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渋谷保安官事務所物語

 「皆様、初めまして、私が、館長の斉藤愛梨です。本日は東京厄災資料館にお運び下さいまして誠にありがとうございます。当資料館は、かつて”厄災”と呼ばれた新種の天然痘ウイルスの大流行、東京完全封鎖、生活インフラの崩壊、完全な無政府状態からいかにして東京が復興を果たしたか、その歴史をお伝えすることを目的としております。
 今月の特別展は”初代渋谷市長、斉藤素子と補佐官アダム”です。厄災からの復興は、斉藤素子とアダムとの出会いから始まったとは現代史の教科書にも書かれ、テレビドラマにもなっていますが、今回の特別展は斉藤家に伝わる当時の資料を中心にお伝えするものです。」

 この子は、斉藤愛梨、物語の時間から80年後、210X年の世界に生きている私の孫娘。今年30歳になったんだけど、とても綺麗でしょ?

 「斉藤家と言いますが、ご案内の通り、私の実家でございまして、私は斉藤素子の曾孫に当たります。当時のことは、小さな頃から私の祖母に当たります、渋谷市の副保安官だった斉藤玉緒からもよく聞かされておりました。そうして語り継がれたことも含めまして、皆様にお伝えして行きたく展示をいたしておりますので、どうか隅々までご覧になり、お楽しみ頂けたら甚だ幸いでございます。」

 私の名前が出た。私の名前は斉藤玉緒。80年後のこの世界ではもう故人なのだけれど。

 一斉に焚かれるフラッシュに、記者の質問に答えることなく、ボディガードに守られながら会場を後にした愛梨、愛梨は「補佐官アダム」に関わる、別の優先事項があって心ここにあらずという感じね。

 展示を見ると私の写真があった。マルチカムブラックという、夜間の戦闘にアドバンテージのある戦闘服と黒いボディアーマーを着ているわ。45口径のクリス・ベクターというサブマシンガンを、肩からワンポイントスリングで吊って汗を拭う17歳の私。高校3年生になったばかりで、とても幼く見える。この年頃で副保安官などという要職に就いていたというのがとても信じられないけど、”厄災”とはそういう時代だったの。あれが無かったら私の人生は全然違うものになっていたかも。

 どうやら「彼」が品川の病院で目を覚ましたようね。この男がコールサイン”A-21”、読み方は「トゥウェンティワン・アダム」本名は「南慎介」。私たちは彼を南さんと呼び、後に母が渋谷の市長代行になると、彼を補佐官殿と呼ぶようになった。彼が無線通信をするのを聞いていた母が彼を「アダム」と呼び、後に復興に携わることになった母の仲間たちもそれに倣って「アダム」と呼ぶことになった。

 「食い意地の張った玉緒が、俺のいた山梨県境の檜原村の自家製フランクフルトをネットで見つけて、食いたいって素子にねだったんだよ。仮想通貨で300ドル払えるなら配達してやるぜとメールしたら、素子から是非お願いしたいとメッセージが返ってきた。それがあの母子(おやこ)との腐れ縁の始まりだったのさ。」

 ベッドに横たわって愛梨の質問に答える補佐官殿、ちょっと話を端折り過ぎね。17歳の私は確かにダイエット要らずの細い身体をしていて、とても食いしん坊だったのは否定しないわ。でも・・・

 後に新種の天然痘と断定されることになった疫病により、202X年の東京は、すぐに医療機関のリソースが枯渇するほど病人と死者に溢れ、物流も滞るようになった。母は先見の明のある人で、都内の社会資本全般がダメージを被ることを見越して、大量のポリタンクに水を蓄え、カセット式ガスボンベを買い込み、保存の効く食料をどんどん買い込んだ。これは同じマンションに住む仲間たちにもやらせて、一時は4LDKをポリタンクに占拠されて、母と一部屋を共有する生活に辟易としたものだけど、それをした私たちは渋谷に残り、状況が良くなると楽観した人たちは、やがて金町浄水場が機能しなくなってすぐに、水道を捻ると出てくる「墨汁の匂いのする水」に絶望することになった。
 これだけ恐ろしい疫病が流行っても、(私も母もだけど)持ってる人は抗体を持っていた。私たちは生きていた。でも治安はすぐに悪化。どこから手に入れたのか、私でも知っていたアサルトライフルのAK47をフルオートでぶっ放す音がそこかしこで聞こえる無政府状態が渋谷の日常になり、私たちはマンションに籠城するように暮らしていた。
 外出もできないジリ貧の保存食暮らしにウンザリの生活、今思えば発狂寸前だったのかも。そんな時にネットの動画サイトで私が見つけた「檜原村山形ファーム」の宣伝動画。サル顔のおじさんが、茹でたフランクフルトを、炭火ストーブの上でカリっと焦げ目をつけ、焼きたてパンに挟んでたっぷりマスタードをつけて若者に食べさせる動画。同じマンションで暮らす幼馴染の久住夏希を呼び、その動画を食い入るように見た私たち。最後には若者が「檜原サイコー!」と締めるのだけれど、私と夏希も泣きながら叫んだものだった、「檜原サイコー!」って。夏希は「私、このフランクフルトとかベーコンとか卵食べられるなら、このサルおじさんに抱かれてもいい!」とまで言ったもの。
 後に私たちはこのサルおじさんが、厄災後の檜原村の初代村長、山形吉之助だと知ることになるのだけど、流石に夏希の不適切な発言は黙っていてあげることにした。
 どうしても食べたい檜原豚、後に初代渋谷市長になる母と、当時はのっぽの優しいパパで、後に初代副市長になる久住父が掛け合ってくれた。300ドルでデリバリーってね、随分と高くついたなぁって当時は思ったのだけど、今思うと、この300ドルってのは命の値段だった。母と夏希パパは、檜原豚よりも、このデリバリーを引き受けた檜原の命知らずの男たちに最初から興味津々だった。彼らも、身動きが取れない自分たちの生活にウンザリしていたんだと思う。
 だから、私が特別食い意地が張っていたというのは、ちょっと違うって話なの。 

 「すまん、ちょっと外してくれないか。コールドスリープから目覚めたらどうもその・・・」と尿瓶(しびん)に目をやる補佐官殿。
 「ええ、お話は伺えますので是非ごゆっくり!」と、ナースにこの場を委ねて去る愛梨。

 補佐官殿にはかなり重い心臓疾患があったため、今から80年前、母の計らいでコールドスリープを施され、手術の条件が整うまでという条件で眠らされた。かつて品川に小規模な基地を構えていた米空軍の医療施設を前身とする病院で、手術をするために解凍処置を施され、同時に心臓手術が行われた。このことは母の同志たちとその一族の一部しか知らない秘密。

 「あんたは素子にも玉緒にも全然似ていないな。」病床の傍に座る愛梨の顔をまじまじと見ながら彼は言った。「玉緒の孫ってことは、玉緒が子供を産んだということだよな、相手は・・・ああ、文太郎か?」
 「ええ、祖父は斉藤文太郎と・・・」
 「婿養子になったのか。そうか愛梨さん、確かにあんたにはスラッと背の高かった文太郎の面影があるよ。なるほどなぁ。俺は無政府状態の都心部から中央道を徒歩で西へ西へ逃げていく途中で文太郎と知り合ったんだ。都心部にはどこかしこから降って来たのか生えて来たのか知らないが、AK47が腐るほどあって強盗やら殺人やらが起きてた。俺は水の供給が止まることを見越して、水や食料が確保できそうな東京の西の端を目指したってわけだ。文太郎は合気道とクラヴマガの師範で、茨城から上京してた時に厄災に遭ったんだ。文太郎は6号線を東へ向かうと最初は言ってた。茨城に帰りたかったんだろう。だがほどなく東京がロックダウンされたのが分かって、文太郎は俺と西へ向かうことにしたんだ。」
 「大変な旅だったんでしょうね。」
 「郊外まで行けば無人の大型量販店に物がうなるほどあった。水やらアルコールは近隣の住民に略奪されていたが、幸い衣類の替えには困らなかったよ。そのほかに必要なものは空から落としてもらったんだ。蛇の道は蛇ってね。」
 「空から?」
 「ああ、どこにでも副業で小遣い稼ぎをする奴はいる。法外な金を取られたが、その代わり仕事はキッチリしてくれたさ。」

 私も後から知った話だけど、当時米軍機は東京上空を飛び放題だったのね。そうした飛行機の中に補佐官殿が懇意にしていた運び屋がいたの。私も檜原で訓練してた時、パラシュートで落ちてくる物資の受け取りを手伝ったことがあるわ。

 「やはり密輸だったんですね。正史では渋谷保安官事務所の装備は品川米軍ルートで供与されたことになっていますが、おかしいと思っていましたよ。」
 「あんたの曾祖母(おおばあ)さん始め渋谷のお偉方の連中が口裏を合わせてそういうことにしてくれたんだろう。米軍の後援を受けた海援隊と繋がりができたのは、厄災で亡くなった渋谷のご遺体をほとんど片付けて平和を取り戻し、渋谷が市になった後なんだ・・・って分かりにくいかな?渋谷再建にあたって、俺たちが最初に取り組んだのは、渋谷の全ての建物に遺棄されているご遺体を、片っぱしからドアを蹴破って探し、しかるべき処置をする作業だったんだ。
 AKを構えた暴徒がどこに潜んでるかわかりゃしない。レベル4プレートを入れたプレートキャリア、アサルトライフル、サブマシンガン、ハンドガン、対物グレネード、フラッシュパン等々、どうしたって必要なものは揃えなきゃならない。品川を制圧した強力な自警団である海援隊が俺たちに注目し始めたのは、俺たちが選挙で渋谷市を立ち上げた成果を見た後だった、この順序は逆ではあり得ない。」
 「ちなみに、武器を買うお金はどこから?」
 「後に『渋谷五人衆』と呼ばれる自営業の経営者の家だった。後に寄付も寄せられることになったが、大部分はあんたの実家の斉藤家、IT長者の久住家、高級中古車ビジネスの森山家、開業医の高橋家、ホテルチェーンを経営してた成海家だ。俺も最初はかなり金を出したがね。」
 「全部、今の市の議席に名を連ねる家ですね。」
 「彼らは金も出したが、命も賭けた。受持地区の遺体回収作業には、防弾チョッキ着て必ず立ち会った。そして愛梨さんもきっと玉緒から聞いたことだろうけど、自分らの未成年の子供たちを保安官事務所の最初のメンバーにしたんだ。」
 「最初の副保安官たちは皆五人衆の子女だったと聞きました。」
 「みんなお嬢さん育ちの娘っ子だった。だから使えるようになったのはほとんど奇跡みたいなものだったよ。」
 「檜原の話に戻りますが、南さん、あなたは檜原に何かツテが有ったんですか?水や自然の資源が豊富な山中に潜伏するという発想は分かりますが、そうでなければ・・・」
 「何もツテなんか無いよ。何を置いても水だった。幸い東京ロックダウンの代償として、政府は電気と通信インフラだけは無料で使わせてくれたんだが。警察ですら機能を停止した状況でさ、都内の浄水場も軒並み全滅、水だけはどうにもならなかったよ。だから俺と文太郎は、水源を求めて西へ西へ進んだというわけだ。どこかには動いてる浄水場もあったのかも知れないが。とにかく武器を手に入れて、檜原にたどり着き、湧き水を沸かして飲んだ。あれは本当に感動的なくらい美味い水でさ、文太郎と俺は抱き合って泣いたよ。それから、人目につかないで隠れ住める廃屋でもあればと、山を歩き回っていたら、山形吉之助という、豚を育てている男に出くわしたんだ。」
 「その方は・・・」
 「厄災後初の檜原村長の山形吉之助さ。天然痘の流行は山梨県境の檜原まで来ていた。元々人口の少ない檜原も12世帯まで減ってしまっていた。俺たちは、檜原にやって来た理由を率直に打ち明け、この地域にも都内から水を求めて暴徒がやって来る可能性が高いことを話した。その前に村としての防衛体制を整えるべきだと。彼は、目先の利く男だったから、生きている住民を集めてくれたんだ。だいぶ昔に天然痘の予防接種を受けていたご老人が多かった。全部で30人弱ってところだった。すぐに決まったのは、村として民主的な意思決定ができる民会を置き、村長を選出することだった。当時、一定の領域を実効支配する民主的な地方政府もどきが申請すれば、日本政府から食料や物資の空輸が受けられることになっていたんだ。そしてもう一つ決まったのは、武器を持たずにやって来た避難者を受け入れて住民にしよう、そして生産者人口を増やし、場合によっては兵隊にしようってことだった。これが東京初の檜原保安官事務所の成り立ちだ。」
 「その手法は、渋谷再建と同じ形ですね。」
 「旧都内の多くの地域は自警団を最初に作るところから始まって、やがて自警団が割拠して延々と縄張争いを繰り広げたために日本政府からの支援を取り付けることが出来ずにいたんだ。それじゃいつまでも日本政府の支援を受けた復興はできない。だから俺たちは、まず住民を代表する正統な地方政府もどきを作るところから始めたんだ。それは人口の少ない、吉之助さんというリーダーのいた檜原では非常に上手くいった。」
 「それで、その後南さんが渋谷と関わることになった。」
 「ああ・・・それがな、その頃の俺たちは拠点としての檜原を守ることしか考えてはいなかったんだよ。檜原の民会は農作物や畜産物の生産に力を入れ、治安は俺と文太郎が二人で担った。ちょぼちょぼ檜原に多摩辺りからの移住民が来て、ぼちぼち生産者人口は増えたんだが、それでも人手は足りなくてな。俺たちは中央道をバイクに乗って東に向かい、パンや卵、ソーセージ、水なんかを持って人をスカウトしに行ったんだ。兵隊に加え、元役人、技術者、法律家なんかをな。杉並練馬辺りまでは粗方探し尽くした。」
 「そこへ渋谷から注文が入ったんですね。」
 「ああ、そうだ。人をスカウトしに行くつもりが、自分がスカウトされちまったということだ。」
 「よく檜原側があなたを手放しましたよね。メリットがあったんですか?」
 「最初は吉之助さんも難色を示したよ。ただ一晩考えて彼は考えを変えたんだ。中々あの人も山っ気のある男でさ、檜原にとって、仮想通貨で動かせる金をたっぷり持ってる渋谷の連中は良いお客さんになるだろうと踏んだんだ。渋谷復興のプロジェクトが頓挫しても、場合によっちゃ渋谷在住の技術系の人材を平和で水や食料の豊富な檜原に引っ張って来ることができる。代々木で事務所を持ってた谷原弁護士を檜原の裁判官に据えたり収穫もあった。高橋医院の高橋先生なんかも檜原に移住した。代わりに檜原診療所の跡取り娘の美穂ちゃんを渋谷に取られたがね。」
 「伝説の”ドクター矢吹”ですね。」
 「あの頃はまだ実家の診療所を継いだばっかりだったんだ。」
 「もっとお話しを伺いたいのですが、ドクターからもう終わりにしてくれと・・・最後に一つだけご質問させていただきたいのですが。」
 「ああ、そうだな、流石に疲れたよ。」
 「先ほどおっしゃいました、最初にご遺体の処理から始めた、その理由について伺いたいのですが。」
 「想像してみてくれ、食料の不足、治安の崩壊、私有財産を守る司法の執行力も無い、何より東京がロックダウンされていて日本政府の助けが無い。まずは何から手をつけるべきか。公衆衛生の回復名目のご遺体のお片づけさ。本音を言えば廃墟の中で尊厳を奪われて死んだご遺体を見なくて済むよう早く作業に取り掛かりたい、そして忘れたいと彼らは皆願っていたんだ。それだけが渋谷の生存者が例外なく納得できる唯一の正義だった。と同時に武器を持つ正当な理由を得られた。このお陰で治安維持という次の仕事に取り掛かる足掛かりができたわけさ。」

 別れ際に補佐官殿は言った。

 「愛梨か、良い名前だ。恐らく昔の渋谷区の花、アイリスから取ったんだろう。」
 「祖母がつけてくれたと聞いています。」
 「玉緒か、まだ娘っ子だった玉緒がもう故人なのか。あの頃を知っている奴は生きちゃいないんだろう?なんだかなぁ。」

