四姉妹のものがたり

週末の夜、私のスマホに電話がかかってきた。北関東の観光地で大きな土産物屋をいとなむ叔母からであった。夜10時にはそぐわないくらい明るくくっきりした叔母の声は83歳には思えない若々しさ。ここのところ急に音声がくぐもるようになった二つ歳上の母とは対照的だった。人前で現役ではたらくということがこの差をうむものなのかもしれない。

私の義理の甥が小学校の修学旅行でその店のやっかいになった。気前のよい叔母は店の人気商品をいくつか勝手に彼の買い物袋にしのばせたらしい。
昨日、Mくんのお母さんからお礼の品の鳩サブレが届いちゃって、かえって気を使わせてちゃってねえ。尻上がりの関東訛りが私の気分をどんどん軽くする。とってもいい子だったのよ、という話が何周かしたころを大縄跳びのタイミングよろしく、ところで、と私が切り出した。ところで、おばさん。四姉妹のお泊まり会の話はどうなった?

そうそう、それ、すすめなきゃ。ねえちゃんがまだ元気なうちに女のきょうだいだけで集まるのが夢だから。やらなきゃねえちゃんも私も死んでも死にきれない。実現するには若い人たちにも助けてもらわないと。ひとつ、よろしく頼むわね。

叔母は、6人きょうだいの上から3番目。姉がひとり、妹がふたり。兄と弟が一人ずつ。ちょうど真ん中から全体を見渡す位置につけていて、それにふさわしい引力と采配力をもっていた。二つ違いの姉、つまり私の母とはとりわけ大の仲良しで、若いころから、夜になって嫁仕事から解放されると、長電話をしては互いの大家族の運営のむずかしさについて、解決策をさがすでもなく、ただひたすらに楽しそうに時には涙流しながら語り合っていた。

四姉妹のうちの下のふたりは、戦後父親が復員したのちに双子としてうまれた。当時のよくある話として、双子のうちの片方はうまれてすぐに、子宝に恵まれない親戚につよく請われて引き取られた。双子の母親は二人とも自分の手で育てることを最後の瞬間まで切に願っていた。

この養子縁組は周りの者たちの都合から、長いあいだ本人たちには隠された。双子はいとこ同士として、ロープウェイの上下線がすれ違うように一定の距離をへだてて育ったのだった。思春期となり高校進学のために取り寄せた戸籍謄本をつうじて事実をふと知った片方が、厳しい養母の干渉もきらったのだろう、わたしは修道院にはいると言いだしたとき、周りは慌てて男女合わせた6人きょうだいを集め、大家族会議を開いたのであった。きょうだいの絆のチカラでもって、双子の片方が神の側に渡ってしまうのを引き留めるべく。

大家族会議のあと、上の二人の姉たちはタブーから解放されて若い双子に等しく愛情を注ぎはじめた。けれども、当の双子の距離は縮まらないどころか、すれ違いの瞬間すら密かに拒むようになっていく。夏の日、眼下の桑畑から風が流れこむ田舎の大座敷の盆飾りの前で双子が万一鉢合わせしても、彼女たちの視線はずっと下向きで、決して合うことはなかった。

双子は成人した。それぞれが、田舎の地で見合い結婚し、誠実な夫とともに必死になって家庭経営を回し、子どもたちを産み育て、孫ができて、今、70代後半。笑い皺の美しいおばあちゃんになった。はたして、ふたりとも、2番目の姉が企画した人生最後の四人姉妹の会には喜んで参加する、と言っているらしい。

四人姉妹の会は、年寄りに似合わず、きっと夜更かしの会となるだろう。双子の妹たちは、心の奥底に残る最後の砂つぶを全て吐き出すはずだろう。四人姉妹のどの組み合わせであっても、解決策などなくともひたすらに愚痴を語り合う関係にしたいという、姉たちの期待にこたえるために。





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