良い子。

 「○○さんは本当に良い子だねえ。」と言われて、悪い気分になる子はいないでしょう。私もよく使います。単純に褒め言葉として、その子を肯定するために。

 でも、この言葉が、教師や親を含めた大人の顔色をうかがってばかりな子、指示待ちな子、生に対するエネルギーが弱い(非常に感覚的ですが)子を作ってしまっている現実はないか?

 大人が、子どもを褒めることは大切です。良いところや、正しいことをしたとき、または、その子の存在自体を受け入れて、大いに褒めてやることは、子どもがアイデンティティを確立していく過程で非常に重要なファクターである事は間違いありません。そうすることで、自信につながるなど、自己肯定感も持てるし、進むべき道が方向付けられていきます。

 しかし、特に親や教師がよく陥る落とし穴「良い子」。

それは、その子の行動を「良い」と言っているのか?

それは、その子の言葉を「良い」と言っているのか?

それは、その子の性格や心を「良い」と言っているのか?

 つまり、「良い」というのは、往々にして、主観的で、自己中心的であると言うことを理解しておかなければいけないと言うことです。(所詮、教育の評価なんて、そういう部分が多分にあるというスタンスで、それでも客観性を少しでも求めようという姿勢に意味を見いだしたいものです。)

「(私の言うことを聞いてくれる)良い子だね」

「(私の指示通り動いてくれる、私にとって都合の)良い子だね。」

 確かに、教師や親を含めた大人の言うことをしっかり聞くことはとってもとっても大切なこと。しかし、大人の都合でこれを使ってしまうと、子ども達は何を目指して大きくなっていくのか想像しただけで、どんな大人へと成長していくのか想像しただけで、ちょっと怖い。だって、その指示や言うことが必ずしも正しいとは限らないし、そこまでではなくても、その指示や言うことが、将来その子の力になることなのかどうか怪しいこともたくさんありそうだからです。

 でも、そういう場合は、子ども達は、そういう人たちの言うことをしっかり聞いて、反抗せず、素直に言うことを聞いていれば、つまりレールの上をしっかりと走っていれば上手く生活できるわけで・・・

 自らの力だけで生きていけない子ども達は、何かに頼って生きていくしかないわけなので、まさしく「生きる力」を思いっきり発揮して、「良い子」を演じてしまいます。

 そして、その狭い狭い範疇から外れたら「問題児」とされ、今まさに大阪では「排除」されようとしています。こんなことしたら、ますます、子ども達は「都合の良い子」にならざるを得ません。大人になっていくためのダイナミックな生の営みをできなくなっていくわけです。自主性なんかあったもんじゃない。そんな子ども達が、逞しい大人になるとはとうてい思えないのですが・・・

 実は、熱血先生ほど陥りやすい落とし穴でもある。自分は正論、正しいことをしているんだという自負があるので、余計にややこしい。確かに一生懸命なんだけどね・・・それに、(少なくとも私の周りの教師はほぼ例外なく)小さい頃から「良い子」と言われて大きくなってきているので、教師本人も気がついていない。先生の言うことさえ聞いていれば、人生上手くいったと自分が証明しているようなもんですから。

 前に、若い教師に対して不満をnoteに書いた事がありますが、そりゃ、そんな風に大きくなっていれば、リスクを冒してチャレンジしたり、自ら責任を持って新しいことに取り組んだりするような雰囲気はないですよねえ。

 なんて、偉そうに書いていますが、私だって毎日反省。分かっちゃいるけど、なかなかいつもできるわけではないこともまた事実なわけで・・・

 私は子ども達に素直で健やかに育ってほしいと思いますが、決して「良い子」になってほしいとは思いません。「幸せな子」になってほしいと思います。

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