 南さん、あなたに生きて会えなくてとても残念。でも、あなたのお気に入りの女の子がまだ生きていて、じきに会えるわ。それはまた別の話なんだけど。

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 202X年2月、俺と文太郎は、四角いバックパックに大量の食料を入れて、250CCのオフロードバイクで中央道を飛ばしていた。その頃、注文の依頼主たちは宇田川町のタワーマンションの斉藤宅に集まって、メンバーの一人IT長者、久住圭吾が中心になって、マンション周辺の防犯カメラのハッキングを行なっていた。
 「50個もハッキングしとけば十分かな。」と言う久住。大画面に次々映し出される映像に満足げだ。
 「なっちゃんパパ、本当に軍隊なんて来るの?」玉緒と夏希の幼馴染、学年一つ下で高校2年生の森山はるかが言った。
 「ライフル持って徘徊する暴徒がわんさかいる渋谷に乗り込んで来るんだから、武器を持ってそれなりの人数で来るはずよ。」と斉藤素子。
 「何か様子がおかしいですね。まとまった数の暴徒が集まってませんか?」ホテルチェーンを経営する成海謙介がメガネを上げて渋い表情をした。
 「おいおい、あれRPGだろ、何するつもりだ?」はるかの父で中古車ビジネスをしている森山和樹が険しい表情で言った。
 「こっちへ向かって来てない?」と夏希が言ったその時、斉藤家の固定電話が鳴った。
 「こちら山形ファーム。斉藤さんのお宅ですか?」
 「ええ、斉藤です。今どちらにいらっしゃるの?」
 「代々木公園のところで宇田川町周辺を見ているんだが、お宅のマンション、武器持った世紀末な奴らに囲まれてるぞ。大丈夫か?」
 「大丈夫・・・とも言えないけど、そちらこそデリバリーは可能なのかしら?」努めて平静を装う素子。
 「無理ってわけでもないが・・・ちょっとホネだな。」
 「待ってるわ。」と電話を切る素子。
 「いた、この2人だ。背中にコンテナ背負ってるから間違いない。」久住が言う。「しかし2人とは驚いたな。2人とも防弾ベストを着てライフルを持ってる。」
 「ちょっと予想外の人数だけど、兵隊が来るってのはあながち間違いでもなかったようだね。私は準備するとしよう。」原宿に高橋医院を構える病院長の高橋隆一が、治療の必要な場合に備えてキットや薬品を出し始めた。
 
 俺と文太郎はガードレールにバイクをチェーンで繋ぎ、徒歩で宇田川町周辺へ向かい、マンション周辺で散開。まずは俺が物陰からRPGを持っているやつの頭を狙って1発。「ワンダウン!」と無線で相棒に知らせる俺、続けざまにアサルトライフルを持った奴を2人倒し、「スリーダウン!」と知らせる。
 流石に撃たれた方向が分かったのか、倒れた仲間からライフルを奪い、フルオートで応戦して来た残りのメンバー。2人倒して俺はすぐにその場を立ち去る。
 「こちら21アダム、そのまま側面から人数を削いでくれ。移動する。」
 「20エドワード、コピー。」相棒も2人倒した。
 散開する敵、相棒の現在地を把握しつつ俺は移動を続ける。「21アダム、テンダウン!」と言った頃には20人強いた敵の粗方を倒し、残りは逃げて行った。
 なお、我々の無線のやり取りは、森山和樹の用意した受信機で聞かれていたようだった。俺たちはマンション正面玄関から堂々と入り、部屋番号を入力してインターフォンを鳴らした。
 「山形ファームです。」
 「どうぞ、お入りになって。」
 オートロックが解除され、ロビーに入れた俺と文太郎は、RPGとAK3丁をロビーのソファ脇に置き、エレベーターで斉藤家に向かった。
 「斉藤さん、山形ファームです。」
 ガチャ!と解錠する音が鳴って、中から少女が2人飛び出して来た。
 「夏希、夢にまで見たアレだよ!」
 「玉緒、あたしゃ泣いちゃうよ!」
 俺と文太郎は顔を見合わせた。
 「檜原サイコー!」と2人の少女は右拳を高々と挙げた!
 「おー!」と文太郎も右拳を挙げる。あ?と目を向ける俺に、文太郎はニヤニヤしながら言った。「・・・いや、喜んでくれてるからさ。」
 「どうぞ、奥へ入ってください。」と言って、俺たちを促した女が斉藤素子だった。昔アイドルでもやってたんだろうかという美貌とズシっと来る肉付き。俺たちのボス、山形吉之助村長が好むタイプだな、と俺は思った。リビングには3人の少女と4人の中年男たち。一番小柄で痩せた男が立ち上がって言った。
 「怪我は無いかい?怪我されたようなら遠慮なく言ってください。私は医師をやっている高橋という者です。今は開店休業中だが。」
 「恐縮です、2人ともかすり傷一つありません。」と俺は高橋に言った。
 「体調も・・・随分良さそうだ。」
 「ええ、お陰様で。」
 「斉藤さん、検品していただいて良いですか?」文太郎が2つのコンテナを開いた。
 「フランクフルト20本、ベーコンブロック1キロ、卵30個、食パン2斤、コッペパン10個。間違いないですか?」
 「ええ、大丈夫ね。・・・というかこれ重かったでしょ・・・。」
 「いえいえ、・・・それじゃこちらが納品書です。」サクっと流す文太郎。
 「奥さん、こちらのアカウントに300ドル入金してください。」俺が素子を促す。
 「ええ、こうね。」
 「ありがとうございます。今後とも御贔屓に。」俺は文太郎を促し、そそくさと立ち去ろうとした。
 「・・・ちょっと待ってくれ!ちょっと!用事はこれからなんだ。」と久住が俺たちを引き留めた。
 「そう、まだ話は終わってないの。」素子が俺と文太郎のシャツの袖を引っ張った。
 「聞きたいことがあるんですよ。」成海も立ち上がった。「悪いようにはしないから。」
 「俺たちは檜原からどんな連中が来るかって興味津々だったんだ。そしてあんたたちを見て俄然興味が湧いた。頼むから話を聞かせてくれ。」森山も立ち上がって引き留めた。
 「いや、代々木公園にバイク置いて来ちゃったしな。」あくまで離れようとする俺。
 「俺車屋なんだ。車でもバイクでも、俺んとこの商品なんでも持ってって良いから、ちょっと話してってくれよ、頼むからさ。」森山が言った。
 「分かった。そこまで言うなら。・・・・」俺も流石に折れた。

ーーーーー1時間後ーーーーー

 「なるほど、檜原村は20世帯まで減ったんだけど、今は八王子方面から流れて来た新住民と合わせて人口が2000人近くまで回復したと。それでアダムさんの部下は現在50人くらいの規模だと。」久住が唸った。「武器は米軍ルートで密輸したのを使ってると。」
 「あんたたちは人材をスカウトに来たということなんだな?」成海が俺たちの訪問の目的を確認した。
 「ああ、そうだな。つうかアダムさんて何だよ。」文句を言いながら、相槌を打つ俺。
 「それはおかしな話だ。どう考えたって俺らは格好のスカウト対象だ。俺はメカニックだし、成海さんはホテルの経営者だから物凄いスキルがある。斉藤さんと久住さんはITの専門家、高橋さんは医者だぜ、喉から手が出るほど欲しい人材だろ。」と森山が言う。
 「良く言うぜ。あんたら渋谷にまだ希望持ってるんだろ?」俺が5人の顔を見渡した。「ほら図星だ。それくらい俺だって分かるよ。あんたら渋谷をどうしたいんだ?どうせ大した絵描いちゃいないんだろ?」
 「その通りだ、絵は描いちゃいなかった。だが、アダムさんがここへ来てくれて初めて、具体的な絵が描けるってのが分かった。光が見えた気がしたんだ。」久住は言った。
 「俺もだ、アダムさん。あんたと相棒の彼は2人で20人の暴徒を蹴散らして見せた。銃があって、訓練すれば、渋谷を制圧することも出来るんだと。」森山も言った。
 「アダムさんて、あんたら無線の音拾ってたのか?だいたい銃で政治が出来るかよ。」俺は言った。「檜原が奇跡的に上手くいったのは、檜原の人口が少ないこと、現実の脅威として暴徒の襲撃が迫っていたこと、村長の指揮下で戦力になろうという住民がいたからだ。あんた達5人で何が出来る?」
 「アダムさんの話の要点は、兵隊の前に、まずは政治だってことなんだな。」高橋が口を挟んだ。
 「その通り。つうかアダムはコールサインなんだが。」俺は頷いた。
 「大きな絵を描くって言ってもな・・・」成海は頭を抱えた。
 「描けるじゃない。」と今まで黙っていた素子が口を開いた。「まずは市民を団結させる目の前の目標を設定すれば良いのよ。」
 「何か良い案があるんですか?」久住が素子を見た。
 「ご遺体の片付け。渋谷の屋内、屋外で火葬されることもなく転がっているご遺体を全部片付けるという目的で、渋谷駅前の全てのドアを破って住民を把握して、復興に組み込んで行けば良いのよ。」素子が続ける。「この最悪の状況は私達の利害をどこまでも分断してしまって、生命・自由・財産を守ることでさえ、私たちを団結させることが出来なくなってしまった。でも流石に異臭を放つご遺体と隣あわせの生活は、誰もが嫌なんじゃないかしら。」
 「斉藤さんの発想はいつもながらに面白いな。差し詰め私の役割は死亡診断書書きというところかな。」高橋が身を乗り出した。
 「当然暴徒どももライフルで応戦して来る・・・だから武装するのもやむなしと住民の皆さんも見てくれるかな。」成海が頷く。
 「宇田川町から駅へ向かって面的に制圧して、まずマークシティを取りましょう。そして最後にあのチャイナタウン化したセンター街。センター街を制圧したら、旧渋谷区内各地から協力者を募れるかも。」素子が目を輝かせた。
 「ちょっと待ってくれ・・・センター街制圧って!」俺は慌てた。「あの昼間からAKの銃声が聞こえるセンター街か?RPGもあそこが出所だぜ。」
 「だから絶対に潰さなきゃ。」素子は言った。「その時には檜原からも応援をいただけるんじゃないかしら。だって、村長さんは商売っ気のある方だし、この渋谷の地元民に貸しを作るのは悪いことじゃないってお考えになるはずよ。」
 「渋谷を制圧したら・・・選挙か。」久住は言った。「地方政府もどきでも夜警国家でも何でも、そこでようやく出発点なんだな。」
 「ゴールは本土復帰だけど、選挙で市制施行できれば、呼応する自治体が発足すると思う。挑んで来られたら戦わないとだけど。新宿、港、世田谷辺りの情勢は重要ね。でも目先のことより、葛飾金町の浄水場を押さえて東京にきれいな水を!みたいなスローガンで人をまとめる必要があるわ。」
 「浄水場だけじゃなく、下水も何とかしないとだろうな。疫病騒ぎから1年経過して下水がどうなっているのか誰も確認して無いよな。ちなみに渋谷の下水は新宿で処理されている。」俺はこの時点で素子に乗せられていたかも知れない。
 ただ、俺の想像の右斜め上を行く絵を描いて見せた素子に面白さを感じたとは言え、それを実現するには、あんた達の言うことを聞く兵隊が要るだろう。どうすんだ?と思っていた。
 「面白い!斉藤のおばさん、絶対やろう!私銃の練習したい。」と森山の娘のはるかが言った。
 「私もしたい。」と高橋の娘の涼子が続いた。
 「お嬢ちゃんたち、意味分かってるのか?」俺は今度こそ本格的に慌てた。「これ学徒動員とかのレベルじゃないぞ、児童労働だぞ!」
 「そうだ、法律が機能しているならな。」一番常識のありそうな久住が言った。「ここにいる家族全員が渋谷に残ることは決めていたんだ。そして渋谷に残るとなれば戦って渋谷を変えなきゃならない、ということまでは受け入れている。あとは本当に戦えるのか、どう戦うか、それが問題だった。」
 「どうせならあんた達が全員で檜原に移住すれば良いじゃないか。そこのホットドッグとサンドイッチのお嬢ちゃんたちもそう思うだろ?」
 「う~ん、悪くないなぁとは思うんだけどさ、そこは夏希とも散々話して、この、コンビニすら行けない渋谷の現状、本当に私悔しいんだ。一番最初に声を上げたのがはるかなのは、多分はるかがこの訳の分からない病気でお母さん亡くしてるからだと思うの。でも、私も同じ気持ち。渋谷を取り戻したい。」
 「多少体力なら自信あるよ、私。」と夏希が婉曲に賛意を表明した。
 「君もなのか?」一番年少に見える眼鏡の少女に俺は言った。
 「私、北京語と英語ができるので、先輩達の役に立てると思います。」と彼女は言った。
 「でも、この子達だけじゃどうしようも無いのよね。銃を扱えるようになっても、組織的な行動が出来ないといけないし、こういう組織では独特のコミュニケーションスキルも必要でしょ?最初は厳しくても、手取り足取りぐらいに教えて貰えないと。」
 「だよな・・・そんなこと出来る奴いないもんな。」と俺は早々に逃げる気でいた。
 「いやいや、惚けてもらっちゃ困る。檜原保安官事務所をイチから立ち上げたアダム保安官様がちょうどここにいるじゃないか。」森山がニヤリと笑う。
 「つまりアダムさん、あんたに娘たちを預けようという話なんだ、これは。」高橋医師が畳みかけた。
 「私たちであんたを雇おうという話なんだよ、アダムさん。」久住もダメ押しをした。「余程のホラ吹きでない限り、300ドルでデリバリーを引き受けるからには銃を持ってるのは確実で、相当な手練れだってことは想像が出来た。あとは山形ファームの実態が問題だったが、それも今日話を聞いて解決した。」
 「檜原保安官事務所は隊員を育成するのにどのくらいの期間をかけるんだ?」成海が尋ねた。
 「2ヶ月だ。」俺は答えた。
 「装備の費用なんかも掛かるんじゃないか?あんたのその装備一式は幾らするんだ?」森山が尋ねた。
 「ざっくり70~80万円というところだ。その他弾薬やら消耗品が必要になるがそれは別で。」俺は答えた。
 「例えば、俺んとこにある車を現物で檜原に渡すことで訓練費用の一部を賄うなんて交渉は可能なのか?あとうちの娘はこれでも東大の理一を目指してたくらい賢い子だから、訓練のない日は使ってくれても良い。樹里ちゃんを語学講師に使うってのもアリだ。あと、檜原のために役に立つシステムをこちらで久住さんが構築して渡すこともできる。金の話は色々交渉ができると思うぞ。」と森山が言った。
 「俺はやるって言ってないんだが、大体檜原村長が俺を手離すわけが無い。」
 「それも交渉次第じゃないかしら。」と素子が言った。「さっきお電話でお話ししたら、一晩考えさせてくれって話だったわ。」

