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循環

(2021.5.9書)

地球があるがままの姿に成っていく。
その一瞬一瞬を感じる日々。

それは昔の地球に戻るでもなく、
全く新しい地球に生まれ変わるでもなく、
今までとなにも変わらない、
ちょっとずつの変化。

この環境を生き抜くために、
脈々と変わり続けてきた地球の46億年間。
そこに良い悪いなど存在しない。

一度として同じ地球など存在しない。
私も生まれてこの方、
同じ私など存在しないように。
環境に対応したモノだけがこの地球で生き残る。

今、生きづらさを感じている人は、
地球に生きづらさを与えた結果。
あらゆる生物が一緒に住み着く地球という星において、
1種類だけが満足する生き方をしていたら、
あとからジワジワとやったことへの対処が自分に加わる。
やった分と同じ分だけ返ってくるようになっている。

地球は対の星だから。
微妙に違えど、
DNAが対で二重らせんを描くように、
体が左右対称なように、
見えている世界と同じ分だけ見えない世界があるように。
ちゃんと"行動を起こす"="結果"として現れる。
行動と結果は対。

コロナウィルスも対。
コロナウィルスが結果だとしたら、
それが発生した原因としてこの地球でどんな行動が起きたのか。

ウィルスは古くからこの地球に存在する。
けれど、元々寄生菌の害作用は微々たることが多い。

昔のウィルスは、
例えば植物を病気で枯死させても、
隣の別の樹木には及ばない。
それで感染は終わっていた。
それくらいのモノだった。
それがどこから変わったか。

『人間の活動が自然を不自然にし始めたところから』

寄生する菌と寄生される植物は特定されるほどウィルスの害はなかった。
自然林の伐採を人間が始め、
自然を不自然にした。
→そこに植物を植え、栽培する。
→今まで特定の樹木で生きていた菌は行き場を失う。
→そこで死ぬ菌もいるが、新たな植物に寄生し、毎年毎年新たな作物や植物に寄生し、強く寄生できる変種が生まれる。
→この強い種の子孫は、仲間を抑えてより大量に寄生する。
→こうしてちょっとずつ人間が自然を不自然に変えてきた分、
だんだんと強力な病原菌が生まれてきた。

病原菌は人間活動が引き起こしたモノがほとんど。
そのほとんどが自然なものを不自然なものに変えた結果。
だから薬を作っても、また薬に耐性を持つ菌が生まれる。

人間が、動物を家畜にするようになり、
人間ー犬の関係性から、
狂犬病、
牛、羊、馬、豚、山羊などから、
インフルエンザ、天然痘、おたふくかぜ。
使う土地を広げた人間により、
追い出された虫達も人間の生活圏に入り、病気をうつすようになる。
それがマラリア、デング熱、黄熱病。

人間が都市をつくり、密集すると病原菌の被害は増幅。
人間から人間に病原菌が移り、より病原性が強くなる。
(微生物を探る 服部勉著 引用)

コロナウィルスも、
大都市での発生が目立っているのに気付いた人もたくさんいるはず。
都会は昔の地球に存在していた?
地球は毎瞬毎瞬変化する。
それでも不自然なモノに対して、 
何度も何度も体を変化させてまで生き延びてきた微生物・昆虫・あらゆる動植物・そして地球自身。

そんな不自然なモノにまみれても、
自然はその時々の自然なままな姿で居てくれる。
昔から自然は変わったけれど、
あるがまま在るというその姿勢は変わらない。
そのときそのとき、
どんな状況であれ、
そのときの真実の姿で居てくれること。

そして今在る地球の真実の姿が、
人間活動に合わせて誕生したコロナウィルス。
"行動"に対する"結果"。

なぜ生きづらい?
人間だけに特化した生き方をしていなかったか?
経済中心に偏っていなかったか?
地球は元々お金など存在しない場所。
時計も存在しない。
『時は金なり』と言うけれど、
それは人間だけに通用する言葉。
時間が必要なモノなら、
なぜ未だに私達は時計を見る必要がある?
本当に必要だったら生まれたときから体の中に内蔵されているはず。 
お金も時計も体に内蔵されていた?
どちらも人間社会にのみ通用するもの。

人間以外の生物は、
何もモノを必要としない。
それはもう自分が全て持っている存在だということを本能のままに知っているから。
誰も時間など知らないのに生きている。
もしモノを必要な動物がいたとしたら、
人間が関わったことで不自然になってしまったから。
そこに対応して、動物達が人間なくして生きられないように対応させてしまった。

"行動"に対しての"結果"。

地球はもう元には戻らない。
私が昔の私に戻らないように。
地球は地球で今在るモノで生きていくし、
私も私で今在るモノで生きていく。

だから昔の地球が良かったからと言って、
急激に地球を良くしようとしても、
地球にも急激に負担がかかる。
今あまりにも人工的なモノが増えてしまった地球であっても、
今在るモノを大事にすること。

自然エネルギーを使おうと躍起になって、
それが良いことだろうと急に行動に起こしても、
太陽光パネルや風力発電所を建てまくるのは本当に地球に良いことになるのか?
使えなくなった太陽光パネルの山。
廃棄に困ってゴミ山状態な現実。
どんなことでも急激に、急いで起こしてしまうことは、
それ相応の結果が伴う。

いくら江戸時代や縄文時代が人間が居ながらにして、
すばらしい循環生活をしていたとしても、
じゃあ、あの頃のようにモノを減らして生活しようと、
地球上の人間が心改め、モノを減らしたとして、
さぁ、今それを急にしようとしたら、その大量の廃棄物はどこに行くのか。
そもそも縄文時代や江戸時代に生きていた人などもういない。
私は自分の目で見たモノを信じる。
在った世界より、今在る世界がすべて。
自分で縄文時代や江戸時代を見たことがないので、
それが在ったかは正直どうでも良い。
今できることをするのみ。
そして、
結局急激になにかをすることはストレスにしかならない。
その反動が地球にまた訪れる。

自分が地球だとしたら、
さて、それはされて自然か不自然か。
自分のしようとしている行動はどうゆう結果を起こしうるか。

自分は知っている。
本当に心からの気持ちで動いているか、損得で動いているか。
地球は常にピュアでそのものの姿。
それなら私もできる限りそう在るのみ。
自分はどちらの感情がいいか知っているのだから。
自分をだますことは、
結局自分で自分を苦しめること。
それならどんなに周りに何を言われようが、
私はありのままの私でピュアにいるのだよ。
どんなに昔の私と変わっていても、
周りが昔の私のままで判断してきても、
もうそのときの私はいない。
と、私が私を知っていたら良い。

そのままで在る。
自然な私で。
不自然にまみれた地球を治癒するには、
私がまずできる限り自然で居ることだ。
私ができれば77億人みんなできる。
だからいつもまずは私で実験するのだ。

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