正しさアレルギー。「憤り」が分からないヒューマン

正しさという奴が、ずっとうっすら嫌いでいる。

例えば真面目に生きること、人のために働くこと、戦争に反対すること、人に優しくすること、差別に反対すること。3食バランスよく食べること、親に感謝すること、夜遅くにカップラーメンを啜らないこと、大学を卒業すること、煙草を吸わないこと、ポルノをラジオ代わりに飯を食べないこと、エアコンのフィルターを暑くなる前に掃除しないこと。辛そうな人に手を差し伸べること、むやみやたらに暴言を吐かないこと、一日を寝っ転がっているだけで終えないこと、殺された人間の冥福を祈ること、人の誕生を祝うこと。

一部テキトーなのもあるが、おおよそ僕が「正しいんだろうな」と感じながらも嫌いだったものたちだ。正確には「きみたちはこういうのを正しいとしているんだろうな」という具合だけど。

昔から、正しいとされることが好きになれない場合が多くて、なんか変な方向へ走ろうとしては、生来の臆病さから大して面白いところに着地することもなく終わる。だから、一生“正しさ”に縛られるという点では、ある程度あきらめをつけている。別に倫理観がまったくもってオワってるというわけでもないので。

そんな中でもちょっとしたきっかけがあると“正しさ”についていろいろ思い巡らせてしまうときはあり、今回はTwitter(俺は飽きるまでTwitterと呼ぶ)でフェミニズムに関するマンガを読んだときだった。以下、引用。そこそこボリューミーだけど全部読んでくれると嬉しかったり、別に嬉しくはなかったりするかもしれない。

先にどうでもいい話するけど、この見せ方めっちゃ上手いよね。1ページ目に、いかにもTwitter民がレスバを引き起こしそうなところをアップで出しておくやり方。なんかこれも好きになれねえんですけど、効果はあるだろうし人のことは言えないので「巧みですね」以上のことは言えません。実際、このツイートはかなりバズっているし、2話目は1枚目のインパクトが少し控えめで1話目ほどはRT・Fav(俺は飽きるまでこの表現を使い続ける)も回ってなかった。どうでもいい話・ジ・エンド。

いったん僕の立場をなるべく明白にしておくと、たぶんフェミニストではないし、どっちかというとアンチフェミニスト寄り。というのも不謹慎・不道徳な表現という奴が肌に合うので、特に表現規制とか、そういう活動をやろうとしている人とはウマが合わないだろうなと思う。

例えば、このマンガの2話では、自らフェミニストを名乗る女性が「その性別に属するだけで差別、抑圧、搾取されることって おかしくない?」と語っている。これを「おかしい」と言い切れる人がフェミニストであるならば、僕は違うな~となる。言い切れない理由は大きくふたつあり、それは「程度による」と「どうでもいい」というワードでだいたい表せられると思う。

まず「程度による」という話。この世の中、差別、抑圧、搾取っていくらでもあるじゃないですか。それらがぜんぶ野放しで良いとまでは言わないが、性別由来のものをことさら取り上げる必要は薄く感じる。というかこの話も「その性別に属するだけで」と付ける必要ってあるんだろうかとは思う。「誰一人として差別、抑圧、搾取されないのが一番いいじゃんね」というスーパー無邪気なポーズをとることだってできるわけで。

結局のところ、差別・抑圧・搾取のどれをとっても、ある程度は許容しなきゃいけないのがリアルじゃないだろうか。それを変えたいと願うのを悪いとは言わないけど、結局どこかで誰かは差別されているんじゃないだろうか。じゃあ、俺にはどうしようもないし適当に諦めをつけときましょうか……というイメージ。実際、これまでも差別というのは是正されるべきだ、という価値観で世の中は進んできているので、昔に比べたら「分かりやすい差別」は減っていると思うんですよね。知らんけど。突き詰めていったときにどこで線引きをするかってのはけっこう難しいと思う。

とはいえ、これに関してはフェミニズムが女性の権利拡大を謳いがちななか、僕自身が男性であるから簡単に諦めをつけられるという見方は大いにある。だから「男のお前の意見なんぞ意味ないわ」と言われてしまうと引き下がるしかなくなります。グッド・バイ。

さて、どっちかというと今回のnoteの核はもうひとつの「どうでもいい」という感情の方です。これまた意識の低さが露見しているんだけど、正直なところ、誰かが差別されていても、搾取されていても、割とどうでもよくないですか。というか、僕自身も見方によっては差別・抑圧・搾取されているだろうし。それでもボチボチ生きていけるだけマシじゃないですか。いや、生きていくのはぜんぜんマシな行いじゃないのでこの話はナシにしてください。

結論から言えば、僕には「○○はおかしい」と主張する、“憤り”が欠けている。理不尽を認知しても「まぁしゃーない」「そういうこともある」「ちょっと我慢すればいい」みたいなところに落ち着きがちなんです。先に補足しておくと、別にこれを美徳とは思っていません。ただ、そういうものなんですよね。正しさの持ち合わせがない、それだけ。

で、世の中で“正しさ”を主張する人たちって、おおよそ“憤り”を持ち合わせていることが多い。「正しくないけどどうでもええか~」みたいな人は主張しないから当たり前なんですけど。ついでにくわえると“正しさ”がバックについてるから気が強くなっているパターンも多い気がする。この辺はフェミニズムに限った話をしていませんので、悪しからず。

これを踏まえて冒頭の正しさアレルギーを見つめなおすと、なんか「正しさそのもの」というより、「正しさを主張する人間」が嫌いなんじゃないか? という気もしてきますね。やっぱり分からないものって嫌いになりがちだから、憤りを持ってる人間を嫌いになるのかもしれない。彼らは憤りの良さを知っているかもしれないけど、僕には分からないから距離が生まれてしまうというか。「なんか好きになれないタイプ」にカテゴライズしてしまっているというか。

一方で、憤りを持つこと自体を悪いとはそれほど思っていなかったりもします。ハチャメチャな理由でキレてたらさすがに引くけど、憤りの背景がまっとうというか、訳の分かる理由で怒っているなら、そんなに悪印象は持たないような気がしますね。むしろ「ちゃんと理不尽に対して怒れる」というのは憧れのポイントでさえある。

それでも、どうしても、うっすらと“正しさ”が嫌いなのは……それが社会の中で生きていくうえで求められる要素だからかもしれない。我々は社会生活を送るとき、一定の範囲内の正しさに収まっている必要がありますよね。毎日朝いちばんに人殺しをしないと目が覚めないという人は、なかなか生きるのが難しいだろうから。

だから、正しさを色んな人が主張するたび、なんというか生きていくのに求められるレベルが上がっていく気がしている。そしていつかは僕自身や、僕が好きな人や、好きな表現がつまみ出されてしまうんじゃないかという不安がある。「こうでなくてはいけません」が、小さいころから恐ろしく苦手だったんですよ。もしはみ出しちゃって、それでも人生が続いていくとしたら、あたしどうしたらいいの?

別に善性をまるっきり捨て去ろうと言っているわけじゃないのだ。素朴に、間抜けに、カスのまま死にたいと言っているのだ。なんかずんだもんみたいになっちゃっけど、でも言いたいのは本当にそういうことです。

まぁ結局、だれが正しいかなんて殴り合いながら一緒に考えていくしかないかもしれない。だから俺は妄信できる神様が欲しいと思っているけど、なかなか現れてもくれないものですね。仕方がないからテキトーに諦め、折り合いをつけ、今日も動植物の死体を食べました。

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