 知らないうちに、俺は頭越しに梯子を外されてしまっていた。

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 私たちは「保安官」と呼ばれる以前に「渋谷駅前地区復興協議会のドアキッカー」と呼ばれていた。渋谷が平和を取り戻した今も、渋谷のドアというドアを蹴破って天然痘でぐちゃぐちゃになったご遺体を片付けた私たちを、「ドアキッカー」の愛称で呼ぶ市民は多い。
 渋谷市の前身、渋谷駅前地区復興評議会は厄災の生存者世帯のうち、比較的裕福な5つの家で構成されていた。宇田川町だけで他にも50ほど生存者世帯はあったが、残念ながら自分たちの持ち出しでご遺体の片付けをしようなどという奇特な者はいなかった。
 私の母たちは、まず住んでいたマンションから、丁寧に戸別訪問を始めた。崩壊した管理組合の代わりにマンションの持ち回り入居者総会を行い、渋谷に留まる人たちと、渋谷から移住する人たちを選別した。移住者組は檜原へ。檜原から新鮮な水を運ぶ給水車とワンボックスカーが、檜原保安官事務所の警護つきで檜原との間を往復したものだ。これだけのものを守って中央道を往復できる檜原の軍事力に、母たちは感嘆させられたものだ。財産を持った移住者たちは、檜原を一大消費地に変えるとともに、のちに新しい産業を興すことになった。
 留まる人たちには渋谷駅前の制圧から、政府の支援を取り付ける計画を説明し、協議会名簿に署名して貰った。署名者には、無償でレベル4プレートの入ったプレートキャリアが配布された。徐々に増えていく復興協議会の賛同者たち。
 私たち5人の娘たちの身は、南保安官に託された。私たちは檜原ファームと呼ばれる訓練場で訓練を受けていた。
 檜原ファームでの2ヶ月の訓練は、まず着替えから始まった。揃いの紺のフーディ、茶のカーゴパンツ、黒のトレッキングシューズを履き、同じWILEY-Xのシューティンググラスを着用。ご丁寧に近視の樹里のためのシューティンググラスも、訓練初日からしっかりと準備されていた。
 「ポリマー製で一定防弾性能もある。米軍が使っているのと同じ材質でクリアレンズを作れる職人を俺が村に呼んだんだよ。」と南は言っていた。
 「なんでも揃うんだ、すごいね。」私は目を丸くした。
 「ほら、俺のも遠近両用だ。」南は小さな文字を読むための小玉レンズのついたシューティンググラスを外して見せてくれた。
 山中に作られた射撃場で、私たちは訓練教官と顔合わせをした。一人は南とともに渋谷にやって来た木下文太郎。もう一人は中島清美と名乗った。揃いの緑色の戦闘服に茶色のプレートキャリアを着ていた。
 「この二人は俺の信頼する部下で、檜原の副保安官だ。2人とも普段は20人近くの部下を率いる経験豊富な隊長なんでなんでも相談してくれ。」と南は言った。
  初日から清美による射撃訓練が始まった。X300Uというライトをフレームのアンダーレイルにつけたグロック22が一斉に的に向けて火を吹く。私たちの中でも、涼子は特に目が良く、そこそこ反動の強い40口径のグロックで、標的中央を的確に射抜いていた。最初の2日はハンドガンとKRISS VECTORサブマシンガンの射撃に明け暮れた。
 3日目以降はハンドガン・サブマシンガンに加えてアサルトライフルの射撃。銃の分解・手入れ・組み立て、無線の操作方法、爆発物の扱いなどの座学に基礎体力をつけるトレーニングを開始。
この日からはるかは、南さんの指示で、ドアを安全に破るための指向製爆弾、後にはるかがAMG01(アーマーゲーゼロワン)と名付けた対物グレネードの開発に入った。
 多少は体力に自信ありと言っていた夏希は、ズバ抜けて運動能力が高く、廃校のグラウンドでのサーキットトレーニングは彼女の独断場だった。
 自動車、バイクの運転に関しては、はるかの独断場だった。森山家の家業は、前世紀のクラッシックカーを現代の技術で復元するというとてもエッジの効いたものだ。16歳にして既に家業を手伝い、別荘の敷地でクラッシックカーをいじり倒し優雅に乗り回してきた彼女にとって、普通の車両の運転は退屈ですらあった。
 2週目に入ると訓練日課は1日8時間に増え、座学には英語1時間、中国語1時間、手話1時間が加わる。英語と手話は南が自ら講師となって教えた。予想していた通り、語学の授業はホテルマン成海謙介の娘である樹里の独壇場となった。南相手に大変流暢な英語を話すのには驚いたものだった。もっと驚いたのは中国語の講師が樹里だったことだ。考えてみれば当然だ。台湾と日本を頻繁に往復していた樹里は、ネイティヴ仕込みの北京語が話せる。南さんも生徒になり、活発に質問した。南さんは私たちの指導者だったが、出会う人から必ず何かしらを学ぼうとする人だった。
 私の見せ場は3週目に訪れた。当時21歳、後に私の夫になる木下文太郎が、警察格闘技の講師だった。私には、全く格闘技の心得は無かったが、相手の体の自然な動きにとって異物となるような動きを作り出し、相手の力を利用して倒すという合気道のコンセプトがとても気に入った。
 筋骨の発達した大柄な南さんを文太郎は事も無げに倒して見せた。首を傾げながら何度も文太郎に挑んで倒される南さんを、夏希とはるかは大笑いしながら見ていたが、私は南さんと文太郎の間に、互いの力を自分に有利に利用するための目線による激しい駆け引きが行われているのを見て取った。南さんは決して弱くない、文太郎が強すぎるのだ。
 クラヴマガのトレーニングが始まると、組手で私は他の4人を全く寄せ付けなかった。そのうち私の練習相手は南になり、合気道なら私は南さんからも一本取ることもできるようになった。
 「実戦格闘技で使い物になりそうなのは玉緒だけだなぁ。危険な現場で必ず体術は役に立つ。東京に戻ってもみんなトレーニングは続けて欲しい。」と文太郎は言った。
 最後の1ヶ月はフル装備での山中行軍と、建物を使ってのCQBのトレーニングを徹底的に行った。その頃には、はるかが開発した「アーマーゲー」も量産が始まり、都心のマンションのドアを安全に破る技術に関して、私たちは大いに自信を持った。
 2ヶ月の訓練終了後、黒いプレートキャリアに”SHERIFF”という胸パッチと中央にハチ公らしき犬が描かれたバッジパッチを着け、左腕には”SHIBUYA CITY SHERIFF”と書かれた緑のパッチを着けた私たちが渋谷に帰った。
 いよいよ私たちの戦いが始まった。宇田川町の2つのタワマンは、住民と管理組合の協力で全戸のチェックが終了していた。応答の無い部屋はマスターキーで開けチェックをするという徹底ぶりだ。普段はプライバシーにやかましい旧東京都心民が、隣家に天然痘で亡くなったご遺体が・・・と想像するや進んで協力した。特殊な時代の風景というやつなんだろう。
 宇田川町を2つのブロックに分け、駅から遠い方のブロックを悉皆でブリーチングして行く私たち。住居か商業施設かを問わず、あらゆるドアというドアを開けてクリアリングした後、ご遺体を回収する毎日だった。旧渋谷区は、昼間人口が約50万人、その人口が厄災で一気に推定2,000人弱にまで減ってしまったわけだから、私たちは49万8千体以上のご遺体を片付けなければならない。作業が始まると、涼子パパの高橋医師は、日に100件近い死亡診断書の処理に激しく消耗し始めた。
 宇田川町が終了し、いよいよ渋谷駅周辺へ。建物は、様々な人種の生存者に不法占拠されていた。私たちは、財産を守るための法が機能しなくなった東京で不法占拠も何も無いという現実をまずは認めるしか無かった。私たちは、拡声器を使って、不法占拠については不問に付すること、協力すれば3日分の食料と水が与えられることを予めアナウンスした上で、一軒一軒ドアをブリーチングして行った。
 アナウンスが効いたため、私たちに保護を求める人たちも少なからず、希望者は私たちの仕事に加わることになり、彼らの中からやがて渋谷保安官事務所2期生が生まれることになる。いずれにせよ、生存者から得られた情報とマンパワーのお陰で、作業は加速して行った。
 街中で銃を所持する暴徒と遭遇して銃撃戦になることも多かった。もちろん南の指揮あってのことであるが、CQBの特殊訓練を受けていて、無線で連絡を取り合って連携して対処する私達が後れを取ることはなかった。 
 ブリーチングも100件やれば数件は撃ち合いになった。素直に投降してくれればAKを没収し食料と水を与えて解放するが、銃撃戦が頻発する渋谷で進んでAKを差し出す者は少ない。上手く逃げる者、命懸けで抵抗する者、高層ビルの窓から飛び降りる者が多かった。109をブリーチングした時には、激しい抵抗を受け、遺体の回収を手伝っていた臨時雇いの作業員から死者が出た。捜索するとAK 47だけでなくAKM、AK74のような比較的新しいライフル、RPGや爆弾が大量に発見された。あの激しい抵抗も武器庫だったと考えれば合点が行く。
 誰が、どういう目的で都内に武器を持ち込んでいたのか。AKを使用して悪事を働いたとなると、私たちは脊髄反射的に中国系や北朝鮮系の生存者を疑いがちだった。ところが銃撃戦で倒した相手を見ると、日本人も多かった。「銃撃戦、倒してみたら、同胞か」とは、はるかが詠んだ不味い川柳だ。それはそれとして、アサルトライフルを大量に所持していたのは中国人の生存者ではあった。
 マークシティを制圧完了した後、いよいよ私たちは、初期の目標、渋谷センター街制圧戦に取り掛かることになった。渋谷センター街はチャイナタウン化していた。東西出入り口にはバリケードが張られ、中の様子は伺えない。しかし中からは昼間でもAKをパンパンと空に向けて発砲する音が聞こえていた。評議会は復興の障害となるチャイナタウンの制圧を私たちに命じた。南さんとはるかが中心となり、制圧作戦の立案が行われた。はるかはこの頃、私たちの司令塔としての役割を担っていた。私たちを指揮した南さんは、かなり力を込めて言った。
 「”勝てば官軍”という言葉を知ってるよな。俺たちは、ある程度市民からの支持を得ているとは言え、あのセンター街以外を実行支配しているだけの単なる武装勢力でしかない。武装勢力という意味では奴らと我々は同じだ、負ければ渋谷の支配者は奴らになる。絶対に敗北は許されない。」
 センター街を見下ろすビルの屋上には、M14ライフルで徹底的に狙撃の訓練を積んだ涼子をスナイパーとして配置。無線にヘッドセットを接続した樹里が無線接続のスピーカーでアナウンスを行い、非戦闘員の退去を促した。
 はるかは、バリケートの構造を分析し、破壊プランを立て、準備した。突入は私と夏希で行うことに決めた。この渋谷センター街のリーダー格の王忠峰という老人、コードネーム「ジャイアントパンダ」を確保するのが私たちの任務だった。はるかはこの作戦を「オペレーション・ジャイアントパンダ」と名付けた。
 12月初旬の雪の夜、23時30分きっかりに、センター街入口の爆破が始まった。はるかがフェンスにワイヤーをかけ、爆破と同時にブルドーザーで引き倒し、そのままブルドーザーで急速後退した。そのブルドーザーに次々RPGが撃ち込まれたが、はるかも心得たもので炎上するブルドーザーを乗り捨てて逃走。
 ビル屋上からの狙撃でRPGを抱えた戦闘員を間引いた涼子は、別のビルに移動。
 炎上するブルドーザーの陰から、文太郎が指揮する檜原からの応援部隊がAR-15を撃ちまくる。
 互いに損耗を避けるため膠着した正面をよそに、私と夏希がマンホールを通ってセンター街に侵入し、センター街正面の敵の背後からフラッシュバンを投げた。正面の敵は挟撃されたと勘違いして総崩れになったため、文太郎の中隊が雪崩れ込んだ。
 抵抗の意思を見せる戦闘員と戦いながら、一軒一軒丁寧にドアを破っていく私と夏希。
 「王忠峰を探している、知らないか?」と中国語で叫びながら居場所を探す私たち。
 別のドアに向かおうとする私たちの前に、立ち塞がるRPGを持った男。私は下半身にタックルして引き倒した。どんだけバカなんだろうか、室内にRPGを撃ち込もうとするなんてと思ったが、それだけ戦場は混乱していた。
 「夏希!早く手錠!」と私はRPG野郎を拘束しながら夏希に怒鳴った。
 倉庫らしき建物を破ると、大量のアサルトライフル、RPG、手榴弾を発見した私たちはゾッとした。使い方によってはこの戦争に十分勝利できるだけの物量がチャイナタウンにはあった。
 私より先に倉庫から出た夏希が、何やら中国語で叫んでいる。その日夏希は、いつも使っているグロック22の調子が悪く、南さんからバックアップ用のグロック19を借りていて、その銃を抜いて叫んでいた。
 「銃を下ろしなさい!」夏希が銃を向けている方向には、小学校低学年ぐらいの男の子だ。その子供が、AKを構えて夏希に対して何やら叫んでいた。
 (夏希、撃てないんだ・・・。)と私は思って、KRISS VECTORの銃口を少年に向けようとした瞬間、目の前で少年の頭が割られたスイカのように破裂した。夏希は「ヒィ!!!」と声を上げて腰を抜かした。
 (涼子の方が早かったか・・・ありがとう、涼子。)と、私は見えない涼子に心の中で手を合わせた。
 「夏希!行くよ、まだ任務終わってない。」

 檜原E中隊の制圧区域が広がり、銃声がまばらになって行く。バリケードを物理的に除去するはるかの運転するシャベルカー。樹里のアナウンスがどんどん近くなって行く。私と夏希はその頃、裏通りを逃走する2人組を追っていた。
 一人が、AK74を短く切り詰めた「クリンコフ」と呼ばれる自動小銃を持っていた。(クリンコフは暴徒の多くが持ってるAK47より精度が高く、反動も小さい。クリンコフを持ってる奴は十中八九手練れで、王忠峰の護衛の可能性が高い。)と南さんは言っていた。乱射して私たちを足止めしようとする護衛らしき男。撃ち返す私のグロック22と夏希のグロック19が火を吹き、倒れる護衛。
 「止まれ!止まらないと撃つぞ!」とアサルトライフルに持ち替え、憶えたての中国語でもう一人の男に怒鳴る夏希。
 「膝をついて手は頭の後ろ!」と指示する私。
 私は腰のハンドカフポーチから頑丈な金属製の手錠を取り出して男を後ろ手で拘束した。
 「やっぱ王忠峰だ。」と言った私「夏希、本部に報告して。」
 「30メアリーより本部!30メアリーより本部!応答願います!」
 「こちら本部。」聞こえたのは私の母の声だった。
 「ジャイアントパンダ確保!繰り返す、ジャイアントパンダ確保!」
 センター街制圧戦の形勢は決した。

 実際死者こそ出さなかったものの、檜原のE中隊から腕や脚に被弾した隊員が出たほか、夏希も肩に被弾していた。本当に際どい勝利だった。
 南さんと樹里に王忠峰を引き渡し、私と夏希は、ご遺体の捜索とセンター街側の武器の回収に注力した。作業が終わったのは午前2時。ヘルメットを脱いでスクランブル交差点で所在無げに佇む私たちの前に、ボランティアのおじさんが、廃材の入ったドラム缶を持って来て、火を点けてくれた。
 「ありがとうございます!」と敬礼する私と夏希。
 そこへはるかが合流した。
 「ジャイアントパンダ確保!あたしゃ感動したよ・・・お2人さん。」とニヤニヤ笑うはるか。「よくやったよ、先輩たち!」
 「ナイス作戦はるか!」とはるかを抱き締める私。
 「私はしくじった。」いつもより随分暗い顔の夏希「子供にAK向けられて固まっちまった。」
 「夏希、それは違うよ・・・あんたが撃てなかった時のために私らは2人で組んでるんだ。それに私だって一歩後れたんだから。」と私は夏希を慰めた。
 「私たち・・・涼子がいなかったら2人とも死んでたかも。」夏希は涙を流した。
 そこへ涼子が現れた。
 「寒いです・・・ずっとビルの上にいたんで・・・火に当たらせてください。」
 「涼子・・・ごめん。あんたに子供を撃たせちまった。」夏希が涼子に言った。
 「南さんから言われてました。まずはRPGを潰せ、その後は玉緒さんと夏希さんのバックアップだって。あの2人はギリギリで引き金を引けないかも知れない。まだ罪を犯していない子供を撃ってもいいんだろうかと迷うだろうっって。」
 「南さんに全部バレてる!私、自分が死ぬだけなら良いじゃんてあの時思っちゃった。あの子が私を撃ったら、流石に玉緒も撃てるだろうって。でも私、撃てなかった。」夏希の声は暗かった。
 「南さんは言ってました、遠くから見てるお前なら撃てるって。そういうことなんだと思います。私だって目の前の子供なんて撃てるかどうか・・・」寒さで今ひとつ歯が噛み合わない涼子が言った。
 「涼子、あたしゃ一生あんたに頭上がらないよ。」と涼子を抱き締める夏希。
 「生きてて・・・良かったですよ・・・とにかく。」寒さで口が回らない涼子。
 「で、はるか・・・樹里はどうしたの?」私は、戻って来ない樹里が気にかかった。
 「マークシティで取り調べに付いてるんだと思うよ。樹里大活躍。」と上機嫌のはるかは言った。
 程なく樹里が合流した。
 「聞いてくださいよ、先輩たち。ジャイアントパンダ釈放です!」
 ポカーンと呆けたような顔をする私と夏希。
 「何て顔してんのお二人さん。」とはるかが言う。「公開処刑にするとでも思ってたの?」
 「いや・・・ちょっとビックリして。」そう言えば私たちは、王忠峰を逮捕した後どうするのか、何も考えてなかった。
 「バリケードを作らない、武器を使わない、渋谷駅前地区復興協議会に参加する・・・を条件に全員釈放、明日から商売は通常営業で良いって。」樹里が言った。
 「そう言うことか。マンションとか商業施設の制圧と変わらないってことか。」夏希が頷いた。
 「でもこれが戦争の、本当にあるべき姿なのかもね。」と私も頷いた。
 しばらくして私たち5人を労うため、檜原の山形村長が直々に作ってくれた猪汁を持って来てくれた。猪汁をすする私達。味噌の味、猪肉の歯応え、ジャガイモの甘み、ネギの香り、ニンニクの辛味、上がって行く体温。スクランブル交差点で猪汁を食べるなんてあり得ないやり方で大仕事を労われた私たち。
 私達に背中を向けてタバコを吸っている山形村長が、空を見上げた。雪だ。
 生きてて良かった。ただただそう思った。

