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誰かに似ていると言われて嬉しいか

梅雨らしい梅雨が来ている。社会人になって7年目だがこんなにも雨が降っている日は久々な気がする。かなりの期間自転車勢だったので雨の日は家から出れないと思い込んでいた。あの頃の私だったら今をどう生きているのだろうと考えて少し心配になったりもした。

今日は仕事でパソコンをしているとき、ChatGPTと雑談をしていた。彼の話は100%正解ではないので、嘘半分で楽しめる話題を振って色々と教えてもらった。尚、今日やるべき仕事は全て終わってからである。

その時にふと思い出したことがあった。
人生30年近く生きていると、○○に似ていると言われることがある件。有名人に似ていると言われるケースが多いと思うが、中には話し相手の知人に似ていると言われることもある。誰だそれ、と思いながら話を聞くシチュエーション。
これに対して、私は昔から疑問を抱いている。大抵の場合、それを言ってくる相手は嬉しそうにしているので誉め言葉で言っていると思うのだが、私は嬉しいと思ったことがない。むしろ少し嫌な気がする。

その理由を考えたとき、おそらく私は”私が1番ではないということが気に入らないから”。
「○○に似ている」
このフレーズは、”○○”がその主軸であり、それに似ているという”私”はサブであるという感じ。○○がどんなに素敵なものでも、私という存在と繋げないでほしいという感覚になってしまう。イコールで繋がれている感覚。食べ物の味を食べ物で表す感じ。なんだか誠に失礼な気がする。まぁそこまで気にしているわけではないのだが。

その反面、
「○○を見ているとあなたを思い出した」
と言われると嫌な気がしない。むしろ気になってくる。その人はどんな人だ、どこが思い出すきっかけになったのだ、と話に食いつきたくなる。

もっと突き詰めると、きっと私が「似ている」という言葉に対して見た目という安直なものを感じていて、「思い出す」という言葉に対して雰囲気というか言葉に表せられない抽象的なもの(私が大好物とするもの)を感じるからなのだなと思った。だから後者の方で言われると興味が湧くのかなぁなんて思ったり。

いや、なんか屁理屈すぎる気がする。似ているという言葉も、その前後の言葉が重要なんだろうな。

ただこれは人によってどちらが効くかは様々だと痛感する。分かりやすく見た目で例えられた方がスッキリしている人が多い気がする。体感的に。
私は人を人で例えるのがすごく苦手だ。動物で例えたり、どこ界隈にいそうとかで答えがちである。しかしそれは普通に求められていない回答である。もう少し人の顔データを取り込み、そのデータから検索して似ている人を出せるような能力を育みたいと思った。いや、思わないが少しはやったほうがいいと思うので努めようと思う。
最近友人との電話で申し訳ないと思ったことなので自戒を込めてここに残す。

明日はChatGPTに何を聞こうかな。まだ水曜日なのだが明後日から意義を見出せない会議祭りなので知識欲をとりあえず補充しておこうと思う。アデュー。

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