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東京での思い出


18歳で上京し、最初に暮らしたのは阿佐ヶ谷駅の近くだった。

ただ、阿佐ヶ谷に住んだのはほんの一年だったので、思い出はあまり無い。当時は大学に入学したばかりで街を楽しむ余裕もまだ無く、駅前のサンマルクにばかり通っては大学の課題を黙々と片付けていた記憶がある。
ピンクの壁やブランコが可愛い喫茶店「gion」やジェラートで有名な「シンチェリータ」などなど素敵なお店が沢山あるこの街を楽しみ切れなかったことには、今でも後悔が残る。ただ、のちに社会人になってから『A子さんの恋人』(阿佐ヶ谷の街が舞台の漫画)を読んだことで、その気持ちも多少なりは昇華させることが出来たように思う。

その頃は阿佐ヶ谷よりもむしろ隣駅の高円寺のお店によく行っていた記憶がある。中でも「アール座読書館」というお店(店内で一切会話ができない、読書のための喫茶店)には当時頻繁に通った。18,9の頃で、まだ心が弱く柔らかかったため、アール座に置いてある本はなんでも飲み込むように読んだ。アール座の蔵書が今の自分の言語になっていると思うし、大島弓子や銀色夏生にはあそこの本棚で出会った。さらに好きが高じて、上の階にできた姉妹店で半年ほど店員として働いた。
2階3階ともにかなり人を選ぶ…というか、合う・合わないの差が激しい、薬のようなお店だったが、だからこそ、あそこで知り合った人との間には秘密の魔法を共有し合うような結束があった。短くも大切な期間だった。

高円寺には「Bernet」や「那由多」のような素晴らしい古着屋さんもたくさんあり、アルバイトの行き帰りによく立ち寄ってはワンピースやスカートを買ったのも懐かしい。

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上京2年目からは、通学していた早大の裏手にある小さなカフェで働き始めた。ここの環境が私にはとても合っていたようで、シフト外の時間でもずいぶん長いこと入り浸っては、仲間たちといろんな話をした。大学生特有の、あの、時間が無限に引き延ばされているかのような感覚。贅沢だったと思う。そのお店は今はもう無くなってしまったため、尚のこと、私にとって幻のように甘く恵まれた日々として記憶されている。

他にも「キャッツクレイドル」や「シャノアール」、「10° bar」、うるカフェ系列のお店…などなど、私と同世代の早大生が愛していたお店の多くも、やはり閉店してしまった。どの街もこうして新陳代謝していくものだと分かってはいても、拭えない寂しさがある。

高田馬場で飲む時はなぜか大抵「海峡」に行くことが多かった。異様に大きい唐揚げを一生懸命かじったり、毎回なぜか仲間内の誰かが頼むホットミルクを〆に飲んだりするのは、馬鹿馬鹿しくてとても楽しかった。「丸実商店」でよく古着を買い、時々「早稲田松竹」に映画を観に行き、テスト期間にはよく「10° cafe」に行った。「moon walk」は馬場以外にもたくさん店舗があると知ったのは結構最近だ。みんなが共有している早稲田〜馬場の日常の光景を、私も同様に、今も懐かしく胸に抱いている。

ゼミの教授は馬場とは逆方面の神楽坂を好んだので、期末テスト後の打ち上げにはよくゼミ生全員で大学から歩いて神楽坂へ行った。期末テスト最終日は大抵神楽坂のお祭りの日と同じ日で、石畳の通りにほおずきや提灯がならぶあの景色がテスト明けの開放感と重なって、毎年とても楽しかった。

他にも神楽坂には色々と思い出がある。

上京したばかりのやるせない不安感と焦りを打ち消すためになぜかフランス語の勉強に打ち込んでいた時期があり、2年生の夏休みには日仏学院の夏期講座に数週間通った。あの建物や周囲の空気感は独特で、学校というより、本当に「小さなフランス」に通っていたような感覚があった。大学生の頃長いこと好きだった人とはじめてデートしたのは神楽坂下の「カナルカフェ」だった。六義園で紅葉のライトアップを見た帰りに何故か小一時間かけて神楽坂まで散歩し、寒い寒いと言いながらカナルカフェのデッキで温かいお酒(ホットワインか何かだった気がする)を飲んだのをよく覚えている。

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大学を卒業し社会人になるのと同じタイミングで、それまで応援していたアイドルとは別の系譜?のアイドルを応援し出すようになったため、日比谷・有楽町界隈によく足を運ぶようになった。
職場からのアクセスもよく、家からもそこまで遠くなかったので、次第に土日平日を問わず・観劇予定の有無に関わらず、あの辺りで過ごすことが増えていった。

「やりたいこと・得意なこと・自分のアイデンティティとの向き合いかた・周りからどう思われたいか」・・・、そういうものとの格闘に敗れ、疲れ切った心で社会に出た。「好きじゃないことを仕事にしたから」の言い訳が常に先に立ち、ここ一番で努力する勇気が持てない自分がいた。それでも、仕事が早めに終わった日に、丸の内から有楽町方面に向かう路地の密やかな薄明かりの中を散歩する時間だけは、悪くないな、と思えた。とりあえず今はこの街で、目の前のことを頑張ってみよう、と思えた。

