『ルックバック』藤本タツキ氏著の単行本収録に対する不安と現に病んでいるクリエーターが思うこと

ルックバックの修正に関する議論に「配慮される側」の意見がほぼないので書いてみる。私は被災してメンタルを病んでいるクリエーターである。

修正に至る顛末と議論は検索すればたくさん出てくるのだけど「表現の自由を守れ」と声高に反対する意見と疾患者に対する苛烈な追求と残酷な制裁(罵詈雑言、筋違いな非難など)が目立つ。では実際に病んでいて、「配慮された側」であり、ともすれば登場人物にもなりうる人間は今回の修正をどう思っているのだろうか。
まず私は震災でメンタルを病んだ被災者である。自宅が倒壊し大勢の顔見知りが亡くなるところを目の当たりにしている。その後、治療を経て自立を取り戻し創作で心の安定を保っている。
その途上でまさに今回問題視されているような「あらぬ偏見による実害」をこうむっている。
病状が少しおちついて働き始めたころ職場で勤務中の間食が問題になった。神経質な役員の一人が従業員の稼働率にこだわり始めた。従業員が職場に持ち込んだスナックの類が業務を著しく妨げているというのだ。システム開発の現場に糖分補給と称する菓子類持ち込みはつきものであるが、まだパワハラという用語が一般的でない時代。抜き打ちで所持品検査が行われ何人かのメンバーが「摘発」された。私もやり玉に挙げられた一人であるが「菓子ではなく処方された薬である」と説明した。すると今度はなぜ病気を隠していたのか?と詰め寄られた。私としては、車を運転するような営業職ならともかくシステム開発の仕事において既往歴を申告する必要性などなく、病状を明らかにすることであらぬ差別を受ける可能性を懸念して「余計なことはいわないでおく」のが賢明だと考えたのだ。
正直に申告しなかった私が悪いのであるが、したところで結果は同じであった。病歴の隠ぺいはたちまち問題になり私は社長に呼び出された。そこであらぬ偏見を受けた。

●お前はいつ包丁を振り回して暴れるかわからない、という偏見

社長いわく、お前が通院を隠していたのも問題であるが、それ以上にお前の病気が大問題である。お前は今はおとなしいかもしれないが、いつ薬(の効果)が切れて暴れ出すかわからない。人間が大勢死ぬところを見たというなら、他人の命などなんとも思ってないに違いない。よくもこんな恐ろしい人間を採用したものだ。自分は経営者として他の従業員を守る義務がある。今すぐ退職しろ、というのである。
当時の私の症状には具体的な病名がついておらず(主治医いわく、心の病は複雑であり、ドラマのようにはっきりとした病名はつけがたい)、主治医の診断内容を踏まえて丁寧な説明を試みた。
しかし疑心暗鬼と恐怖心の塊と化した彼には説得が通じず私は退職を余儀なくされた。

●未知なるものへの本能的な恐怖と過剰防衛反応の払しょく
彼の恐怖はもっともで、現在ほど●●障害や●●病といった知識が一般的でない時代ゆえの過剰反応だろう。人間は未知なる存在に対して脅威を感じ防衛機制を取る。

●では、彼の恐怖心はどこから生じたのか?

ここからが問題なのだ。社長の「精神疾患者に対する恐怖」→「不随意に凶器を振り回して暴れる」は何に由来するのか。
誇張され戯画化された「心を病んだ犯罪者」のイメージ、換言すれば『ステロタイプな偏見』が恐怖心を後押ししたのではないか。
今にして思えば彼もある意味、表現の被害者であると言える。過剰に装飾された記号に脅かされたのだ。

●何を守るべきか? 配慮のためなら表現は無差別に殺されて良いのか?
ここからは表現者の側である私の意見である。結論からいうと表現の自由は最大限尊重されるべきだ。ルックバックの修正に対する反対意見を読んでいると「隠ぺいは却って差別を助長させるのではないか」「異常な人間は異常として描かれるべき」「芸術性を損なう」など修正前のバージョンに寄り添った意見が多かった。

●なるほど、反対側の意見も一理あるし、修正すればよいというわけでもない
なかでもうなづけるのは「犯人像が無敵の人にすり替わっただけじゃないか」という指摘である。非正規雇用のまま安定収入を得る地位や独立開業に必要なスキルを学ぶ機会を逃した人々はいる。
私は自立支援に関わる仕事をしており、自分もまた収入不安定な立場にあるので修正後の犯人像こそ救済される対象だと認識している。修正は悪手だ。
しかしだからと言って私のような被害者を生む偏見を放置してよいものではない。

●たかが漫画じゃないか。架空と現実を混同するな!への反論

確かに大多数はルックバックをグリム童話的な教訓と受け取るだろう。健全な読み手なら「これは面白いけど漫画特有の誇張だよね」と読み解く。しかし万人にリテラシーは期待できない。ルックバックを寓話でなく、説得力のある物語と読解し、作者の有名性が権威による見解だとして内容を補強するおそれがある。
その結果、どうなるか。偏見の助長を招かないとはいいきれない。
「真に受ける人」がいるのだ。ルックバックに書いてあったから本当だ、と。そこに出版物の部数が拍車をかけると一つの見解になる。表現の自由は大切だしルックバックは尊重されなければいけない。そこに書き手でもある私はジレンマを感じるのだ。

●封じてはいけない表現もある

差別的だ!と脊髄反射で封印してしまうと逆効果になる表現もある。
・差別の歴史を省みるうえで必要な「当時の文献」
・被差別者の証言
・差別に関する研究や資料
これらまで封印すると「差別はなかったこと」にされてしまう。

●差別的表現を温存したまま出版されている作品もある

例えば手塚治虫の漫画だ。ただし、以下のような注意書きがある。
当時は人権意識や差別に対する配慮が希薄で作者にも悪意や差別する意図はなかった。
故人に異議申し立てや修正を依頼することはできない。
後世の第三者が無断で手を加えることは適切でない。
以上の理由にくわえ、当時のなまなましい差別表現に触れることで差別の存在を知り、その解消や人権を学ぶきっかけにしてほしい。
そのようなしっかりした説明があれば誰もが納得できる。

●では、ルックバックの単行本化はどのようにすればよいのか

ネットにはできれば修正前のバージョンで収録が望ましいという意見が多い。私も差別表現に対する解説があれば構わないと思う。
そして、ここからが私の要望であるが
藤本タツキ氏ご本人の言葉で偏見はいけない、と一言でもそえてあれば修正は必要ないんじゃないかと思う。
最後に表現の自由と被差別者の権利擁護の衝突はなかなか難しいと思うが、「誰もが面白い漫画を楽しめて、表現に傷つかない」社会を期待してやまない。


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