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美しさ

(2019/4/24書)

美しさ。

小さい頃から、ただただ、
何も手の入れられていない大自然を目の前に生きていたら、
美しさの定義は、今とはだいぶかけ離れたモノのことを言うと想う。

私たちが美しいと想うもののほとんどが視覚からの情報。
そして、小さい頃から自分で育んできた感覚で美しいと判断するのではなく、
周りが綺麗と言うものを美しいと判断するのが世の言う美しさ。

美的感覚って本来とびきりにみんなばらばらな方向に飛び抜けるものなはず。
だって、みんなこんなにも違うのだから。
見た目も感覚も考え方も。
それなのに同じ人間とゆうカテゴリーにいるから不思議すぎる。

美しさと言えば、
これが美、というなんとなくの基準をみんなが頭で判断している。
体の感覚ではなく、考えることによって。

アメリカンサモアの、
あまりにただただ、そのままに残る大量の自然を目にして、
これだよ、と思わずポロリ。
美しさってそのまま在ること。
生活のために道路はあるし、お店もあるし、そりゃほとんどが他の国と同じようにみんな生きているけれど、自然の残り方はただただ、ワイルド。

見た目はジャングルのようで、
あちこち草もボウボウで、
お世辞にも、世の言う美しさからは程遠い。
だけど、それは見た目の話で、
これが在りのままの自然なのだから、なにも伐採することなく、
見た目を気にせず草もそのままにしておいて、
地球のそのままを在るがままに吸収していたら、
どこまで私達は本物を見分ける能力に長けただろうか、といつも想う。

見た目の美しさばかりに目が行くが故、多くの人が見た目を気にする。
若く見られようとか、
シワやくすみを減らそうとか、
美しく見えるために痩せようとか。
いろんなことが、
心の底から自分がしたくてすることじゃなくて、
周りの何かに合わせた生き方。
だから自然を見つめる目も美しく整えられた木や手の加えられた景色を美しいと感じる。

ワイルドな激しい自然を目の当たりにして、
心の底からじわじわと何かがゆれる感覚。
これを美しさと呼ぶのか。
見た目はただただ、殺伐としている。
ただ、ムクムクと生きているそれぞれの生命力を大量に感じる。
きっと体は知っている。
そのまま在るものの美しさを。
視覚だけではなく五感でゆっくりと感じることを。

人の判断する美しさに従わずに、
自分の感じる美しさをただただ、浴び続けた子供たちは、
はてさて、どう成長してゆくのだろう。
言葉に乗る波動で、
その人が本当のことを言っているか、嘘をついているかを一瞬でかぎ分けられるんじゃないか。

見える外ばかりに目を向けず、
見えない中にも目を向ける。
自分がどう感じ、
それがどんな感情かを把握し、
自分の意見を持つ。
他人に支配されるのではなく、
他人に従うでもなく、
自分で自分を理解する。

言葉以上に感情は在る。
だから言葉に表せなくていい。
感じたことを表現する必要はない。

世の中に存在するたくさんのルール、やり方、当たり前。
そのどれも私が決めたモノはない。
きっとそれが存在していなかったら一生私から生み出される可能性のないものたち。
就職、結婚、生命保険加入、ローン... and more.
どれもこれもしっくりこない。
だからしない。

それが私なりの美しさ。
したくないことはしないこと。
したいことはすること。
私が私で在ること。
ワイルドなまでの大自然のように、
超絶自然体、自由体であることの美しさ。

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