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 都心から遠く離れた檜原でドクター矢吹は父親を含め多くの人を看取った。繰り返される高熱と身体中に現れた膿疱。症状は病原体が天然痘であると雄弁に語っている。問題は膿疱から取られたサンプルを電子顕微鏡で覗いても、ひよこ豆のようにびっしりと蝟集しているはずのあの直径200ナノメートルのウイルスは発見できなかった。
 檜原で唯一機能している医療機関、檜原診療所を先代が亡くなって継いだ矢吹美穂は、管轄の西多摩保健所に報告しなければならない。ところが、それが天然痘の症状であることが分かっても、病原体が特定できないのだからお手上げだ。彼女は、父親の死亡診断書に「天然痘類似のウイルス性疾患」と死因を書き、診断医として「矢吹美穂」とサインした。
 やがて西多摩保健所も閉鎖、奇妙と言うか幸いと言うべきか、父親の濃厚接触者であったにも関わらず、ドクター矢吹と彼女の従妹で診療所看護師の中島清美は、この奇妙な天然痘に罹患することは無かった。後に彼女は、その時の気持ちを「何とも仲間外れのような気分だった。」と言っていたが、あらゆることがそうであるように、仲間外れには仲間外れの仲間がいるものだ。
 当時栗やシイノキ等、季節になるとナッツ類をばらまく木が群生する山の中腹に暮らし、なんちゃってブランド豚を飼育していた後の村長の山形吉之助も、天然痘に罹患しなかった一人だった。檜原に俺が現れ、彼が生存者世帯を集めて民会を作った時から、檜原村の潮目は変わった。
 ちょうどその頃ドクター矢吹は、後に歴史に刻まれることになる大発見をした。きっかけは些細なことだった。いつものように「おはようさぎー!」と長い髪をうさぎの耳のようにたくし上げて出勤して来た清美の声で、電子顕微鏡の前で寝落ちしていたドクター矢吹は目覚めた。

 「あ~美穂ちゃん化粧も落とさないでまた寝落ち、ダメだよ~。」
 「ああ、清美かぁ。」ドクター矢吹は薪ストーブでお湯を沸かし始めた。
 「もう天然痘探し諦めようよ、私たち生きてるんだしさぁ~もうどっかの優秀な偉い先生に任せればいいじゃん。こんな東京の外れの村医者の手には負えないって。見つからないってことは、う~ん、多分ちっちゃちぃになって隠れちゃってるんだよ。」
 「ちっちゃちぃ?」
 「寒くてちっちゃくなったちんこみたいな感じでさ~。」
 「全くあんたはしょうも無い・・・ちっちゃ・・・。」
 その時ドクター矢吹は、突然に天啓に打たれ、電子顕微鏡の倍率を上げた。奴らはいた。200ナノメートル?とんでもない、5ナノメートルのひよこ豆たちがビッシリと蝟集していた。奴らは最初からそこにいたんだという事実にドクター矢吹は背筋が震えた。
 あらゆることが一気に彼女の中で繋がった。こんな天然痘、人為的にしか作れない。これは小型化された天然痘を生物兵器として使った計画的な攻撃だったんだと彼女は確信した。普通天然痘は人か猿くらいからしか感染しない。しかしこの大きさなら蚊をキャリアにすることすらできる。
 ドクター矢吹は、小さなレポート”the discovery of hyper-mini smallpox”を仕上げ、厚生労働省、在日米軍に送り、自分のSNSにアップした。彼女のこのレポートが後に米空軍を動かし、空軍と品川海援隊との連携を通じて、東京復興を加速させることになる。
 ほどなく中島清美は、俺と文太郎が立ち上げた檜原保安官事務所の3人目の隊員になった。天然痘騒ぎが大勢の死者を出してほぼ収束したことで、看護師の仕事が暇になったので、余技として銃を学びたいということだった。腕っ節が強く、病棟勤務の経験もあり、情報共有の技術に長けていた彼女は、意外と高い適性があった。
 檜原保安官事務所は、M-LOKハンドガードの10.5インチバレルのAR15を制式銃としていた(この仕様は渋谷保安官事務所にも引き継がれる)。選定の際、SIG SAUERのMCXを候補として取り寄せたが、清美はこの試供品を自分の銃として好んで使うようになった。マガジンは常にプレートキャリアに4本。重くないのか?と聞いても、「全然。」と言う清美に、大した体力だと俺は舌を巻いたものだ。
 
 今、ドクター矢吹は原宿竹下通りに診療所を構えている。清美もドクター矢吹の護衛兼看護師として来ている。ドクター矢吹と清美は危険な渋谷を飛び回っているため、揃いの渋谷保安官事務所の黒いプレートキャリアを支給され、常に着用している。
 「センター街制圧戦」後、重度のうつ病(と見られる)高橋医師と交換トレードで、ドクター矢吹が渋谷の仕事を引き継ぐことになった。渋谷駅前復興協議会は渋谷駅から放射状に復興の対象を広げ、現在は「渋谷復興協議会」と名前を変えている。
 高橋医師の代役として、ドクター矢吹は、医療・公衆衛生担当理事として執行部に席を持ち、加えて原宿・表参道地区を受け持ち地区として持つようになった。死亡診断書書きは、高橋医師を使い潰してしまった苦い経験を踏まえ、久住副議長がシステム化してくれたために随分楽になっている。久住副議長はIT長者で、若い頃からこの手のシステム作りはお手の物だった。この地区担当の副保安官は森山はるか。はるかとドクター矢吹の努力のお陰で、原宿・表参道地区はご遺体の匂いのしない、浄化された地区になりつつあった。
 その日は清美の運転するジムニーに乗り、ドクター矢吹は、青山学院大学の会場に向かい、久しぶりに地区の住民を集めて健康状態を診ている。健康診断が終わると炊き出しが始まる。この炊き出しは人材発掘の絶好の機会だった。集まる住民の中から復興に協力できそうな人材を発掘して欲しいというのは復興協議会からの切なる要請だった。隣の代々木地区から炊き出しにつられてやってきた谷原弁護士を「発掘」したのは、青山学院大学での炊き出しの時だった。もっとも谷原弁護士は、渋谷の名士達も頭が上がらない、我らが山形村長に召し上げられてしまったが。
 清美は、頰のふっくらとした美形と、高いツインテールに赤のベレー帽のお陰で、男女を問わずファンが多く、地区でもちょっとした有名人になっていた。その日の健康診断は盛況となるかに思われたが、AKを抱えた5人組に襲撃を受け、激しい銃撃戦が始まってしまった。こうなってしまうとドクター矢吹にできることは無い。参加者は散り散りに逃げ、清美が無線で応援を呼びながらMCXを撃ちまくる。
 やがて応援が到着する。今や20人の部下を任される隊長となったはるかが、AR-15のチャージングハンドルを引きながら臨場してきた。1人を射殺、1人を確保したものの、3人は逃げおおせた。確保した中国人青年を後に取り調べたところによると、目的はドクター矢吹の拉致だったようだ。街は浄化されたとは言え、まだまだ安心には程遠い。
 なお、その日は大きな収穫があった。健康診断の参加者の中で、下半身から血を流して倒れていたベトナム人の壮年の男と付き添いの若い女性がいた。ドクター矢吹は、最初逃げ遅れて被弾したのかと思ったが、出血していたのはアメーバ赤痢による血便だった。
 動かせないほど衰弱していたその男に、ドクター矢吹は、その場でメトロニダゾールを静注した。動かせるようになったのでマークシティに彼を移し、2週間ほど投薬を続けた。同伴の若い女性は、日本語が達者な韓国人女性で、名をパク・ソアンといった。聞いてみると、彼女は南麻布の韓国大使館の駐在武官で、驚いたことに階級は少佐だという。20歳くらいに見えた彼女の実年齢は、32歳。もっと驚いたことに、男性は長い間安否が不明だった、ベトナムのグエン大使だったということが分かった。
 パク少佐とグエン大使は、それぞれの大使館の数少ない生き残りだった。パク少佐によると韓国大使館は高官が軒並み感染症で亡くなり、大使館員も散り散りになってしまったのだと言う。戦闘の激しい旧港区から渋谷に避難して来た時に、顔見知りのグエン大使と遭遇。旧知の縁で彼を守りながら、一緒に避難生活をしてきたそうだ。
 復興協議会側のトップとして、斉藤素子議長がグエン大使を見舞い、母国にSNSで無事を伝えましょうということになった。このことの政治的な効果は絶大だった。旧渋谷区及び周辺区に様々な形で潜伏していた外交官が、競うようにして復興協議会の保護を求めてやって来た。
 当然の結果であるが、彼らを保護したことで各国から義援金や物資が多く寄せられることになった。その後グエン大使の肝いりで在渋谷ベトナム人会が組織され、日本語の出来る多勢のベトナム人が渋谷に集まって来た。これによって、渋谷は貴重なマンパワーを獲得することになった。
 グエン大使はしばらくドクター矢吹の処方したパロモマイシンを取りに来ていた。治療最後の日、グエン大使は、ドクター矢吹に古い銃の入った木箱を渡した。
 「私はもう保護を受けているが、あなたはまだ渋谷の復興のために危険な仕事を続けなければならないのだろう?医者には銃を嫌う人もいるが、これは私から命の恩人に『無事でいてください。』というお守りのようなものだと思っていただけると嬉しい。ジャストインケース・・・ね?」
 なかなか綺麗な英語でドクター矢吹にそう言って、グエン大使はとても印象深い笑顔を浮かべて大きな手を差し出した。彼女は「お元気で」と言って握り返した。
 マークシティでの保安官事務所定例会合の後、ドクター矢吹は、グエン大使から頂いた銃を俺たちに見せた。

 「おいおいおいおい、これはとんでもない値打ちもんだぞ!CZ75のファーストモデル、大使のプレゼントだって言うから何だと思ったら、セミオートハンドガンのポルシェカレーラじゃないか。マニア垂涎の品だよ。はるか、ちょっと聞いてみてくれ。」
 俺はCZ75を分解し、スライドを取り外し人差し指の爪で弾いてみせた。キンキンという実に良い音がした。
 「これどんな鉄使ってるの!?すごいよこれ。」はるかが身を乗り出して来た。
 「だろ?これが作られた当時のチェコスロバキア工廠は、世界最高のセミオートハンドガンを作るためにコストを度外視して最高の合金を使ってる。手入れは良いみたいだが、念の為はるかがざっと見てやってくれよ。俺の伝手でホルスターと予備のマガジン、9mm弾を調達するから。すごい値打ちもんだ、大事にするといいよ、先生。」

 ちょうど一週間後、はるかの使いがCZ75と俺の調達したアクセサリ一式をドクター矢吹に届けた。それ以降、ドクター矢吹は、新たに商売道具に加わったCZ75を腰の4時の位置に固定するようになった。

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 「残るは代々木、代々木が片付けば私たちは渋谷市政施行を宣言します。高橋隊長にはとても期待していますよ。」と、復興評議会議長である母からのメッセージを受け取った涼子。
 樹里の担当する幡ヶ谷・笹塚地区はかなり前に片付いた。樹里の地区は代々幡斎場を擁し、彼女と部下たちは、フル稼動する火葬場の警備が主な仕事になっていた。何せ死者の数が尋常ではない。ただ、不思議とほとんど目立った攻撃は無かった。死者を送る行為への妨害には、暴徒も抵抗があったのだろうかと、私たちは思っていた。
 表参道・原宿地区に加えてはるかが受け持った代官山地区も片が付いた。松濤・代々木上原・広尾の高級住宅街は夏希が解放。夏希の地区の住民たちは、地区の活動に熱心に参加する夏希にとても好感を持ち、数十年後に夏希が市長選に立候補した際は、熱心に夏希を支える票田となった。
 ちなみに、本拠地渋谷駅前と恵比寿地区は私が守っている。
 旧渋谷区内で新宿に一番近く、最も治安が悪い地域だった代々木・千駄ヶ谷地区のブリーチングは、ご遺体の処理、銃火器の捜索と押収等、涼子の努力でとても効率良く進んだ。しかし、新宿からやって来る武装した新住民による暴動が頻発し、片付けても片付けても遺体が増えていく悪循環の中にあった。グエン大使の厚意で提供していただき、本拠としていた旧ベトナム大使館に籠城し、隣接地区の樹里やはるかに応援を求めてやっと暴徒撃退なんていう際どい事件も起こった。
 その時涼子は、元保育士で渋谷保安官事務所2期生の松丸千草をスポッターとして連れて、樹里に自分の隊を任せ、大使館を離れ、無線を持ってビルからビルへと移動、一人のスナイパーとして暴徒を丁寧に間引いていったものだ。
 樹里が北京官話でアナウンスをする。後で聞いたところによると、「ここ代々木にはセンター街の暴徒を倒した凄腕スナイパーが来ている。銃を捨てなければ必ず死ぬと思え。命が惜しければすぐに銃を捨て、腹ばいになれ!」と言っていたらしい。全く樹里も言うようになったものだ。 
 後に「代々木戦争」と呼ばれたその事件では、涼子率いる代々木分署の隊員たちが不眠不休でライフルを撃ちまくり、大量の死体の山を築いた。数百人規模の暴徒襲来の情報を得た涼子は、重い仕事の前のルーティンとなっている、手製のジェノベーゼソースのパスタを隊員たちに振る舞い、「皆さんの命を私にください。」と言ったらしい。
 もちろん備えはしていた。私たちは押収したAK含め、ありったけの火器を代々木分署に持ち込み、加えていつでも援軍に行ける準備をしていた。
 ところがそんな時に、突然樹里の守っていた代々幡斎場が襲われた。応援を求める連絡にはるかが呼応して出動、すると今度は表参道の青山学院が襲われた。流石に私もこれは同時多発的な、組織的な動きだと気付いた。次は松濤地区、そして中心街が狙われると。
 南さんは、夏希パパを叩き起こし、街中の監視カメラをライブにして敵の拠点を突き止めた。南さんは、私の部下10人にナイトビジョンを装着させ、敵の拠点に突入、文字通り「殲滅」した。
 夏希にも松濤地区の敵の拠点強襲を指示、南さんは、そのまま原宿へ向かった。原宿の暴徒との戦闘は多勢に無勢、南さんは、私の部下に死傷者を出さないような慎重な戦闘を選択せざるを得なかった。ところが、そこへ代々幡の暴徒を蹴散らしたはるかが合流、挟撃により原宿の暴徒は排除することができた。
 ここで夏希のチームを動かし、涼子に合流するよう指示する南さん。センター街の借りを涼子に返すぞと代々木に急行し、奮戦した夏希。M14の弾を撃ち尽くし、AR-15を3丁ダメにして、AK47を撃ちまくり、最後はグロック22で応戦していたという涼子は、到着する援軍の動きをベトナム大使館屋上から確認し、ようやく安堵することができた。
 さながらベンガジのアメリカ在外公館襲撃事件のような大規模襲撃に、不眠不休で持ち場を守った涼子。私達5人の中でも、最も清楚な見た目と大人しい性格の涼子、皮肉なことに彼女の武名は私達5人の中で最も轟くことになった。
 「センター街のホークアイ」に加え、「代々木の火龍」の二つ名を手にした涼子。でも私達は涼子を決して妬むことは無かった。
 代々木の治安状況はようやく沈静化した。7.62×39ミリ弾の弾痕とRPGを食らった建物の生々しい破壊箇所、火炎瓶で焼けた壁を見た母は、「ありがとう、高橋隊長!」と涼子の手を握った。

