オードリー・ヘプバーンとアンネ・フランク

2020/06007投稿
〜オードリー・ヘプバーンとアンネ・フランク〜

好きな映画女優を1人あげよ、と言われたら、自分は間違いなく "オードリー・ヘプバーン" を上げるだろう。初めて彼女の映画を見たのは、そう、淀川長治さんが解説をしていた日曜洋画劇場の「ローマの休日」だった。子供ながらになんと美しい女性だろう、と思った。あの映画のラストシーンも素敵だった。映画を見終わった後、何とも言えないさわやかな感動がいつまでも心の中に余韻として残った。しばらくはあの映画以上に感動した作品にはお目にかからなかった。

その彼女は多くの作品に出演している。「ローマの休日」の後、オファーが殺到したからだ。いろんな役をこなしている。娼婦の役なんかも。彼女は決してどんな役でも「No」とは言わなかった。そんな彼女だが、たった1つだけオファーを断った作品がある...

ヘプバーンは1929年、ベルギーに生まれ、その後第二次世界大戦の足音が聞こえてくる1939年、オランダのアルンヘムに母とともに移り住んだ。オランダは当時、中立国だったために安全だと考えたのだ。ところが1940年になってドイツ軍がオランダへ侵攻。一夜のうちに街中にドイツ兵が溢れた。彼女は終戦までレジスタンス活動をひっそり続けながら連合軍に解放されるまでを過ごした。戦時中、ドイツ軍がオランダの物資の提供をたったため、彼女は栄養失調に苦しみ、チューリップの球根の粉で作った焼き菓子で飢えを凌いだ。この頃の回想で "駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にした。その時の私はそれを見届けることしか出来ない無力な子供だった" と答えている。

この頃、奇しくもヘプバーンと同じ体験をした、ヘプバーンと同じ世代の女性がいた。アンネ・フランクだ。ヘプバーンはアンネが自分と同じ世代の女性で、近い場所で過酷な体験をした末に命を奪われたことを後に知る。

アンネ・フランクの生涯を題材にした映画のオファーが来た時、ヘプバーンは "あの聖女を利用して金儲けなどできない" と断ったそうだ。オランダでドイツ軍と対峙しながら飢えを凌いだ彼女にとって、アンネ・フランクのオランダでの屋根裏部屋生活がどこか重なって思えたに違いない。だから前述した言葉が出、オファーを断ったのだと思う。

晩年はユニセフの親善大使として餓死寸前の子供たちのために孤児院を多く慰問した。ヘプバーンはこうも言っている。
「我々はともに一つの世界に暮らしているのです。人道上非常な苦難に直面している多くの人々がいるのだということを、世界中が認識してほしいと願っています」...と。

映画「ローマの休日」より

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