ポットのお湯はどこへ行った。
ウチは薪ストーブで暮らしている。
昔ならいざ知らず今時、薪だけで暖房している人はかなり珍しいかも知れない。
それで薪は夏の間にせっせと薪割りしている。
薪ストーブには冬の間中、ポットが載っている。お湯を沸かすためだ。
今日も、ポットに冷たい水をたっぷり入れて、薪ストーブに載せている。
薪が燃え始めてストーブがゆっくり暖まってくると、ポットの水も少しずつ温度が上がってくる。でも見た目は何も変わらない。
しばらくして薪が燃えてくると、ポットの水はさらに温度を上げて、お湯になり始める。
ゆらゆらとポットの中の水は揺れているように見える。
さらに勢いよく燃えてくると、ある瞬間にポットの底から1つ目の泡が立ち上がってくる。
ポットはまだ触れるくらいの熱さだ。
また、しばらくすると2つ目の泡が立ち上がってきた。そして少しおいて3つ目の大きな泡。ボコっと音を立てて立ち上がってきた。
ポットのお湯はかなり熱くなってきている。
薪も勢いよく燃え続けている。
ポットの底から次つぎと泡が立ち上がってくるようになった。
もう触れないほどの熱さだ。
薪ストーブは、赤々と燃えている。
ポットの蓋がカタカタと音を立て始めた。
立ち上る泡は無数となり、もう鍋底のいたるところから渦を巻いて上がってきている。
勢いよく湯気を出し始めた。ついに沸騰したようだ。蓋は湯気の力でどこかへ飛んでいってしまった。
そのまま、しばらく置いておく。
ずいぶん時間が経った。
湯気がだんだん少なくなって、気がつくとあれほどにぎやかに蓋を踊らせていた湯気は見えなくなっていて、静かになっている。
と、ここで中を覗いてみる。何も無い。。。空っぽだ。たっぷりと水を入れたのになくなってしまった。
ポットのお湯はどこへ行った?
そう。あの水は湯になり、沸騰して水蒸気になって空気に溶け込んでいったのだ。
なくなってしまった、とも言えるが、形が変わって見えなくなっただけ、とも言える。
お湯として利用したい立場からは「無くなってしまった」と言えるし、部屋の湿度を保ちたい立場からは「それで良い」ということになる。
水を構成する分子の立場からは、沸点まで熱っせられたから、ポットから飛び出すことができた、というだろう。
お湯を「ひとつの固定された存在」としか見ることが出来なければ、物事の一面しか見ていないことになるし、水という存在のすべてを「わかった。」と言うことはできない。
知性により、観点を変えることができれば、あるいは両方の在り方を同時に認識できれば、物事をより柔軟に捉えることが出来るようになる。
我々はまだまだ知らない事だらけで、特に「自分が物事を正しく見る」という意味すら知らないことを、知っていなければならないのだ。
さて、ポットの話に戻ろう。
最初の一つ目の泡は仏陀、二つ目はイエスとする。
では三つ目は?
そして、あなたは?
水とは?
湯とは?
薪とは?
炎とは?
蓋とは?
という哲学的なお話でした。
田舎暮らしの話だと思って
読み始めた人はごめんなさい。
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