2023/4/19

気づけば4月の半ばで、5時半だというのにまだ外が明るい。いつの間にか時間が過ぎてゆく。誰かが"Always the summers are slipping away"と言っていた。夏に限らず、いつだって季節は瞬く間に過ぎゆく。実感もなく、手から滑り落ちて行く。光陰矢の如し、"Time flies like an arrow."なんて言ったりするけど、"slip away"の方がしっくりくる。なぜだろう。おそらく時が何者なのかについて述べていないためである気がする。過ぎゆく時間と飛んでいく矢を結びつけるのに困難がある。時とは何か、について語らぬまま、無形のまま、ただ滑り落ちていく。その表現が好きである。まあどうだっていいんだけど。

最近、文学界の5月号を読んだ。大江健三郎の追悼の号だったから、買っておきたかった。いくつか書店を回ったけど、どこにもおいていなかった。店員に聞いてみると売り切れだと言われた。よく売れているんだろう。Amazonで買うことにした。本屋とは違って、Amazonでは運命的な出会いはないかもしれないけど、欲しいものはほぼ確実に手に入る。僕は最近の小説はほとんど読まない。文学界も久々に読んだ。たまに興味を惹かれる特集が組んであった時に買うけど、滅多に買わない。岩波文庫とか古いのばかり読んでいる。

なぜだろう。理由づけは色々できるだろう。村上春樹の小説で、誰かがこんなことを言っていた。
——僕は、時間による洗練に耐えたものしか読まない。人生は有限だからね。
一理ある。くだらない小説を読まないようにするためには、古典を読むようにするのが一番であると思う。今も残っている、という点でその本の価値を確かめるわけだ。その一方で、ロマンロランはこんなことを書いていたと思う。
——無知なものは、古典ばかり読む。彼ら自身が新しいものを批評する眼を持っていないから。
一語一句正しいわけじゃないけど、ニュアンスは合っていると思う。これも一理ある。審美眼がないから、時間による選別に頼らざるを得ないわけだ。

どちらにも部分的に同意するけれど、僕は古典というか近代文学を8か9割くらい、現代の小説を1、2割で読む。その理由はまた今度書こう。余白が足りない。


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