 市政を施行するにあたり、母は旧渋谷区の9管区を復活、これに伴って保安官事務所の管区も9管区となった。本庁管区は私が担当、旧恵比寿駅前出張所管区は新しく保安官事務所に加わったパク・ソアン少佐が担当、旧上原出張所管区と旧西原出張所管区は夏希が兼任、旧本町出張所管区と旧笹塚出張所管区は樹里が兼任、神宮前出張所管内ははるかが担当、旧初台及び千駄ヶ谷出張所管区は涼子が兼任することになった。なお、創設以来の古株として矢吹先生付き副保安官の清美さんも副保安官会議に参加している。
 考えてみればとても奇妙なことだが、私たちは保安官事務所を名乗りながら、逮捕と治安維持のみを行い、その後の裁判や刑の執行は全く行わなかった。そもそも私たちには捜査のノウハウも無いし、もっと致命的なことに管轄する裁判所も、刑の執行を担当する刑務所も無かった。信じられないことだが、私たちは逮捕した凶悪犯の氏名を記録、写真を撮影して48時間尋問したらそのまま釈放していたのだった。
 「法律家が欲しい!資格のある人でなくても良いの!法律の問題を整理してくれる人がいればそれで!」とは当時の母の口癖だったが、裁判については、ほどなく檜原村に雇われて裁判官となっていた谷原弁護士が渋谷の裁判官を兼任してくれることになった。これで逮捕令状、捜索差押令状、検証令状等様々な令状の請求が可能になった。もちろん裁判も。
 刑罰の執行についてはグエン大使の伝手でベトナム人のチャン氏が紹介された。彼はベトナム法務省の若手の役人で、青山学院大の刑事政策専攻で留学していたのだという。奇妙なことだが、私たちはベトナム人留学生のチャン氏から日本の刑事政策を学び、禁錮や罰金といった基本的な刑罰を執行するための条件を整えていくことになった。
 市政施行が宣言されると、代々木でまた事件が起こった。新大久保コリアタウンからの住民の大量流入である。コリアタウンと言うが、韓国系の住民だけでなく、アジア各地の系統の住民が多くひしめきあう地域であり、彼らが言うには、新大久保から逃げてきたとのことだ。近隣とは言え、旧新宿区の情報はこれまでほとんど入って来なかった。だが彼らの情報を総合すると、どうやら新宿には大きな武装勢力が育ちつつあるらしく、彼らが外国人に危害を加えていることは間違いないようだった。母は南さんを派遣して、対策本部を代々木の旧ベトナム大使館に置くこととした。もちろん、新宿への備えは涼子が行い、バックアップはパク少佐が担当することになった。

 そんな中、涼子にとって嬉しいことが一つあった。高橋先生がドクター矢吹の檜原診療所を引き継いで医師としての仕事を再開したという知らせがあったことだ。涼子は南さんの勧めで一週間の休暇を貰って、訓練以来訪れることが無かった檜原を訪れた。涼子は山形村長を表敬訪問して南さんからのお土産を届け、檜原ファームの訓練生を指導し、残りの時間は高橋先生と過ごした。激戦地代々木を担当して来た涼子にとって、食べ物と水の豊富な檜原は別天地の心地がしたことだろう。17歳の誕生日を迎えたばかりの涼子には、長風呂ができて、良く眠れる檜原の生活は命の洗濯といった感じだったという。

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 荒巻清四郎とその男は名乗った。
 「渋谷市の使いの南慎介だ。」と俺は名乗った。
 「噂は聞いてるよ、通称アダムさんだっけ?本名を名乗ってくれるなんて随分信頼してくれるんだな。」
 「檜原には保安官事務所にA中隊、E中隊と2つあってね、俺の中隊は無線で連絡を取る時のコールサインがアダムのA、間違えないように『21-ADAM』と名乗るお約束になってた。だから俺の中隊にはアダムだらけ、もう一つのE中隊にはエドワードだらけ。その無線のやり取りを聞いてた渋谷のお偉いさんが、アダムを俺の固有名詞だと思ってそ
れを俺の呼び名にしたってわけさ。別に偽名ってわけじゃない。」
 「ほう、なるほどな。でも市長が来ないってのはいただけない。」
 「正確には市長代行。うちの市長は女性だから流石に裸の付き合いってわけには行かないだろう。」
 俺たちは新大久保駅にほど近い、万年湯という銭湯で湯に浸かりながら会談を行った。 どこかから水と燃料を調達し、ずっと営業していなかった公衆浴場で久しぶりにひとっ風呂浴びようぜという粋な計らいのつもりらしいが、背中にかなり立派な唐獅子牡丹を背負った荒巻は、俺個人としては、平時ならなるべく関わりたくないタイプの人物だった。
 「しかしこんな良い水を使って風呂なんて贅沢なもんだな。」
 「ふははは!あんた切れ者だって噂の割には物を知らねえんだな。東京の風呂屋は地下水を使ってるとこが多いのさ。ここもだよ。」
 「良いことを聞いた、あんた風呂屋に詳しいんだな。」俺は心の中でちょびっと感謝した。(渋谷の風呂屋の地下水が使えるか調査しないとな。)
 「俺が東京に出て最初にした仕事は、風呂屋の釜焚き小僧だったのさ。だから風呂屋には詳しいぜ。」
 「これを知れただけでも、俺がここへ来た意味があったというものだ。礼を言うよ。ありがとう。」
 「こちらこそ礼を言わないとだな。コリアタウンの連中、そっちに行ったんだって?」
 「礼には及ばない。うちは国籍を問わず武器を持たないで真っ当に生活したい人間は大歓迎さ。」
 「奴らが真っ当?まあいいさ。本題に入ろう。俺たちは旧新宿区内を穏便に治めたいと思ってる。だが邪魔する奴が多くて困ってる。」
 「一体何を邪魔されてるんだ?確かに俺らはご遺体の片付けをしてた時に破ったドアからAKで撃たれたりとか結構な目に遭ってるが、あんたら新宿の衆はまだ路上のご遺体も片付けてないようだし、新たにご遺体を作ってそこかしこに吊るしてるようじゃないか。」
 新大久保に来て俺が驚いたのは、路上のご遺体が半ば白骨化したまま放置されていた上、ほとんどの電柱に惨たらしく腹を裂かれたコリアタウンの住人と見られる新しい死体が吊るされていたことだった。俺の随行で来ていたパク少佐は、怒気を孕んだ表情で「*****」と言っていた。俺にはハングルはまるで分からないが、微かにチョッパリと聞こえたので、きっと放送禁止の言葉のアートに違いない。
 「税だよ税。領地を治めるにはまず税だろ。遺体の片付けっつったって先立つもんが要るだろうよ。コリアタウンのクソ外人どもは団結して抵抗しやがった。だから見せしめに吊るしてやったのよ。」
 ちなみに荒巻は、このご時世なのに、税を日本円で払わせていると言っていた。それを聞いて俺は頭がクラクラした。みかじめ料取りたいってのはヤクザの本能なのかね。

 「事情は分かった。渋谷に何をして欲しい?」
 「今あんたらは各国政府から可愛がられて義援金やら物資やらを貰ってるだろ?あれをちょっとで良いからこっちにも流して欲しい。」
 (こいつは渋谷からみかじめ料を取るつもりか?)と俺は思った。
 「なるほどな。それなら市長代行は検討してくれるだろう。彼女は人道支援は決して嫌いじゃない。」
 「意外に話が分かるじゃねぇか。」拍子抜けしたように荒巻は言った。「じゃあ本題を言うぜ。手短かに言うと俺らは武器が足りてねぇ。こっちは今、高田馬場のガキどもにカチこまれてて上手くねえんだ。渋谷じゃ暴徒が持ち込んだ銃を大量に押収したって言うじゃねぇか。それもこっちへ流して貰いたい。」
 「荒巻さんよ、それは渋谷に何かメリットがあるのかい?その武器で新宿の衆が渋谷にカチ込みなんて話になったら、目も当てられねぇぜ。」
 「そこは俺の仁義を信じてもらうしかあるめぇよ。」と荒巻は鼻息を荒くした。「高田馬場のガキ共はアカだ。俺らが突破されりゃ、あんたらが奴らと対峙することになる。」
 「なるほど、あんたらが命がけで渋谷の壁を引き受けてくれてると、そう言うわけか。ご近所さんのことだし代行に話してはみるが、武器のことはあまり期待しないでくれ。それより、あんたの言う『高田馬場のガキ共』のことは少なからず気にはなる。」
 「そう言うと思ってたぜ。俺の舎弟にまとめさせた資料がある。アダムさん、手土産に持って行ってくれ。」
 「それは助かる。どうだい、風呂上がりに一杯やらねぇか?」着替えが終わったところで、俺は会談終了の連絡をパク少佐に入れ、少佐の連れてきたスタッフに冷たい日本酒と檜原特産の豚肉のチャーシューと漬物を持って来させた。
 「こんなものしか無くて悪いね、荒巻さん。」
 「いいや、チャーシューも漬物も好物だ。それにこんな上等な酒も久々だ。」荒巻はチャーシュー、塩漬け白菜と味噌漬けの瓜の漬物をボリボリ食いながら上機嫌だった。  
 「時にアダムさんよ、あんたは檜原にいたと言ったな、最初から渋谷の衆じゃなかったんだろ?どういう経緯で渋谷に加わったんだい。」
 「ああ、斉藤市長代行が渋谷のご遺体の後片付けを始める前の話だが、掻い摘んで言うとソーセージの配達で渋谷に行ったのさ。そうしたら代行のマンションの周りは銃を持った連中に囲まれてた。仕方ねぇから囲みを破って届けたってわけさ。」
 「あんた、やるなぁ。」荒巻は本当に感心しているようだった。
 「俺と相棒が囲みを破ってマンションに入って来たのを見て、この技術と武器があれば渋谷を取り戻せると思ったらしい。だが闇雲に武器を使えば警戒される。渋谷の衆を繋ぐにはまず同じ目的を持とう、そのためにはご遺体の片付けから始めようってね。ご遺体の片付けは危険だから武器が要る。それで武器を持つことを何人かに納得して貰った。」
 「堅気の考えそうなこったな。」荒巻は鼻で笑った。「ご立派な考えだが、俺の考えでは勘定が合わねぇよ。」
 「まあでも上手く行った、ここまではね。ご近所だしこれからも頼みますよ、荒巻さん。」と俺は心にも無いことを言った。
 「ああ、任せとけ。」荒巻は上機嫌だった。

 俺たちは新宿との善隣関係を重視せざるを得なかった。新宿にある落合水再生センターは、中野・新宿・世田谷・渋谷・杉並・豊島・練馬区の一部をカバーする下水処理場だ。この処理場が処理した水は神田川に放流、汚泥は旧江東区の東部スラッジプラントへ圧送し、処理している。ちなみに処理しているのは俺たちの生活排水だけでなく、雨水もだ。
考えれば分かることだが、落合の処理場が機能しなければ、下水がマンホールを破って逆流なんてことにもなりかねない。処理が甘ければ神田川が汚泥で埋まり・・・考えたくもない。
 新宿との関係は、災害を防ぐ上でも、公衆衛生の上でも、とても重要だったのだが、よりによってこの倶利伽羅もんもんが新宿の支配者だとは・・・俺は、暗澹たる気持ちになった。
 ところが、荒巻と会うのはこれが最後になった。ひと月後、新大久保のご遺体は軒並み片付けられ、すっかり綺麗な街になったが、荒巻だけが駅前の一番目立つ電柱に吊るされ、カラスの餌になっていた。
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 旧新宿区が「高田馬場のガキ共」と荒巻の言っていた、早稲田大学の学生たちに全土掌握されたというニュースは、渋谷市の最初の市議・市長選挙期間中に、彼ら早稲田義勇軍によるネットの動画で知るところとなった。
 「斉藤素子さん、あなたが代表する渋谷市が、新宿市民の生き血を啜る暴君、反社会的集団を代表する荒巻清四郎と接触していたのは知っている。それが渋谷に市政を施行するとは片腹痛い。是非あなたたちに説明を求めたい!」
 と母を名指しで非難するに至っては、何のとばっちりだろうと苦笑いしたものだった。
南さんが持ってきた荒巻の資料によると、早稲田義勇軍のリーダーである清宮真緒は、この乱世に名乗りを上げるにあたり、まずAK狩りから始めたそうだ。南さんという伝手のある我々と違い、武器を持たなかった彼らが、沸いて出てくる暴徒相手に「まずは武器」と考えたのは正しいことには違いない。
 ただその方法が、AKを持って新宿を荒しまわる暴徒に、ほとんど徒手空拳に近い、運任せにして命懸けの近接戦闘を仕掛けて銃を奪うというのだからゾっとする。銃を奪ってからは、銃撃戦で暴徒と戦い銃を増やしたのだという。さらにゾッとさせられる話だが、若者の体力があればそれぐらい出来てしまうということを、実践して見せた早稲田義勇軍の胆力には感嘆するしか無い。
 やがて義勇軍には地域にシンパが現れ、なけなしの食料や水を提供する市民に支えられ、新宿を舞台とするヤクザ相手の抗争に死体の山を築いて勝利するに至る。
 私の母はと言えば、圧倒的な実績を背景に市長選に勝利し、渋谷市議会をほぼオール与党で固めたところだ。選挙システム作りに当たっては、優秀なシステム屋ではあるが法律や選挙実務に疎い夏希パパに、旧渋谷区のベテラン職員だった稲城肇さんより、かなり強力なサポートが得られた。彼は数少ない旧渋谷区職員だった。本庁管区に潜伏していて時々炊き出しに来ていた男だったが、形になり始めた市政を見て、ようやく名乗り出る気になったそうだ。
 壊滅してしまった住民基本台帳を諦め、渋谷の現状を追認する形での暫定的な台帳を一から作成するしか無いと稲城は言った。幸い悉皆ブリーチングを行なった成果として、保安官事務所には、建物ごとの暫定的な住民の記録ががある。それを利用して暫定的な住民台帳を作ることになった。保安官事務所に事務職員のマンパワーを補充したことで、住民登録は進み、選挙人台帳が出来上がった。副市長候補である夏希パパは、同時進行で課税台帳も作っていが、これが稼働するのが早いか、私たちが日本に復帰するのが早いか、準備しておくに越したことは無いというところだ。
 母が正式に市長になったタイミングで、早稲田義勇軍より会談の申し込みが来た。会談の場所には新宿中心街の歌舞伎町を指定されたが、名指しで非難された手前、復興協議会時代以来の同志とも図り、母は多忙を理由に断って連中の出方を観察することにした。

 ところが早稲田義勇軍は、渋谷市議を仲介に立てて我々に接触して来た。今回の選挙で3議席を獲得した新宿区境地域を地盤とする野党議員の一人、馴柴輝夫がマークシティに乗り込んで来たのだ。母は、正式に保安官代理兼任の市長補佐官となった南さんと二人で馴柴先生に会った。
 「市長、相手は若いんだ!気が大きくなってあの程度の挑戦的なことぐらいは言ってくるだろう。侮辱されたと感じるのは分からないではないが、区境の住民の気持ちで言わせていただければ、安定した善隣関係を作ってくれなければ我々は安眠できない。」
 「馴柴先生、何か危害を示唆されているんですか?もしそうなら代々木の高橋副保安官にご自宅周辺を守らせますが。」補佐官殿が探るような目で言った。
 「南補佐官、私が脅されているとでも言うのか!」
 「馴柴先生、倶利伽羅もんもんの荒巻がお隣でも私達は話を聞いた、渋谷は対話のドアは常に開けている、それは相手が早稲田義勇軍でも同じですよ。」補佐官殿は渋谷の基本姿勢を説いた。「ただ、いきなり市長に歌舞伎町を表敬訪問しろは流石に無いでしょう。」
 「いや、確かにそれは尤もだが、しかし先方は市長に歌舞伎町の現状を見て欲しいと言っている。市長が来なくても、場合によっては議員団で視察に行くとか・・・」
 「馴柴先生、それは危険過ぎるよ。議員団が歌舞伎町で一網打尽なんてなったら無事に救出なんて至難の技だ。」補佐官殿が慌てた。「どう見たってキレやすい女でしょ、あっちのお姫様は!先生たちを行かせるなんて言語道断だ。」
 「じゃあ南さん、あんたが行けよ。」馴柴は声を震わせながら言った。「あっちは最悪あんたでも良いって言ってる。」
 「え、何で俺?」
 「アダム補佐官に行ってもらうとして。」母が口を挟んだ。「馴柴先生は随分先方を信頼してるのね、どういうご関係なのかしら。」
 「ちょっと待て、俺は行くって言ってないぞ!」と言って補佐官殿は母の作った話の流れに相当慌てたらしい。彼の慌てる顔はちょっと見たかった。
 「私の高校教師時代の生徒だったんだ。とても優秀な子でね。いやだから・・・」と馴柴は訥々と語った。どんどん声は小さくなって行くが、教え子が困っているのを見過ごせなかった馴柴の気持ちは、これで母に伝わったようだ。
 「俺は気乗りしないなぁ。」補佐官殿はぶつくさ言った。「さっきから馴柴先生俺と全然目合わせないし。」
 「ツンデレって言葉を知ってるだろ?あれだよ。プライドが邪魔してツンツンしているが心の中はデレたくて仕方ない・・・あれはそういう子なんだ!」力強く言う馴柴先生だが、補佐官殿には目を合わせない。
 「ツンデレってのはオーディエンスにそのデレたい内心が漏れてるからオーディエンスが萌えるんであってなぁ、当事者は萌えどこじゃない・・・ってか、武器持って敵意剥き出しのツンデレってどんだけだよ。こんなことならカラスの餌になった倶利伽羅もんもんの方が随分マシってもんだぜ。」アダムは大きなため息を吐いて「馴柴先生、一つ貸しだからな!」と言った。

