不条理の前でぼくらはなにができるか?

現実には、自分自身ではどうしようもできないことがある。いくら頑張ったって、どうにもできないことがある。このことは事実であるのに、これを認めてしまうことに対して、抵抗があるのではないだろうか?友達との会話で、こんなことを言ったら、運任せの態度であるとか、投げやりな態度として受け止められてしまうことだろう。

しかし、本当にこのような態度、つまり、不条理を認めてしまうことは、冷笑的で投げやりな態度なのだろうか?ぼくは違うと思う。なぜなら、不条理を認めることは、"何もしない"ということを意味しないからである。

それでは、この不条理を認めた上で、ぼくらはなんのために行動するのか?なにを動機として行動を起こせるのだろうか?不条理の"どうしようもなさ”の下ではどのような行動も無意味となってしまうのに。

そのヒントは、大江健三郎の「個人的な体験」にある。主人公である鳥(バード)は、障害を持って生まれた我が子を直視できずに、その存在から逃げ回ろうとする。そして、鳥は、障害を持ちながらも懸命に生きようとする赤子を医者に頼んで殺してしまおうとする。物語の終盤、鳥は、その企みに協力していた女友達の火見子と決別する。

「手術して赤ちゃんの生命を救ったにしても、それがなにになるの?鳥。かれは植物的な存在でしかないといったでしょう?あなたは自分自身を不幸にするばかりか、それが、赤ちゃんのためだとでも考えるの?鳥」

「それはぼく自身のためだ。ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるためだ」と鳥はいった。

個人的な体験、大江健三郎

なんのために、赤子を救おうとするのか、結局それは無意味ではないか?と問う火見子に対して、鳥は、自身への信頼を急速に回復しながら、
誰のためでもない、ぼく自身のため行動するんだ、と答える。その行動から、どのような結末が引き起こされようとも、その行動の価値は決して揺らぐことはない。だから、行動するのである。

「恥じることはない、誰でも後悔する。しかし、後悔などというものは行動の価値をほんの少しも歪めない。行動した、ある行為をした。それで十分だし、あとからそれをどうこうすることはできないんだ」

われらの時代、大江健三郎

度重なる失敗や、挫折、それらは行動するものにとってつきものである。それはどうしようもない。万事が順調に進むなんてことはあり得ない。ときおりぼくらは不条理を眼前に突きつけられる。そんなとき、ぼくらはどんな信念のもとに行動しつづけるか?大江健三郎は一つの行動原理を教えてくれる。

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