正論が通用しない世界

 仕事だけに限らず、夫婦関係や恋人関係、人間相手の仕事に至るまで、見返りを求めるとろくな事がない。見返りを求めてしまうと言うのは、どうしても「こっちがこれだけやってやったんだから」という上から目線での話になるし、相手に自分中心の、自分勝手な反応(見返り)を期待してしまっていることが多いので、思うとおりにならなくて、腹を立ててしまうことが多い。

 教師の仕事も、絶対に見返りを求めてはいけない。いや、単純に子どもだけを相手していれば、時にこちらの予想を遙かに超える「ごほうび」を子ども達からもらうことがある。(達成感やできたときの満面の笑顔や、屈託のない感謝の言葉とか・・・子ども達が私のために、サプライズ演出を用意してくれていることもある。例えば卒業式当日。卒業生が、別れの歌を歌い終わった後、私に対する感謝の言葉を用意してくれていて、それを聞いて、これでもかってくらい心震えてないたこととか。私にばれないようにシナリオを用意して、練習してくれていたようです。他にも、学校を変わる日、離任式に、私に色紙を用意してくれていたこととか・・・)

 見返りを求めてはいけないというのは、対保護者という意味。

こんな言葉があります。「3,3,4の原理」どんなにがんばって仕事をしても、3割の保護者は批判的であり、3割が協力的である。そして、残りの4割は無関心。

 まさしくその通り。もしかしたら、今では2,2,6くらいかもしれないなあと皮膚感覚で感じます。

 教師は、子ども相手の仕事だなんて言う人は、言葉が悪いが、全くのど素人。子どものバックボーンには保護者がいるので、お互いに協力しながら教育活動を進めていくことは大切なことですが、今は、子どものことで悩み、精神的に参ってしまって病休している先生はほとんどいなくて、大半は対保護者でのトラブル。当然どちらかが一方的に悪いわけではないが、子どものために悩みたい、子どものために仕事をしたい。子どものために時間を割きたいと思っている教師にとっては、なかなか理不尽な要求をされたりトラブルになったときは非常に困る。

 だから、「一生懸命まじめに取り組んでいたら、保護者は分かってくれる」なんて幻想。まさしく正論が通用しない世界が今そこにある。

 それは、どの仕事でもあることでしょう。もしかしたら、もっと理不尽な思いに耐えながら仕事をされている方もごまんといるはずです。そういえば、「クレーム一件○○円で買います」なんてビジネスがあったような・・・正当なクレームも当然たくさんあるでしょうが、もはやわがまま言ったもんがち的な雰囲気はひしひしと感じる今日この頃。

 学校でも同じ。正論が通用しない事がたくさんある。

 学校は理不尽な要求に屈せず、毅然とした態度で望むべきだ。変に下手に出るから、親がますますつけあがる。→その通り。でもね、そうして、学校が正論振りかざして、親とけんかしてみたところで、結局回り回って被害を被るのはその間に挟まれている子ども。親と学校がいがみ合っている構図は、子どもに良くないことは目に見えている。だから、子ども達の顔を思い浮かべながら私たちが苦汁をなめる。

 たとえ、正論を振りかざして、あいてをこんぱにやっつけたって、それは、なんのため?私たちは結局健やかな子どもの成長のために存在しているので、それがお金をもらっている異義なので、保護者をやっつけたって何も生まれない。そもそも、地域のコミュニティが成立せず、「隣は何をする人ぞ」的な希薄な人間関係が大半を占めるこの時代に、思いっきり自分の思いを言ったりわがままを聞いてくれる、上から目線で文句言い放題の場所って、学校しかない。基本学校はたてつきませんから。まあ学校にとっては良い迷惑ですけど、現実的に、学校の悪口や、先生の悪口を言い合う友達すらいなくて(そういう友達がいたら、しゃべることですっきりして、本当のクレームに発展することは少なくなりそうですが)直接学校や先生へ届く。さらには、今は権利社会なので、少しでも自分の権利が侵されたら、認められなかったら、すぐに異議申し立てを行うことが当然の権利だという雰囲気も、このクレーム社会を後押ししているような気がする。(知ったように書いているが、そんなに社会のことを知っているわけでありません。すみません。)

 そりゃあ、そんな悠長なことを言ってられないくらい、ややこしい問題があって、それこそ、学校と保護者が裁判で争うなんて事もメディアでよく聞く。もうそうなったらおしまい。そこの子ども達はどういう風に思うんだろうなあと思ってしまう。幸せなことにそこまでのことは経験がない。

 でも、子ども達には、そういった、ややこしい人間関係等を排除して(私自身が得意ではないので余計にかもしれない)正しいことは一つだ、正しいことを正しいと言える、そして、正しいことを正しいと認められる人になってほしいし、そういう社会であってほしいなんて理想論を語る言葉に力が入ってしまいます。

 何が正しいとか、何が間違っているとか、とかく価値観が多様化して、正義とか悪とか、正しいとか、正しくないとかの境界線が非常に怪しいこの時代に、正論だけをかざして立ち回ることの限界を感じていますが、それでも私はそれをあきらめたらおしまいな気がしています。そういった数少ない弱々しいプライドが、私の原動力だったりします。

 それにしても、本当に今の時代、人間関係を良好に保ち続けることは難しいなあと思います。そう思っているのは私だけでしょうか?

 何だか、少なからず、私の文章を読んで下さっている方がいること、本当に感謝しています。多分ここには同じ立場(仕事)の方って少ない?いない?のではないか。そう思っているので、余計にありがたいと思っています。いろいろとフォローして下さったり、スキして下さったりして本当にありがとうございます。最近文句や愚痴が多いので、ノートを始めたときに書いたように、「可能性」を、つまり、楽しいネタをもっと書くようにしなければいけないなあと反省。

 

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