 翌日母は、代々木のベトナム大使館に入った。補佐官殿と常に連絡が取れるように連絡体制を整え、涼子のチームにいつでも補佐官殿のサポートに行けるよう臨戦体制を維持させるのが目的だった。補佐官殿は松濤地区担当の夏希のチームの精鋭を随行させて歌舞伎町に乗り込んだ。
 会談も2時間が経過する頃、補佐官殿から母に連絡が入った。
 「市長、玉緒にトラックに大量に飲料水と食料とメトロニダゾール点滴を持って来させてくれ。それからドクター矢吹を寄越してくれ。歌舞伎町にすぐ野戦病院を開設しないと人が大量に死ぬ。」
 というわけで、急遽私が医薬品を大量に積んだトラックで歌舞伎町に向かうことになった。補佐官殿が歌舞伎町を訪問することになったのは、新宿にとって僥倖だった。日本政府や各国政府とまだ繋がりを持っていない早稲田義勇軍は、物資の支援を受けていないため、栄養状態も衛生状態も劣悪。悪い水を飲んでアメーバ赤痢に罹患して死亡する市民が多かった。
 行く途中で歌舞伎町の現状を見た補佐官殿は、清宮真緒の顔を見るなり「トップの仕事は虚勢を張ることだってお前は教わったのか?助けて欲しいなら助けて欲しいと言え。」と凄みを利かせたらしい。呆気にとられる真緒を無視して、義勇軍の若者たちが次々「お願いです、助けて下さい!」と苦しい心情を吐露し始めた。流石に彼らは義勇軍だ、心の奥底ではこの惨状を前に、渋谷とパワーゲームに興じようとする真緒にはついて行けなくなっていたのだった。
 その声に、淡々と指示を出し始めた補佐官殿、一番近くのホテルから白いシーツを取って来させ、赤と黒のスプレーでなかなかに見事な「筋隈」(※歌舞伎のメイクの一種、怒りを表す。)を描いて即席で旗を作って言ったらしい。
 「どんな気持ちかは言わないが、今の俺の気持ちはこれだ!新宿アルタ前の交差点を封鎖してこれを振って病人を一箇所に集めろ。今渋谷から物資と医者を連れて来させてる。嫌とは言わせないぞ。お前ら総出でこのクソみたいな状況を何とかしろ!」
 
 2週間歌舞伎町で働き詰めだった矢吹先生は、渋谷からベトナム人医師のファン先生が応援に来たのを皮切りに渋谷に戻った。その後2週間して、檜原から高橋先生が応援に来る頃には新宿との関係は次の段階に進み始めていた。
 日本政府からの救援物資の受け皿となる団体として新宿復興協議会が発足。清宮真緒が呼びかけて、新宿各地の生存者で町会を再組織し、その代表者を復興協議会に呼び寄せ、早稲田義勇軍はその傘下に入り、清宮真緒は一学生に戻った。
 渋谷と新宿の人事交流や、新宿の主だった人々の渋谷視察も活発に行われ、特に渋谷保安官事務所の治安維持及び民政への貢献は、協議会メンバーたちに、民主的なコントロールの及ぶ保安官制度の鮮烈な印象を与えた。早稲田義勇軍は解体され、希望するメンバーを中心に新宿保安官事務所として再編されることになった。
 そして渋谷にとって嬉しいニュースが一つ。補佐官殿が、義勇軍と夏希のチームを率いて偵察に行った無人の落合水再生センターを制圧、無事再稼働を果たすことができた。フル稼働にまでは至らないが、今後政府の助言と支援を得て、地域の下水処理を滞りなく進めて行ける目処は立った。
 (とは言え、東部スラッジプラントは江東か・・・)と東京完全復旧までの道のりの遠さに気が塞ぐ補佐官殿だった。

 その後、旧早稲田義勇軍の学生が、補佐官殿の描いた筋隈をリデザインして新宿保安官事務所のロゴを作成し、バッジパッチとして使用するようになった。
 「ああ、これこそが我々の保安官事務所だ!」ロゴを見て、復興協議会のとあるメンバーは言ったらしい。「できることを精一杯やるんだと決意した君たちの振るこの旗を、もう一度信じてみようと歌舞伎町にみんな集まった。これからも頼りにしているよ。」

 旧新宿区の出張所管区毎に副保安官のいる支所を置き、新宿保安官事務所の悉皆での居住実態調査が始まった。補佐官殿の随行で来ていた流れで、夏希は高田馬場駅にほど近い旧戸塚出張所管区の副保安官代行として元早稲田義勇軍の幹部格を連れてのブリーチングOJTを行なった。流石に早稲田大学のお膝元、揃いのウッドランド迷彩の戦闘服にタンカラーのアーマー、早稲田義勇軍を母体とする団体としての名残とも言うべきワインレッドのベレー帽を見れば、住民は快く調査に応じてくれた。
 しかし、そうでない場合も少なからず。そんな時には、はるかの開発したAMG01の出番だ。商業施設の分厚い扉に設置し、安全に扉を破壊できる対物グレネードの威力に、幹部たちは感嘆の声を上げた。
 夏希パパが新宿のために作ったシステムは、顔認証と指紋認証で支援物資の供給、電子入浴券の交付、有権者登録もできるというシステムである。顔認証と指紋認証で個人情報を集めるなんて平時なら絶対出来なかったろうに、とは夏希パパの述懐だが、背に腹は代えられない現実のために、あらゆる公共サービスの電子化という、夢のような社会実験はどんどん進んで行った。ちなみにこれを可能にするためには、個人毎にスマホのような端末が必要だったが、これは総務省が、パラシュート投下で供給してくれた。夏希パパは「いやいやまだまだ先の話だよ。」と言うが、東京の日本復帰も決して遠い未来ではないと思えた。
 新宿と渋谷の友好的な善隣関係の余波は、同様に渋谷と境を接する世田谷や目黒にも及んだ。かつて最も人口の多かった旧世田谷区は、23区で最もマンパワーのある区だったが、渋谷に一歩遅れて、渋谷モデルの復興を目指すことになった。
 世田谷と同じく渋谷と境を接する目黒も、渋谷モデルに追随した。こちらは住民の質が渋谷と近いこともあり、スピーディに復興への道を進んだ。
 母たちの最終的な軍事目標は旧葛飾区の金町浄水場の確保だったが、善隣関係の輪を広げて行くことで、少しずつ目標に近づいて行っている気がした。
 新宿保安官事務所で訓練教官を務める夏希の話に戻るが、仕事が休みの日には、清宮さんの紹介で、早稲田大学法学部の学生だった永尾朋広から刑法、刑事訴訟法、刑事政策のレクチャーを受けた。彼は法科大学院を修了しながら、この厄災で司法試験を受けられなかった秀才である。彼は渋谷の法に対する徹底した姿勢をとても評価してくれていた。
 「法技術的には、渋谷が各刑事法の施行条例を作って適用可能な法律だけ執行しているのは、実は苦肉の策なんだ。でも現実にはそうせざるを得ない。・・・しかし驚くよ、裁判所も無く、刑務所も無い、だから現行犯逮捕で一度拘束した被疑者をすぐにリリースって、法的には正しいけど、非常時の政府として、普通はやろうと思ってもやれるもんじゃない。センター街制圧戦ってのはまさにそのケースで・・・いや、ため息が出るよ。あの状況でそこまで徹底されたら文句のつけようもない。しかも逮捕したのが、目の前にいる君だなんて。」
 「まぁ、そんなにスッキリ上手く行った作戦でも無かったんですが。法制度に関しては、我らが補佐官殿は経済学徒の割には拘りがあって・・・私たちも彼がとても法律に詳しい理由がイマイチ分からないんですよ。」
 「一度で良いから会ってみたい人の一人だよ。清宮が荒巻の腹を裂いて吊るしたと聞いた時は、やりすぎだと思いつつも、非常時だし、被害者に配慮すれば仕方ないと無理に飲み込んだものだったけど、渋谷の話を聞いた時は、新宿に南さんのような人がいなかったことを呪ったものだよ。」
 「現場にはいらっしゃらなかったんですか?」
 「僕は、清宮と親しかったけど、早稲田義勇軍の一員ではなかったんだ。腕っ節も強くない単なる本の虫だからね。ようやく平時になって召し出されたというわけさ。」

 永尾朋広は、警察官職務執行法や警察の法規資料を紐解き、夏希に捜査や身体検査の細かい手順を教えてくれた。抽象的な理論をたっぷり聞かされるかと思っていた夏希は、聞いた話でそのまま捜査マニュアルが作れそうな具体的なアドバイスを貰えたことをとても有難がった。
 加えて、永尾は修復的司法という耳慣れない考え方を夏希に語り始めた。犯罪加害者と被害者の刑事司法の場での和解を推進するという考え方だ。渋谷も安定してくると市民同士の荒っぽい揉め事が増えてきた。残念ながら全てに保安官事務所が介入できるほどマンパワーが無い。それ故に刑事司法の場で和解を推進するという考え方にはとても魅力的な響きがあった。
 永尾は23歳という若さだったが、博覧強記で、その幅広い教養は一週間一緒に過ごすだけで夏希の世界を大きく広げた。
 「永尾さん、その知識、渋谷で役立ててみるわけには行きませんか?あなたが渋谷で腕を振るった結果はきっと新宿にも大きくフィードバックされると思います。」
 永尾は思案顔で沈黙した後「僕が新宿の役に立てるようになるのは、まだ少し先の話なんだろうね。」と寂しそうに呟いた。
 彼を早稲田義勇軍から遠ざけたのは、清宮真緒の配慮だった。彼のような人材が役に立つのは今じゃないと、半ば高田馬場に幽閉するように勉学に専念させたのは、清宮の期待の現れであり、永尾もそれは良く分かっていた。だが大学で学ぶにしても、大学には本があるだけだ。このまま知識を錆び付かせるわけにも行かない。そう思った永尾は、夏希の紹介で斉藤市長に会うことにした。
 永尾は、渋谷市の首席法務官の職を得ることになった。それまでは補佐官殿が行なっていた渋谷市の検察官役を永尾が引き継いだ。保安官事務所が逮捕した被疑者を、自ら尋問し、檜原の裁判所に訴えるという流れがようやく出来上がった。
 永尾は、我らが補佐官殿と同僚という立場になり、かねてからの希望が叶ったわけだが、実際には彼が補佐官殿に何かを教わることより、補佐官殿が彼に教わることの方が多かったのだという。
 「南さんは、本当に人から学ぶことに貪欲な人で、あの貪欲さには全く敵わない。きっと自分の限界を知っている人なんだろうね。万能の天才のようなイメージで見ていたけど、むしろ人に頼ったり人から学ぶことの天才なんだと思ったよ。その一点だけで僕らの清宮は、南さんに敵わなかったんだろう。」
 永尾さんは、我らが補佐官殿の印象をそう語った。
 永尾さんは斉藤市長の下で、首席民政官の稲城肇とともに市政を高度に機能させるための条例案を大量に提出し、斉藤市長に代わり、市議会での答弁に明け暮れた。
 後に新宿、世田谷、目黒の制度が出来上がると、四市の間で東京フェデレーション協定が結ばれ、その下に検察制度をはじめとする法執行制度が組織され、永尾はその長に収まることになる。 
 夏のある日、樹里のチームが管区内に潜伏していた連続強姦殺人犯を逮捕した。永尾法務官が自ら尋問を行い、公判に持ち込んだ。官選弁護人には、新宿に事務所を構える本物の弁護士が就いたが、法曹資格の無い永尾が、求刑通りの無期禁固刑を勝ち取った。
 一緒に傍聴していた補佐官殿をして「もうそろそろ俺の役目も終わりかな。」と言わしめた勝利だった。
 「らしく無いよ、補佐官殿。」と言って夏希は補佐官殿の肩にコツンと拳を入れた。
 
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 旧豊島区が復興協議会を作って国からの支援を取り付けたというのはその夏のちょっとしたニュースだった。豊島の呼びかけに応じて、例によって市長が俺を特使として派遣するということになった。俺は、はるかを随行として復興協議会代表、川村重徳氏を訪問することになった。
 川村氏の話は親父から聞いたことがある。一見そうは見えないが、右翼の大物で、目白の屋敷に食客を多く抱え、国内向けの工作活動をしていると。様々な違法行為への関与の疑いが囁かれていたが、当時国政に太いパイプを持ち、一切の訴追を免れていたとか。
 友好都市、新宿を素通りして目白まで行くと、3カラーデザート迷彩の戦闘服を着た兵士が出迎えてくれた。タンカラーのアーマーの胸には恐らくチーム名の「OWLS」と書かれたパッチ。左肩には梟の図柄をあしらったチームパッチ、右肩には「有槍就是草頭王」と記されたモラールパッチ。意味は「鉄砲があればならず者の王」。
 「ふざけてやがる。」と俺はクスっと笑った。
 「この人たち何者、豊島の保安官なの?」と尋ねるはるか。
 「傭兵だよ。」と俺は言った。「頭は俺の知り合いだから問題ない。傭兵より、豊島の代表の方がクセ者だ。例えて言うならワン●ースに出てくる天竜人みたいな奴だ。渋谷のお偉方はみんな言ってみりゃ成金だから、俺なんかとも話が通じる部分がある。でも目白の連中は何代も続く金持ち家系だ。サクっと表敬訪問して帰るが吉だ。」
 俺たちは目白の丘にある大きな屋敷の大広間に通された。
 「ヤァヤァようお越しで。」大きな腰掛けからゆっくり立ち上がったその血色の良い老人は笑顔を浮かべながら2.5メートルほど先から小さく一礼した。「私が豊島代表の川村重徳です。」
 「川村代表、お初にお目に掛かります。渋谷市長、斉藤素子の名代として参りました補佐官の南慎介と申します。本日は日本政府の支援取付けのお祝いを申し上げますとともに、斉藤の親書をお持ちいたしました。」
 「後でじっくり読ませてもらいます。山本、大事に保管しておきなさい。」
 山本と呼ばれた執事のような人は「承知いたしました、御前。」と言って白い手袋をした手で恭しく親書を受け取った。恐らく川村は、自分の手で触りたくないからそうしたのだろう。
 「しかし、渋谷の方は常に防弾チョッキとは勇ましいですなぁ。常在戦場の心意気とは。」カラカラと笑う川村だが目は笑っていない。
 「『政(まつりごと)を為すは徳を以ってす。譬(たと)えば北辰の其の所に居りて、衆星の之を共(むか)ふが如し。』と有りたいものですが、渋谷の政はまだまだ。このような無粋な格好でご無礼を。渋谷が市長以下皆主だった者が皆このようななりで勤めておりますのは、全く以って不徳の致すところでございます。」と言って、俺はため息を吐いた。
 「まぁ、じっくり進められたらよろしい。」川村はふんと鼻を鳴らしたように見えたが気のせいだったか。「頑張んなさい・・・、そうそう時に、渋谷さんは住民台帳やら選挙人台帳やら良いの持ってるって総務省の役人から聞きましたが、どうかね、こちらに融通してもらうわけにはいかんだろうか。」
 「斉藤からは、そのようなお考えがあるなら是非お役に立ちたいとの意向でございます。豊島の実務担当の方をご紹介いただき、まずはどういうシステムなのか内容を把握していただいた後、導入という運びで如何でございますか?」
 「生憎私はそういうのに疎くてね。四宮というのをあなたたちにつけるので、是非指導してやって欲しい。」
 「承知いたしました。本日はご多忙の折、このような機会をお作り下さいまして、誠にありがとうございました。それでは失礼をさせていただきます。」
 俺とはるかは川村に深々と頭を下げ、その場を後にした。
 「補佐官殿~、ガサ入れより銃撃戦より疲れたよ。」はるかは頰を膨らました。
 「悪いなはるか、でもこれでお使いは終わりだ。そう言えばはるかって辛いもの好きだったよな?」
 「辛いものなんて渋谷じゃ食べられないから飢えてるよ。」
 「そうだよな。良いもの食わせてやるから。」

