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あなたのファンでいたかった

―時は2021年。HPやブログサービスは次々と閉鎖し、
インターネットの交流の場はSNS、オタクの場合は特にTwitterに主戦場を移した。

これは10年ほど前、世の中がブログからTwitterへ移行しつつあった時の話……

友達のいない陰キャの私は、もちろんインターネットが大好きであった。
毎日、毎時間、いや毎分とも言える頻度でブックマークに入っているお気に入りのサイトやブログを巡回していた。

その中でも好きだったブログのひとつが、ある二次創作のサイトであった。
私は基本的にあまり二次創作には興味がない。しかしその人のブログはよく見ていた。
描いているキャラのことも、好きなゲーム漫画もよくわからないし原作を履修することはなかった。
でもその人の絵が、画風が好きだったから見ていたのだ。どんな作品の絵であっても、その人の絵だから好きだった。
私はその人の作品のファンとして、その人のブログやサイトにあげられる絵を楽しんでいたのだった。web拍手であなたの絵のこういうところが好きだという匿名コメントも何度か送った。

しかし、その日は来てしまう。

その人がTwitterへ移行したのだ。
当然ブログ更新は激減。新しい絵は、Twitterアカウントへ投稿されることとなる。
私は迷った。フォローするというのはむき出しの自分でかかわってしまうということだった。
しかし意を決してフォローした。
私はその人の作品を見たいし、別にフォロバされなくても構わない。
ブログの時は気に留めてもいなかったが、その人は女子大生だった。
ツイートの大半は大学生活や大学の友人の話題となり、時々プリクラを上げた。当時私も大学生であったがもちろん友達のいないナメクジのようなぼっちであった。
たまに絵が上がってもweb拍手のように気軽にリプライなどはできなかった。元のゲームや漫画もよく知らず、大学生として共感できる部分もほとんどない。そんな自分に絡む資格はないと思ったからだ。
でも作品のことは相変わらず好きだった。私にできることは、ふぁぼることくらいだった。(ふぁぼ=Favorite。現在のいいね。)

……だが、それも長くは続かなかった。
ある日、その人はこうつぶやいた。
「これからフォロワーを交流がある人だけにします。」
私は当然ブロ解され、その人は鍵をかけた。

私はもうその人の作品を見ることができなくなったのだ。

(一応いっておくと、この行為自体は特に悪いことだとは思っていない。
 SNSの使い方は個人の自由だし、何かトラブルがあったり変な出会い厨に絡まれたのかもしれないし、そもそも自分みたいな趣味が一緒と思えないのに絡みもせずふぁぼってくる奴がキモかった可能性も大いにある。)

その人が今はもう何をしているか全くわからないし、HNも忘れてしまった。だけど絵だけは思い出す。だってあの絵が好きだったから。

ああ、私は……あなたのファンでいたかった。

そこまで思うんだったらその人の好きな漫画ゲームを履修しろや!と思う人もいるだろう。
それこそSNS時代の悪いところだと私は思うのだ。

同じ趣味、同じ属性でなければファンでいる資格はなくなってしまうのだろうか?
共感できなければ? 人柄に好感を持つことができなかったら?
交流しなければファンでいられないのだろうか?

SNSに移行して、私は以前のように気軽にファンレター(作品への感想)を送れなくなった。
正直言って、友達になりたいわけではないからだ。
むしろ交流すればするほど、コミュ障で趣味の合わない自分は拒絶されてしまうだろう。
あくまでファンでいたかったのだ。ワガママだと言われても構わない。

人をコンテンツ製造マシンのように思うなというのもTwitterが流行り出してから声高に言われるようになった。
HP、ブログ全盛期はブログ主がどんなに日常の愚痴を書いていても気にならなかった。
日常カテゴリや愚痴カテゴリの記事は見ないようにすればよかったからだ。
しかしTwitterではそうはいかない。全部が垂れ流され、嫌でも目に入るようになってしまう。
その人自身を愛さなければ、受け入れなければファンとは言えなくなる。
作品のひとつやふたつを好きなくらいでは、割にあわないこともあるのだ。
そして少しでも機嫌を損ねれば、かかわりは断たれてしまう。

ああ、インターネットよ。大きな海よ。

青く透き通った海はゴミも魚もよく見えた。
今はどうだ。黒くよどみ、浮かんだガラス瓶に救いを求めてもがいてばかりだ。

ガラス瓶の中には紙が入っている。
でも私にそれを読むことができない。

私は船がない、泳げない、手を伸ばす勇気がない……

おしまい

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