カス文章

 一日の大半を一人で過ごすが故に、自分と向き合う時間というものがしばしば訪れるわけですが、これは良くないことだと考えます。自分って何がしたくて生きてるんだろうな〜という疑問に毎回辿り着くためです。何か少しでもネガティヴな感情があったりすると、それはもう綺麗に「プロフェッショナル、人生の意味とは」みたいな問いかけに収束するのです。

例:「ハァ〜ゼミだる過ぎる〜。なんて書いてあるんだよこの論文マジで意味わかんねぇよ。というか大学行ってる身で『ゼミだるい』ってなんだよマジで。勉強するために大学入ったんじゃなかったのか、私。いや別に昔から勉強が好きだった瞬間は一回も無かったな。周りの友達が頭良かったからとか、良い大学に行け〜みたいなオーラを親とか周りの人間からそこはかとなく感じたから流されただけだったな。もっと早くから自分の好きなこととか見付けてたら今もっと幸せだったんじゃねぇか?いつ間違えたんだ。私って今何のために生きてるんだ?」

 自分の人生に一つの意味を求めようとする行いは、何かしらの大義に基づいて行動しようとする行いだと言い換えられるでしょう。小学校の道徳の授業で習うような内容は大義そのものではなく、むしろその逆だったりします。自分がされて嫌なことは他人にしちゃダメだよ〜という教えは、自分の行動基準(大義)に「他人の迷惑になることをする」という項目を含めてはいけないよ〜という教えなわけです。このように、学校では「自分の大義にしてはいけないこと」を教えてくれますが、「自分は何を大義にすれば良いのか」ということは全く教えてくれません。
 学校では何も教えてくれなかったし、好きでもないお勉強に人生の大半を費やしてきたため、ここ数年は、私は一体どのような大義に基づいて生きれば良いんだろうなぁ(生きているのか、という表現の方が正しいかもしれない)みたいなことを延々と考えてきたわけですけれども、長考の末、結局欲してるのは誰かとの出会いなのだと推測しました。「この人の幸せが私の幸せ」であるような人と出会い、その人の幸せを大義として生きたいのでしょう。そのような人に未だ出会えていないが故に私の人生には未だ意味が無く、今日も今日とて自分の存在理由に想いを馳せるのだと考えます。
 つまり何が言いたいのかというと、

結婚したい。


実に妥当な欲求である。
ゆるぼ:結婚相手

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