては最適ではないことを知っている。誰の目から見ても明らかな最適解があるのであれば、既に満場一致であるはずだ。そうでないということは、僕にとっての最適解と誰かにとっての最適解が違うということだ。背景が違い、考え方が違い、守るものが違い、だから最適解が違う。
この前提に立つと、自信を持って意見を伝えるということは少し難しい。

かつての僕は、自分の正しさを盲信していた。自分の正しさを納得させるために意見を言えた。

だけど今では、「自分の正しさを納得させること」は論理で人を殴っているだけで何も前進しないと知っている。本当に何かをよくするために自分の考えを伝えるのであれば、同じように相手の考えも引き出し、対等にテーブルに並べ、公平な条件で議論をしたほうがいい。
そういった議論のテーブルを整えるときに、NOと言うことや否定をすることは回り道になりがちだ。どんなに個人を否定せず意見や事象だけを否定したとしても、否定を受け取った側は警戒したり身構えたり怒ったりする可能性はある。
議論のテーブルにうまく着席してもらうためには、穏便さがキーとなることがしばしばある。

かつての僕は、互いの意見が違うことを理解しあうために、はっきりとNOと言えた。

だけど今ではそれすらも諦めてしまうことがある。お互いの違いについて理解し合えれば、違いに配慮しながら対話することができるようになるかもしれないし、尊重する気持ちが増すかもしれない。だけれども、そういう期待を持つことを諦めて、互いの違いから目を背けるだけでもそれなりに何とかなるか……と思ってしまうときがある。
どことなくギクシャクした余所余所しい関係で仕事をしていても、そこまで大きな問題が起きることなく進行するケースはある。関係性が改善されればより良く進行することがわかっていても、現状が困っていないなら波風立てないことを優先してしまうことがある。

そんな事例を重ねているうちに、NOという勇気はすっかり経年劣化してしまった。

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