 学習院大学のキャンパスに、俺たちを案内した傭兵たちの屯所があった。
 「渋谷保安官事務所の南って者なんだが、おたくらの代表のミョンジンに表敬訪問に来たんだが、会えるかい?一応、うん、多分だけど俺古い友達だと思うんだよ。」と俺は、ことさらに自信無さそうに言った。
 先ほど俺たちを案内した隊員が「何やってる!渋谷のお使いの方だぞ!」と言いながら俺たちのところに来てくれた。デザートカラーの戦闘服の中で、俺たちの黒基調の装備は随分目立つ。「ご無礼を!」と言い、隊員が俺たちの写真を撮り、上官に送ったようだった。程なく大学の中から細いフレームの丸眼鏡をかけ、ベージュの細身のスーツを着て短い髪を綺麗に整えた痩せた男が現れた。髪も眼鏡も靴もピカピカ。そしてとても姿勢が良い。

 「ミョンミョン、生きてた!良く生きてた!」
 「南くんも生きてた!渋谷のお使いは南くんだって聞いてたんだけど、こんなに早く会えるなんて!」
 俺たちは目に涙を溜めながら抱き合った。はるかは何事が起こったかという顔をしている。
 学習院大学のカフェテリアに通された俺たちは、ペットボトル入りの飲料水を渡され、しばらくしてミョンジンの部下たちが、椀に入った白いご飯と別の椀に入ったココナッツミルクたっぷりのグリーンカレーを持ってきた。
 「お~これこれ!池袋の多国籍居酒屋ムンミョンドウ(文明堂)の特製グリーンカレー!はるかは絶対好きだぞこれ。」
 「ああ~匂いが!おナスがとろける~、タケノコシャキシャキ!チキンうんまぁ~!しかも味が深い、辛くてうまい!」
 「そちらのお嬢さん、お代わりあるからね。」端正な顔に綺麗な笑顔を浮かべ、ミョンジンははるかに言った。
 「うちの副保安官の森山はるかだよ。訓練生だった頃はもっと尖ったキャラだったんだがようやく慣れてくれた感じだよ。」と俺ははるかを紹介した。
 「昔、僕らはおもちゃの鉄砲で遊んでた仲間だったんだよ。」とミョンジンは言った。「池袋や新宿の室内サバゲー場でよく撃ち合って遊んでた。」
 「あの頃からミョンミョンは人望があってさ、こいつ主催のゲームが月に1回はあっていやもう盛んだったんだよ。俺は梟のパッチと『ならず者の王』のパッチですぐにミョンミョンの傭兵団だって分かったよ。」
 「僕らの根城は池袋だからね。南くんは一匹狼だったんだが、ちょっと手強い人だった。サバゲー始めたのも僕より大分後だったけど、グアムまで行って射撃訓練やらタクトレを受けたとかでメキメキ腕を上げて。この人は遊びの天才なんだ。」
 「まあ、数少ない俺の楽しみだったからな。」
 「知ってるかな、この人の本職は経済学者なんだ。」
 「うそ、経済学部ってのは聞いてたけど。」
 「大学院を出た後、都内の大学に非常勤講師として一般教養の経済学でひと枠持ってたことがあるだけだよ。フリーターとそう変わらんさ。」
 「アダム・スミスに関する著書もあるんだよ。」
 「あれは一般向けの軽い読み物だから、学者の仕事とはほど遠いさ。」と俺は苦笑いした。
 「南慎介名義だけじゃなく、色んな名前で雑文をあちこちに書き殴ってたよね。そう言えば週刊プ●イボーイにも。文才がある人は本当に羨ましい。」
 「ゲホゲホゲホ!ちょっと、この子は未成年なんだぞ、やめてくれ!」

 2時間ほど旧交を温めた俺とミョンジンは、再会を約束して別れた。別れ際にミョンジンが言った。
 「豊島での仕事は選挙が終わったらもう潮時かなと思うんだが、どうだろう、僕らに渋谷で出来る仕事は無いだろうか?」
 「パッと思いつくものがいくつかあるが、まずは我らがお袋様と相談だ。察するに、あの『御前』相手は疲れるってことなのかな。」
 「いや、もうすぐ契約が切れる・・・客観的な状況はそういうこと。ここを離れるにしても部下を全員連れて行かなきゃだから穏便に行きたいんだ。」
 「他ならぬミョンミョンの頼みなら喜んで骨を折るさ。」
 俺たちはガッチリと抱き合った。
 「生きてて良かったよ、ミョンミョン。」
 「僕も、南くんが生きてて良かった。」
 
 翌週「久住圭吾渋谷副市長様」と、宛名された委嘱状が豊島復興協議会が渋谷に送られて来た。久住副市長を豊島市長及び市議会議員選挙の選挙管理委員長にという話を、斉藤市長は有難くお受けすると豊島に返事した。
 選挙管理委員長というのは、区役所の選挙管理委員会事務局が実質管理する往時の選挙であれば、その役割は限定的であったが、何せ選挙システム自体が久住さんの作ったもので、復興協議会自体にはちゃんとした事務局というものが無い。
 久住さんの作ったシステムでは個人端末で有権者登録まではできるが、投票まではできない。結局、選挙を管理する者の見えないところで投票するということに関しては、投票の秘密の保障を確保できるのかという課題がクリアできないということで、複数の選挙会場を監視できるほどのマンパワーを持たない俺たちは、有権者を全てマークシティに集めてそこで投票させるという方式を取った。同じ理由で豊島の有権者は池袋の東京芸術劇場に集められた。
 幸い池袋には、ムン・ミョンジン社長率いる傭兵部隊「アウルズ」というマンパワーがある。彼らは久住さんの作った単純なガイドラインに基づいて会場を整理して、効率的に投票を進行させた。久住さんは、芸術劇場に一室を与えられ、ミョンジンとともにシステム管理とアウルズのメンバーへの指示を同時にこなした。
 往時を知る者には本当に奇妙に映るだろう。もちろん公示日は予め伝えられるが、公示から5時間で立候補締め切り、選挙運動に当たるものは、予め録画した政見放送のみ。放送終了後は直ちに専用のホテルに缶詰にされ、翌日には芸術劇場において投票、選挙違反に当たる行動を管理できないからだ。
 民会を作って50人ほどの住民の直接政治が行われている檜原村が羨ましい。渋谷の選挙では檜原村長に選挙管理委員長をやってもらった。こうして政治家たちは、互いの選挙を管理する仕事を預け合うのであった。

 17時に締め切られた選挙は即時に開票され、17時40分には初代市長に川村樹一郎氏が当選した。久住さんも挨拶に行った「御前」こと川村重徳氏を大叔父とするサラブレット市長だそうだ。年齢はミョンジンとほぼ同年の32歳、実に若い。
 久住さんは、委員長として選挙について講評し、とても気の重い仕事を終了した。久住さんの随員として、はるかがマルチカムブラックの戦闘服にアーマー、黒のヘルメットという完全武装で警護していた。五人衆は、治安を失っていた渋谷で民政の第一の要となる保安官事務所にそれぞれ大事な娘を差し出していたが、自分の娘を随行させたり一緒に仕事をすることは極力避けていた。
 「森山副保安官!警護の任を解きます。」
 「承知しました、副市長殿!」と久住さんに敬礼するはるか、久住が一礼すると、はるかは手を下ろした。
 「じゃあ、メシ行こうか。」と久住さんが言うと、はるかは両手でガッツポーズをした。
 「久住のおじさん、ミョンミョンさんの料理マジウマですよ。チョー楽しみにしてくださいね!」
 「今日は韓国料理だそうだね。森山さんからはるかちゃんはスンドゥブが好きだって聞いてたから、リクエストしといたよ。」

 文明堂という看板の掛かる店には、久住さんとはるかの席が用意されていた。はるかは袖に紺でSHERIFFと書いてある薄手のグレーのフーディーにホットパンツといった軽装に着替えた。しかし腰には、制式銃である40口径のG22を携帯し、これまた制式のプレートキャリアを着用、シューティンググラスを頭に乗せていた。五人衆の娘たちは普段こういう格好だ。久住さんもこの日はポロシャツの上からプレートキャリアを着用している。
 
 「あ~これ本当に美味しい!何これ!牛肉の見方がひっくり返った!」はるかは目を丸くしてスンドゥブの味を絶賛した。
 「南くんも同じことを言ってたよ。」とミョンジンは言う。「辛味噌スープの鋭さはミルキーな牛脂の味わいを一番引き立てるスパイスかも知れないってね。南くんは、牛肉と言えばすき焼きかステーキかって思ってたけど、このホルモンのスンドゥブは俺の牛肉料理ベストテン最上位に見事に食い込んで来たって。」
 「ああ~補佐官殿、細かくて口うるさいおっさんなんだけど、常に絶対正しいんだよなぁ。それがもういつも嫌になるんだけど、頭つるっぱげになるぐらい同感!」
 久住さんは吹き出して激しく噎せてしまった。ミョンジンも笑っている。
 「はるかちゃんは本当に面白いね。南くんは君のことを副保安官会議のムードメーカーだって言ってたけど、こういうところなんだろうね。」
 副保安官会議は、玉緒と夏希が年長ということがあって、2人でまとめている。寡黙で滅多に意見を言わない涼子と基本的に年長者を尊重する樹里に対して、頭の回転が速くユーモアのあるはるかは、会議のかき混ぜ役なのだとドクター矢吹は言っていた。
 「しかしすごいですね、牛のホルモンなんてどうやって入手したんですか?それから白いご飯も。」
 「最近品川ルートが出来てね。そうだ、その関係で久住副市長にお話しておきたいことがあるんですよ。」
 「品川?」久住さんは少し身構えた。「品川って海援隊とかいう民兵が支配している地域だよね。」
 「ええ、海援隊は五反田に本拠があって、旧品川区と港区を実効支配してます。民主的に選ばれた組織じゃないから、日本政府は無視してますが、ごく小規模の米軍に駐留させる代わりに武器や物資の提供を受けているんですよ。」
 「そのルートで提供された食材というわけか。」
 「そう身構えないでくださいよ。彼らのリーダーがものすごいカリスマ的な女の子なんですが・・・」
 「女の子?」はるかが身を乗り出した。
 「ああ、女の子・・・と言っても年齢は不詳なんだけど。渋谷さんとは旧港区と地理的にお隣だし、是非友好関係を作りたいという意向で、僕を通じてコンタクトを取りたいとのことで・・・。ただ、海援隊は、彼女が何度も内ゲバしながら一から鍛え上げて作った組織だから・・・。」
 「分かった、リーダーの意向は民政への移行なんだけど、内部的にそれをまとめるに苦労している。そして米軍という、ちょっと繊細なファクターもある。というかなし崩し的に支援を受ける形になってしまったけれど、民政への移行を考えるなら、米軍をどう位置付けるかは問題だということだね。そういうのはアダムだなぁ。」
 「ですよね。」ミョンジン氏は頷いた。
 「え、何で補佐官殿が?」はるかちゃんが意外そうな顔をした。
 「知ってると思うけど渋谷を実質経営している私たち五人衆は、政治や軍事は素人の会社経営者なんだ。民政は稲城さん、法務は永尾くん、公衆衛生は矢吹先生、そしてこれをまとめているのがアダムさん。主に彼に問題を整理してもらって、大きな方向性を判断しているんだ。」久住さんはひと息ついて言った。「はるかちゃん、渋谷が恵まれていたのはこういう人材なんだ。」
 「それから副市長、米軍が矢吹先生とのコンタクトを取りたがっているそうで。」
 「米軍が先だったか!」
 「ええ、やっぱり目敏いですよね。」ミョンジン氏はニヤリと笑った。
 「え!全然話が見えない、どういうこと?」はるかが目をキョロキョロさせた。
 「ドクター矢吹は、渋谷に来る前、檜原で今回流行した天然痘についてちょっとした発見をしたんだ。東京を壊滅させた天然痘は極小サイズだったってのがその発見だったんだけど。その発見からの仮説によると、どうも天然痘は蚊のような虫が媒介した可能性があるということなんだ。矢吹先生は、檜原にいるうちに日本語と英語の小さなレポートを作り、厚生労働省と米軍に送り、同じ物をネットに上げていたらしい。」
 「品川に来てる米軍は、どうもその矢吹先生の仮説を基に、天然痘ワクチンを接種した精鋭で構成されているようなんです。日本政府はまだ天然痘だと確信が持てないということで腰を上げられない状態、というか天然痘ワクチンは副反応が強いと言われてますし、東京外の住民に一律に接種するのに慎重になるのはやむを得ないかと。」
 「ああ分かった、それで米軍が先だったと。」はるかちゃんは頷いた。
 「ドクター矢吹の研究が実を結ぶなら、米軍がその先の手段についてアイディアを持っているなら・・・・」久住さんの中で、目の前の課題に対処するために後回しにしてきた希望に今光が当たった気がした。「東京封鎖は終わるかも知れない。」

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 夏希パパが渋谷にもたらしたニュースは、母を始めとする渋谷五人衆を興奮させた。五人衆と言っても、市の首脳会議の常任メンバーはもっと多い。
 現在の五人衆は、母、夏希パパ、高橋先生のリリーフで市の公衆衛生問題を一手に引き受けるドクター矢吹、樹里パパ、そして市議と保安官を兼任しているはるかパパである。
 保安官は、アメリカでは直接選挙で選ばれるが、議席を持っているはるかパパが保安官を引き受けることで、保安官事務所は民主的コントロールを受ける形になっている。
 副保安官の中では、私と夏希が首脳会議に出席している。
 他に民政官である稲城さん、法務官の永尾さん、そして当然だが我らが補佐官殿が出席している。
 「ひとまずは朗報なんじゃないかな。」樹里パパが口を開いた。「米軍がドクター矢吹の論文に一定の評価を与えて実際天然痘のワクチンを注射してやって来たってことだろう?久住さんの言うとおり東京封鎖解除に向けて非常に大きな前進ですよ。」
 「矢吹先生、現時点で東京封鎖解除までのロードマップは描けますか?現時点での可能性は?」母が矢吹先生に視線を向けた。
 「生存者である我々はほぼ天然痘に罹患することは無いので、まずはご遺体のお片付けですよね。天然痘はご遺体が感染源になりますから。そして東京の外の方たちの天然痘ワクチン接種。これが進まないと東京と他県の行き来は無理です。そして当然ですが、一定割合の方はワクチンを接種されませんので、蚊をなんとかしたいところですが、その方法が全く見当つきません。」
 「蚊を絶滅させろって話だからなぁ。」補佐官殿は、途方に暮れたような顔をした。
 「まず米軍と接触しないと話にならない、そのためには品川と繋ぎをつけないとってことだな。」はるかパパがその結論に達すると、他のメンバーも頷いた。
 「だが、品川は民兵が独裁権を握って、それを米軍が駐留のために利用してるっていうこじれ方だからなぁ。」補佐官殿がため息をついた。「民主化してなくて日本政府の支援が無くても品川が困ってないのはそういう事なんだろ?」
 「だから品川のリーダーは、品川を民主化したいと思っている、という話なんだが・・・我々に接触したいということは、当然その面倒も見てくれって話だろう。」夏希パパは渋い顔をした。「下手を打てば品川の跳ねっ返りと戦争だ。」
 「品川の民兵を、政府の下に平和的に回収できれば良いってことなんだよな?」はるかパパが口を開いた。「それについては永尾くんがざっくりとしたイメージを持っている。この前私に話してくれたことを話してくれないか?」
 「森山先生、それは・・・、いやこんなトップの皆さんが揃っている場で申し上げるのは如何なものかと。」はるかパパに無茶振りをされた永尾さんは慌てた。
 「私は悪くない案だと思うよ。そろそろ共有するべき時期なんじゃないかな。」とはるかパパは永尾さんを促した。