皇居の方角に向かってにじむような夕焼けが落ちていく夏も、宝石のようなイルミネーションを見ながら頬に冷たく硬い空気を感じる冬も。仲通りを有楽町方面に向かって抜けていく風景には、何度も何度も心を救われた。

東京で唯一、自分は紛れもなく’’常連客だ’’、と言えるくらい通ったお店が、有楽町の喫茶店「紅鹿舎」だった。社会人になった翌年、帝劇の帰りに初めて訪れて以来、昔からある喫茶店特有のどっしりとした佇まいと、常に明るい生命力に満ちた店内の雰囲気の虜になった。朝から夜中まで毎日開いている店内は、曜日や時間帯によって表情が変わる。長年使い込まれたカウンターの向こうでテキパキと無駄なく、でも決して機械的ではない感じで働く店員さん達の動作から溢れるエネルギー、目の前で注いでくれるコーヒの味、焼きカレーやハンバーグのあたたかみ、カフェスコールやモカルシオンのような甘いドリンク、綺麗な色使いのカップ。すべてが有機的に輝いていて大好きだった。

それこそ日比谷付近での観劇帰りに友達と感想を語り合う際に重宝する立地だったし、なにしろ遅くまで開いているので、お酒を飲んだあとに二軒目で行くこともあった。近くの映画館(TOHOシネマズのシャンテの別館?が好きで、とてもよく通った)で一人で映画を観た帰り、胸を打たれて放心しながら行ったこともある。レディ・バードを観た時だったかな・・・。シャンテの2階にある書店「HIBIYA COTTAGE」は棚に並ぶラインナップが独特で、いつも新しい関心や刺激をもらえる場所だった。ここで買った本を持ち込んで紅鹿で過ごしたことも何度もある。色んなことが辛かった時期、ここのピザトーストを一口齧ったらボロボロと涙が出てきて、そのまま泣きながら完食したこともある。

以前、日比谷で働いている人と数年ほど付き合っていた。平日の夜に待ち合わせをする時はいつも少し早めに近くまで行き、紅鹿でコーヒーを飲みながら相手の仕事が終わるのを待った。連絡が来れば、カップに少しだけ残しておいたコーヒーを飲み干して店を出た。その人に初めて渡したクリスマスプレゼントは銀座のバーニーズで買ったネクタイかマフラーか何かで、プレゼントに添えるメッセージカードを紅鹿のカウンター席で書いたこともなぜがよく覚えている。

ありとあらゆる日常と、その時々のたくさんの感情をこのお店に受け止めてもらった。今はただ、そういう、自分にとっての栞のような場所が東京にも出来てよかったな、と思う。

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おそらく一昨年の11月上旬だったと思うが、平日の夜の時間帯に、日比谷のミッドタウンの前の大階段の広場でラ・ラ・ランドの野外上映が行われたことがあった(東京国際映画祭のイベントの一環で、野外上映イベント自体は毎年やっているらしい)。

頭の中でふと「私にとっての東京らしい光景」って一体何だったかな、と考えてみる時、なぜかこの夜のことが真っ先に浮かんでくる。

偶々その場に居合わせた人たちと一緒に大階段に並んで座り、巨大なスクリーンを見つめた。劇場や映画館が並び立つ日比谷の夜空にラ・ラ・ランドの音楽や台詞が響き渡る様子は、本当に夢のようだった。日比谷ミッドタウンが開業した時にできたキャッチフレーズが「映画みたいな街が生まれる」だったことをなぜかよく覚えているのだが、あの野外上映の夜に私が見た光景はまさに「映画みたいな街」が見せる夢そのものだった。


こんな風にして時々うっかりと、圧倒的に美しいものに触れることができるのが、私にとっての東京だった。この街の輪郭を自分の手で把握し切ることは決してできない。この得体の知れない巨大な美しさの中で感情と欲望を持て余しながら、8年半の毎日をゆらゆらと過ごした。

書き出せるだけでもこんなに沢山の思い出があるのに、反面、いつも岸と岸の間を漂流し続けるような気持ちで日々を送ったのは、それは常にどこかで「東京での日々は私の人生の本編ではなく、あくまでご褒美、サイドストーリー」だと思っていたからだと思う。そしてそれは結局、自分の中に「生まれ育った街に深く関わる仕事がしたい」という欲望が根強く存在し続けたからだと思っている。

その欲からはいよいよ目を背け難く、「打ち込みたい仕事が見つかったから」という一点突破で東京を離れ、生まれ育った街で働くことに決めた。
東京で、この手で直に触った美しさも、早く手放したいと願い続けたしんどさも見栄も、もう、8年半の間に私の体に取り込まれ、私とは切り離せないものになった。それらを大事に抱えて、新しい場所で頑張っていこうと思う。

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