輝きの粒

 私は新聞を読むのが好きだ。世の中では様々な出来事が起こり、様々な人々が活躍し、そういう社会の動きが一つ一つ輝きの粒として私の心を楽しませる。私は一つ一つの社会的な出来事の記事を読み、そこで確実に社会の活力を感じ、その社会の活力が粒のように輝くのを口に含み嚙み砕く。すると私の口の中には得も言われぬ美味が広がる。
 新聞だけではない。例えば私は高いところから街並みを眺めるのが好きだ。そこにはささやかながら人々の生活が営まれており、道路には自動車が通行し、人々がそこに生きていることが輝かしく見える。特に夜街を見下ろすとそこはまさに輝きの粒でいっぱいだ。私はその輝きの粒を噛み砕き得も言われぬ美味を感じる。
 私は自らの人生において、特に何も出来事がなくても、命が脈打っているのを日々感じている。それは私自身の命でもあるし、家族の命でもある。自分たちがただ生きながらえていること、それも人生の各段階において違った風合いを見せていくこと、そこの命の営み自体にも輝きの粒があると感じる。
 だが、この輝きの粒は客体として存在するのではない。それはむしろ私自身に現象しているものである。輝きの粒は世界の側にあるというよりは私の身体の側にあり、私が自らの身体から生み出している光のようなものが世界から反射されて輝きの粒として見えるのである。だから、私は自らの身体の状態に応じて世界の側に輝きの粒を作り出し、そこに得も言われぬ味わいを感じているのである。
 私にとって詩とはまずこの輝きの粒のことであり、それは言葉になる以前に私の身体が生み出すものである。それが世界や人生の側に投射されて私と対象との照応が生じる。輝きの粒はただ感じているだけでよい。だが、それを言葉として表現することは輝きの粒をより展開していくものであるし、言葉として表現されることで輝きの粒は一層その美味を増すのである。それは他者と共有できる輝きに変わるのである。輝きがただ粒としてあるのではなく、他者との共有の場に展開されていき、より輝きを増すということ。詩作品とはまさに輝きを粒からより大きな広がりとして展開していくものである。

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