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新盆のものがたり

幼い頃は、毎年決まって7月20日前後に夏休みに入り、宿題の存在を忘れ怠け気分がグッと高まった8月中旬にお盆というものがやってきて、母の実家のある北関東の田舎へと父の運転する車でドライブがてらに出かけるのが常だった。山あいの広々とした日本家屋の中央には大きな客間があって、お盆の時期にはその座敷を盆棚という数段の木組が占領する。盆棚には、先祖代々の位牌やら写真やら果物や野菜、お菓子、そうめん、お団子、野の花々、お線香とおリンやらが所狭しと並べられ、その脇には美しい風景や草花などが描かれた盆提灯がいくつも置かれていた。盆提灯は電気仕掛けで、スイッチを入れると明かりがつく。中には明かりが提灯の中でメリーゴーランドさながらクルクルと回るものもあった。その盆棚のまえに毎日かわるがわる湧くように大人たちがやって来ては、正座してお供えと線香をあげて手を合わせたあと、小一時間はご馳走を食べながら家のあるじと世間話をして帰っていく。毎年繰り返される行事だが、どうも新盆という、人が亡くなって初めてやってくるお盆はかなり特別なものらしく、来客数がはねあがった。お盆は、大人のうわさ話に遠慮なく耳を澄ませることができたり、場合によっては親戚の大人たちからお小遣いをもらえたりするので、おませな子どもだった私にとってはうっとりとするような魅惑的な期間だった。

それから数十年がたち、いよいよ今年は、長男の嫁である私や次男の嫁である義妹が嫁ぎ先の家のあるじを補佐して新盆をとりおこなわなければならない身の上となった。明治政府が新暦を採用したことで、田舎と東京ではお盆期間がひと月ズレていることくらいはうっすらとわかっていた。が、盆支度はエリアや宗教宗派そして家庭文化によってこだわる部分と気を抜いていい部分がちがうのだということ知るにいたって、うろたえた。各家庭における継承事項いわば家のしきたりや習慣というものがもっとも重要なのにまるでわからない。しまった、ぼんやりしてた。お義母さんが生きてるうちに一度は話題にしておくんだったな。

結局のところ、お盆の本質を理解してそれなりに表現するしかないのだ、と悟った私は、常套手段としてまずはネットで検索しまくった。盆飾りのきほんは、水、食、香、灯、花が重要な要素らしい。そしてお盆というものは、突き詰めると遺族や縁者がつどって故人を思い、対話することによって、喪失の悲しみを乗り越えたり、新しい活力を得たりすることの意義があるようだった。それが検索の結果わかったことだった。

あるじである90歳のしゅうとの中にあるお盆のイメージを壊さないということを自分に課し、ひとつ駒を進めてはしゅうとの表情に違和感がみえないことを読み取りつつ支度を進めていった。

おかあさんが初めて帰ってくるお盆だからね、それが遠くに視線を漂わせながらのしゅうとの口ぐせになった。

盆提灯がたくさん贈られてきちゃったら飾る場所がなくて困ったことになるぞ。先代のじいさんの新盆のときには盆提灯がたくさん来たもんだ。しかし、狸の皮算用に似たしゅうとの心配は杞憂に終わった。しゅうとめのための盆棚の傍らでひっそり灯っていたのは、私たち子ども世代が献上した優美な提灯ひとつだけ。提灯にはしゅうとめの好きなハナミズキが描かれていた。

大勢の客人が来るかもしれん。どうさばけばいいものか、通す部屋も片付けなきゃならん。ところが、膨らんだしゅうとの期待も、現実のものにはならなかった。盆棚に向かって手を合わせたのは、しゅうと以外では、2組の息子夫婦と娘が一人。そして直系の孫3人のうちの2人と、海外赴任で来られなかった孫息子の代わりにやってきた彼の新妻だけだった。昭和や平成の時代のように親類縁者やご近所の大人たちが次々と新盆に個人宅を訪れるということは、令和の時代にはもうなかった。

それでも、しゅうとめのための新盆の盆棚は、私には彼女にふさわしく品よく可憐なものに見えた。義弟のつれあいが作った、きゅうりの馬とナスの牛は若干の手直しはほどこしつつ四日間踏ん張って立ち続けることができた。鬼灯をあしらったフラワーアレンジメントからは白いゆりのいい匂いがした。お供えの果物はしゅうとめの好きなものばかりで、とりわけ、初孫の新妻が手のひらに跡をつけながら持ってきたスイカはしゅうとめの精霊をいちばんを喜ばせたに違いなかった。

7月13日の菩提寺での法要と玄関で焚く迎え火から始まった東京の令和の新盆は、16日の送り火で終わった。送り火の夜は、梅雨明け直前のしっかりとした雨がふった夜になった。


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