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ウインカーと音楽

毎日17時頃、Yahoo防災から律儀に熱中症アラートの通知がくる。毎日決まった時間に知らせてくれるので、17時という時間を意識することが出来る。そして21時にはピクミンブルームの通知が来て、今日という日の終わりが間もなく来ているということを意識する。
この通知がうんざりする日もあれば、前向きに捉えられる日もある。その違いがあることによって「私は生きてるんだなぁ」と実感する。

頭がまとまっていないので、まとめるためにダラダラと書く。それを読んで後で考える予定。


自転車を失ってから数か月。タクシーの利用をすることが数回あった。タクシーの運転手は苦手だ。喋られても困るが、行先を伝えると無言で出発する人なんかは「なんだこいつ」と思ってしまう。
そんな中、先日深夜にタクシーを使って家に帰ることがあった。案の定、そのタクシーも無言で出発するタイプの人だったのだが、車内では音楽がかけられていた。
毎回思うのだが、タクシーで家までの行先を伝えるのが難しい。近くに目印になる建物があればそれを言えばいいのだが、そこから家までのルートを説明するのがただただ面倒なのだ。タクシーという便利なものを使っているのに、運転手と行う会話というコミュニケーション、そして少しの気遣いまでを考えるのが心底疲れてしまう。家から駅まではGOタクシーを使えばマップのGPSを使ってほぼ間違いのない指示が出来るのだが、その反対はどうしても慣れない。まぁそれくらい出来なくて何が大人だ、と思うのでやることはやるのだが、出来ることなら省きたい。

そんな感じでその日も「家の前まで案内するの面倒だし、近くのところで降ろしてもらえばいいか」と思っていた。そんな時、車内でかかっていた音楽のリズムと、ウインカーのリズムが完全に一致したときがあった。
今まで生きてきて、車内の音楽とウインカーのリズムが完全一致するシーンなんてなかったので、全然大したことないはずなのに、私は部座席でひとりニヤニヤすることになった。乗ったタクシーの雰囲気は好きじゃなかったけれど、その車内で起きた小さな出来事によって1つ思い出が出来た。

気分が良くなった私は、目印になる建物に着いた後、家までのルートを細かく指示し、下車する際には「ありがとうございました~」と愛想よくお礼を言って家に帰ることが出来た。家の前で下車できたという快挙。本来、タクシーに乗るのであればそこまで乗せてもらうのがベストなのだが、普段なら面倒くさくて省く工程。多くの人は「そっちの方が面倒だろ」というだろう。でもそれは私の選択。それが故、自分の我儘で我慢していたこと。両者を天秤にかけたとき、途中で降ろしてもらうという方が選ばれただけ。ただそれだけのこと。
でもそれがこんなにも易々と出来てしまうことに拍子抜けした。きっと天秤にかけるまでもなかった事なのだろう。

車のウインカーのBPMは、1分間に60~120回と定められていて、車種によって様々だという。そして世の中にある音楽は沢山ある。
なんという曲かは分からないし、運転手の趣味か、たまたまラジオで流れていた曲かも分からないし、左折するタイミングやウインカーを出すタイミングで起こらなかったかもしれない。
そういった私には関係ない要因たちが重なって、彼らがシンクロする瞬間を見たのだ。

この事象について、「偶然だ」と言われたらそれまでなのだが、私には意味があるのだ。
なんとも言語化しにくい”活力”のようなものがジワジワ湧いてくるきっかけになった。今という瞬間に焦点が当たる感じ。目の前の映像の解像度があがる感じ。
私の我儘や頑固なところ、自分は自分、他人は他人という考え方、そこが上手く混ざり合うにはこういう瞬間を体験して、自分なりの意味づけが行われたときに初めて混ざり合えるかもしれない、という可能性が見つけられた。ニヤニヤ


私はよく「お金払ってるんだしもったいない」とか「上手く使わないともったいない」とか耳が痛いほど聞かされてきた。そしてもう一人の私からもよく言われる。
しかし私としては、そこに自分が求める以上のものは必要としなかったり、心的労力が使われるくらいならやらないという選択をとってきた。それは時たまに自分自身を苦しめていたり、自己の成長を妨げているように感じることがある。
自分の美学や自分のルールに反していないので、このままでいいと思いつつも、どこか周りと違うという理由から治せるなら治したいと思っていたし、自分の弱みとして理解していた。出来るようになれば、より高みに行ける可能性もあるから。

今回の件で、一つの足枷になっているのは「面倒くさい」が強くあることがわかった。
面倒くさいの先を越えるために、1つアクションを起こせば、5つ先へ進めるかもしれない。
当たり前のことのようで、当たり前ではない。だってマイナスになる可能性もゼロじゃないのだから。

家までのルートを伝えた際、うまく伝わらなかったらどうなるか。双方イライラするし、タクシー代は高くなるし、なんたって最終的な結果が「面倒くさいことをやった挙句、やらなければよかった」になる。私はその結果になるのが一番嫌らしい。無駄だった、かえって効率が悪くなった、だからあまり話したくなかったんだ、などと考えるだろう。そして何より、私はそう考え始める自分の性格と思考が暗すぎて大嫌いなのだ。自己嫌悪ってやつ。
だから先手を打って、現実的に問題を起こさず、嫌いな自分を見ないで済むようにしているのだ。これもまた、天秤にかけている。ただそれだけ、それだけのことだが、私にとってはそれだけ大きなことなのだ。

面倒くさいことはしたくない、イライラしたくない。
そのためには人と関わらず、なんでも1人でやった方が吉という結論が出ている。でも本当にそうなのだろうか、と時たまに思う。
これで満足しているはずなのだが、人として欠落しているように思うこともある。

バランス。バランスが大事なのだろうか。
そう悩んでいたけれど、ウインカーと音楽の一件で、何かヒントが見つけられたような気がした。
気分がよかったらとりあえずやってみる、とりあえず行動してみる、という今に集中して天秤自体を手放した考え方が必要なのかもしれない。

何を言ってるんだ、と言われそうなのでnoteに書いたが、我ながら人に見せるものでもないと思う。
とりあえずお風呂に入って入りながら考えてみるかぁ。
アリーヴェデルチ。

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