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自分を知って好みに合わせる

最近引っ越しをした。自分が暮らしやすいように少しずつ環境を整えている。

携帯の機種変もしたが、主に何を使うかと考えて使いやすいようにしていく。

仕事を始めた。職場のテーブルの上も使い勝手がいいように整え、パソコン画面の横に付箋を貼ってすぐ案内できるようにしている。

そんな当たり前のことを自分自身の内面についてはしてこなかった。

基本に「自分はダメな人だ」という思いがあるから、様々なアドバイスや意見を180℃違うものでも、そのままを取り入れていこうとして結果うまくいかなくなる。

自分がどういう人なのか、自分の好みは何なのか、引っ越しや機種変などはわかることなのに、人間関係や考え方、やり方に関しては私の好みを考慮することがなかった。

今となれば何でそこ結びつかなかった?となるけど、自分がダメだと思っているから私の好みで選ぶことはわがままだと思い込んでいた。

物を買って、自分の使いやすいようにしていくように、人間関係も考え方も私に合わせて選んで整えていけばいい。

以前は、いろいろなタイプの人がいるが、それをえり好みするようなことは人としてやってはいけないことだと思っていた。

人を悪く思ってはいけないし、そう思うことは自分が悪い人だからだと思っていて、イヤな思いをしてもそう感じる自分がダメだと思っていた。

自分に合わせて選んでいくことはわがままで、いろいろな人の良いところを理解して付き合っていけない私がダメなんだろうと。

そうするとイヤな思いをしても誰にも言えないし、それでも私がイヤな思いをしたという感情はなくならないから自分の中に黒いものが溜まっていき、そしてどんどんダメになっていく。

自分自身がダメな人間だと思っていてやってきたことが間違っていたと知った。

いろんな人がいて全ての人に合わせていくなんてそんなことができる人は人間ではなくて神の領域。

でも自分がダメなわけじゃないと思うようにすると、今度は私と合わない人の方がダメだと思うようになった。

「これがダメなんだ」という特定の何かがないと、そこにすべての原因があると決めつけないと私はやれないの?

合わせられない私がダメなわけでもないし、私と合わなくたって当然ダメじゃない。

合う、合わないは善悪ではない。

これが多様性を認めることにつながるんだろう。

そのためには私が何が好きでどういう考え方を好んでいることを知っていないといけない。これまで知らなかったし知ろうとしてこなかった。

仕事で教えてもらう時、教え方が違うから「この人の教え方は怖いからちょっと…」と思って敬遠するけれど、それはダメだと思っていたがダメではない。

教える人はたくさんいて、どうしてもその人だけから教わらないといけないわけじゃないから、私が怖いと思わなければいいというものでもなく、別の怖いと感じない人から教えてもらえばいいだけ。

教え方も人それぞれだから、怖い教え方の人も、私以外の人は真逆にこの人の教え方がわかりやすいと思うかもしれない。

私が怖いと感じないようにするでもなく、怖い人が教え方を変えていく必要もなく、棲み分けをしていけばいいだけの話。

私自身がどういうのが好みなのかをもっと追究して人生を選んでいきたい。

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