 永尾さんの腹案というのは、渋谷、世田谷、目黒、新宿で運営する「東京フェデレーション」に、東京の検察、保安官事務所、刑の執行に渡る法執行機関を統括する機能を持たせ、市の機能から独立させる構想だった。そもそも旧東京23区は、警視庁があったために警察力を持っていなかった。社会が無政府状態からようやく抜け出した今はある種の過渡期で、法執行機関の貢献度と発言力はとても強い。しかし社会が安定を取り戻した後は、市の政治家たちによる警察権力への積極的な介入が始まり、警察のドブ板化が急速に進むだろう。そうなる前に、まずは警察権力を市の機能から切り離し、東京の諸市の連合体による運営に回収したらどうだろうかというのが、永尾さんの考えだった。
 「つまり、品川の民兵を東京フェデレーションに吸収する一方で、新たに市政を立ち上げてもらうということか。」補佐官殿は、早速本質を突いて来た。「各市で運営していた警察を一段上に回収することで警察組織の均質化も進むだろうし、予算の上でもスケールメリットが働きそうだな。豊島の御前は嫌がるだろうけど。」
 「豊島は契約の切れる傭兵団アウルズの問題もある。アウルズも丸抱えにしたらどうだろうか?」樹里パパがポツリと言った。
 「成海先生、契約が切れるのはその通りだし、アウルズのリーダーは契約を更新しないつもりでいる。でも豊島はアウルズを手離すつもりは無いと思いますよ。今のリーダーを殺害してでもアウルズを手元に置いておきたいはずだし、傭兵団の中にもう既に裏切り者を確保しているはずだ。」補佐官殿は随分と物騒なことを言った。「豊島には魔物が住んでる。俺はあの連中に積極的に介入するのは出来るなら避けたい。」
 「アダムがそんな風に言うのは珍しいわね。」母は少し驚いたような顔をした。
 「東京フェデレーション自体は良いアイディアだと思う。当面うちに新宿、世田谷、目黒、港、品川で回して上手く行けば御の字だぐらいに思っておけば良い。だが、アウルズを引き抜くのは慎重にした方がいい。」
 「つまり、品川の話は進める方向だね。」夏希パパの顔が少し晴れたように見えた。
 「私とアダムで話を聞くべきかな。」とはるかパパが口火を切ると、補佐官殿はとても渋い顔をしたが同行を引き受けた。五人衆の暗黙のルールからすると異例ではあるが、随行は、豊島を2度訪問しているはるかのチームに決まった。

 「それはとても良い案だと思います。」かつてミョンジンの南米料理の店だった大塚のレストランで会った品川のリーダーは、頰に生々しい切り傷の跡が目立つポニーテールの小柄な美しい女だった。「我が海援隊のメンバーの大半は、東京フェデレーション構想に従うでしょう。」
 品川のリーダーは、水沢花音と名乗った。制服なのか、リーダーの彼女を含め3人の随行者全員がグレーのカーゴパンツにネイビーの、特徴のあるナポレオン風のジャケットを着ている。新村真咲と名乗った副官の長身の女、一ノ瀬朝陽という事務方の女、市村ゆりという大隊長の女。四人が四人が20代そこそこの飛び切りの美女。補佐官殿とはるかパパと並ぶと、会社の管理職級とOLの合コンのように見えたとはるかは言っていた。
 ただ、普通の合コンではないのは、随行者がFN509というハンドガンを腰に携帯していたこと。それでもフル装備のはるかのチームに比べればかなり軽い武装だ。驚いたことに、リーダーの彼女の得物は朱鞘の日本刀であったことだ。
 「水沢さん、品川には民主政治の担い手がやれそうな政治屋はいないのかね?君たちの活躍ばかりがよく聞こえてくるので、いや、俺たちが品川の内情を知らないからこういう言い方になるの本当に申し訳ないんだが、品川には人がいないのかってね。」申し訳無さそうに補佐官殿は言った。
 「いえ、仰ることはご尤もです。」水沢は苦笑い混じりに言った。「品川は・・・港も江東も太田もですが・・・海に向かって開けていることでとても困難を強いられました。」
 「え、ちょっと待ってくれ、江東と大田?」補佐官殿は聞きとがめた。
 「海援隊の勢力圏は現在、ようやく湾岸旧四区に及んだところです。」
 「マジかよ・・・。」はるかパパは言葉を失った。
 
 彼女の説明によると、武器を運んだ外国の不審船が品川のあちこちにやって来ては放棄された倉庫を占拠し、そこから次々に工作員が送り込まれたのだという。当時血みどろの戦いの最前線だったのが品川であり、彼女の海援隊は東京湾の海防も含め、東京を危険に晒す敵を一手に引き受けてくれていたのだということが分かった。海防となれば品川・港・大田・江東と戦線は否応無しに広がっていく。彼女たちが勝ち続ける限り、湾岸旧四区が彼女たちの勢力圏になるのは自然なことだ。
 はるかパパも補佐官殿も、海援隊の見方を一変させられることになった。

 「申し訳無かった。海に面してない俺たちには何も見えてなかったんだな。」補佐殿は神妙な顔で言った。
 「頭をお上げ下さい。・・・いや、私たちも最初はひどいもので・・・敵からAKを奪って殺して武器を奪うというのが基本的な戦法でしたから、命知らずの乱暴者の隊員が多くおりました。」
 「新宿義勇軍と同じ戦法だな。」はるかパパが言った。
 「この荒くれ者集団に鉄の規律を徹底するために、随分と血を流しました。戦闘員でない方を巻き込むまいという思いだけで。恐怖によって支配する以外に無かったんです。最近になり、米軍が来て、装備が整えられるようになって、戦いは随分楽になりました。工作員の活動が下火になった頃には、私が王になってしまったというわけです。」
 その時、補佐官殿は別のことに思い至った。
 「水沢さん、砂町の水再生センターは今どうなってる?」
 「それは何ですか?」と水沢は問い返した。
 「これだけでも俺たちが会った意味は有ったと言うべきか!」補佐官殿は水沢の行政の素人っぷりを責めるでもなく、海援隊との連携を強めることで、かつて広域で機能していた下水処理場を復旧できると未来志向で考えた。
 「あ、そうか!落合水再生センターでやったことをもう一度やればいいのか!」流石にはるかパパは気づいた。
 はるかパパの説明で、水沢たちはようやく下水処理の重要性に気づき、渋谷が民政への取り組みでは大きくリードしているのを悟った。
 「これだけでも、この会合には本当に重大な意味があった。本当にそうですね。こんなことにも気づけなかったなんて本当に恥ずかしい。」水沢は慚愧に堪えないという顔をした。私も後に何度か会うことになるが、本当に真面目な人なのだ。
 「いや俺たちも、あんたたちの勢力が江東まで及んでるなんて考えもしなかったからな。もしこれから一から江東を取りに行くなんて話をしなきゃならないんだとしたら、この話は最優先課題にはなり得なかったろう。水沢さん、本当にお手柄だよ。」
 「そう言っていただけると。未来に大きな課題を残してしまうなんて、おまけに私達は海を本拠のように思っていたのに、海を汚していたかも知れないのに気づかなかったなんて。やはり、私のような者は早く表舞台から退くべきですね。」
 はるかパパと補佐官殿は顔を見合わせた。そしてはるかパパが口を開いた。
 「水沢さん、あなたはしばらくは海援隊を放り出すべきじゃない。海援隊の皆さんの件は私たちが引き受けても良いが、東京の下水処理を復旧し、選挙で最初の市長と議会を組織するまでを湾岸旧四区のための一つの区切り、東京に綺麗な水道水を供給するために金町浄水場を取り戻すまでを東京全体のための次の区切りとし、まずそこまでをあなたの仕事にしよう。」
 「森山先生のお考えに従います。」と言って、水沢ははるかパパに頭を下げた。

 その後は海援隊が持って来た魚料理が振る舞われた。補佐官殿、はるかにはるかパパ、三人とも魚なんて本当に久々だった。例によってミョンジンが腕を振るい、渋谷側が持って来たよく冷えた日本酒が持ち込まれた。
 はるかパパと水沢が固めの盃を交わし、湾岸旧四区と渋谷の間で今後事務レベルで様々な協議を重ねていくことが決定した。実質それは「東京フェデレーション」が、海援隊という水軍を持ったことを意味していた。
 合意が整ったタイミングで、軽快なラテン音楽が店内に響いた。海援隊大隊長の市村が言った。
 「そうそう、このお店、こういう曲が流れるお店でしたね。中央のバーカウンター前で男女が踊ってて、モヒート飲みながら見たものでした。店主のミョンジンさんがとてもダンスがお上手で、お客さんのお相手をされてて・・・。」
 「踊りませんか?」と腰にエプロンのままのミョンジンが市村の右脇から声を掛けた。「水沢総長、市村大隊長をお借りしても?」
 「ええ、もちろん。市村、お相手していただきなさい。」と水沢が促した。
 ラテンボレロの傑作を、チャチャチャのリズムでリードするミョンジン、少しはステップが分かるのか、市村もミョンジンのリードでリズムを外さずについて行く。綺麗に直進、後退する市村の周りをスマートに動きながら、市村にターンをさせたり身体を震わせたり、踊るうちに市村も興が乗ったのか、髪をかき上げたりといったセクシーな動きが板について来る。腰に手を当ててターンを誘ったり、際どい程に密着した動きを入れたりと、曲のヤマ場では更に息もぴったりに。ダンスが終わる頃には、市村はうっとりした顔だった。はるかは、その光景を目を潤ませながら見ていたという。
 
 ここで、時間は80年後に飛ぶ。品川の病室に、私の孫娘の愛梨が押す車椅子に乗って、一人の老婆が見舞いに現れた。

 「はるか・・・お前、生きてたのか?」と品川の病室で、小さな銃創の残る老婆の右頬を見て、補佐官殿は息を呑んだようだった。
 「ええ、このとおりね・・・。今年97歳になりました。あれから80年でしたわね。懐かしいわ。」
 97歳のはるかは、身体こそ弱っていたが、私達5人の中で最も頭脳に恵まれており、この年齢になっても短期記憶、長期記憶共に明晰で、言葉も明瞭だった。それでも思い出すのは、最後は面会すら叶わなかった母、野戦病院化した渋谷公会堂から肩を落として出てくる父、日々崩壊していく社会資本、渋谷を守っていた警察権が完全に力を失いAK47を抱えた暴徒が闊歩し始め、街のあちこちで略奪暴行が始まった厄災初期の渋谷の風景、地獄の釜を開いたようなご遺体の臭気、そして補佐官殿に連れられて行った檜原村。彼女から日常を奪った全てに蹴りを入れてやろうと厳しい戦術訓練に懸命について行った日々。はるかは全てを鮮明に覚えていた。
 「最終訓練に熊狩りをさせられた時には、いつか絶対殺してやろうかと思いましたよ、補佐官殿。」
 「熊が殺れなくて人が殺れるかよ。」と言って補佐官殿は笑った。「色気づきはじめの生意気な娘っ子が、コロンの匂いが消えるまで訓練して、気配から匂いまで森と同化しないと殺れないのが月の輪熊だ。」
 「ああ憎らしい、あなたはいつも正しいんだから。その正しさすら憎らしい。」はるかは懐かしさに笑みを漏らした。
 「俺が何かが出来る人間だってのは勘違いも甚だしいよ。俺は厄災前の東京では世間様のお荷物みたいなものだった。渋谷のことは、誰もいなかったから仕方なくやっていただけさ。しかし、お前ら、熊のすき焼き食ったらすぐ機嫌が直ったな。あれは可笑しかった。」
 「ええ、いつもお腹を空かせてたから。」
 「なぁはるか、ミョンジンのことなんだが・・・。」

 ムン・ミョンジン、彼があの日なぜはるかを巣鴨に連れ出したかは今となっては良く分かる。彼はある種の数寄者だった。そして自分の趣味の通じる人とは、年齢や境遇を超えて響き会うタイプの人だったのだろう。(君は僕の趣味がわかるんだね、嬉しいよ・・・)という具合に。彼と会ったことの無い私の母は、目白の御前との関係で窮地に陥っているミョンジンが、もしかしたらはるかを人質に取って、渋谷と何らかの交渉を始めようとしているのでは無いかと勘ぐったが、面識のある夏希パパ、はるかパパは、それは無かろうと楽観的だった。
 はるかの一方的な想いだった。とてもプラトニックで淡い思い出ではあるけれど、長いはるかの人生に鮮やかな色を与えてくれた最初の体験ではあった。

 豊島への連絡員として池袋の新市長に親書を届けた後、はるかはミョンジンの誘いで巣鴨の射撃場を訪れた。この訪問に母は難色を示したが、久住副市長が「まぁ、研修だと思って」と、GPSで位置を知らせること、無線を携帯することを条件として許した。
 ベージュのスーツに身を包んだ伊達男の彼は、パンツの腰45度の位置にIWBホルスターを挟み、シルバーのベレッタM92Fを差していた。サッと抜いてスライドを引くカチンという音に、不覚にもはるかの胸は高鳴った。
 「ベレッタ!ベレッタ!私もベレッタ撃ちたい!」この時はるかは、きっと目を潤ませていたに違いない。
 「うちの制式銃だから在庫は腐るほどあるよ、好きなだけ撃ってってよ。」と言い微笑むミョンジン。はるかには、彼の全てが眩しかった。
 「グロックの優位は分かるんだけど、退屈なのよね。」はるかはM92Fを構えた。「SIGのP226やCZ75より随分フロントヘビーなのね。」
 「P226は・・・ああ南くんの愛銃だね。でもCZ75なんて超レア物がなんで渋谷にあるんだい?」
 「矢吹先生がベトナム大使のおじさんからお礼に貰ったのを、私がオーバーホールしたの。古い銃だけどすごく良いフィーリングだった。今は矢吹先生が護身用に持ってる。」
 「へぇ~、羨ましい。うちがベレッタを使ってるのは、米軍に沢山在庫があったのを安く流してもらったからなんだ。南くんのP226はあらゆる意味で優れた銃だけど、ベレッタに値段以外に優位があるとしたら、はるかちゃんが言うようにフロントヘビーで銃身の跳ね上がりが少ないことだね。とても良く当たるよ。」
 「確かに!」
 はるかがパン!パン!と撃つたびに9mmルガーの弾頭が的の中央に気持ち良いくらいに吸い込まれていった。
 「流石、現役の法執行官の射撃は大したもんだ。でもグロック22は文句のつけようのないくらい良い選択だよ。40S&Wの弾薬は決して安くないはずだけど、君たちの安全を考えたら安いもんだと判断したんだろうね。」
 「そういうとこ何だか腹立つのよね。」
 はるかは40口径の優位性については理解していた。この頃より大分前の話だが、薬物常習者が原宿の炊き出しでAKを乱射した時、たまたま清美さん不在の場所で遭遇した矢吹先生が対峙し、CZ75で9mmを撃ちまくって腹と大腿部に命中したのに、足止めできなかった。駆けつけたはるかの部下たちが40口径を何発か撃ち込んでようやく暴徒を抑え込むことができた。補佐官殿だったら頭を撃ち抜くところだろうが、矢吹先生は流石に躊躇したのだろう。
 「そんな言い方したら南くんが可哀想だよ。」ミョンジンは笑いが止まらなくなってしまった。
 「あなたを渋谷に迎えられたら良かったのに。40口径が正しい選択なのと同じくらい、あなたを渋谷に迎えないのが渋谷にとって正しいのは理解はできる。でも・・・。」
 「そんな話は、僕らの関係には相応しく無いよ。そうだ、気分転換に良い場所に案内するよ。きっとはるかちゃんは気に入るはず。」
 「私に運転させて貰えるなら。」
 射撃場を出たはるかたちは、アウルズのジムニーに乗って二人だけで駒込の六義園に向かった。
 「アウルズには元造園技師がいてね、僕のポケットマネーで荒れ放題だったこの庭園をいい感じで整備できたんだ。ほら池なんか良い感じだろ?」
 どこから引いてきたのか綺麗な水に色とりどりの鯉が身体をうねらせて泳ぎ、緑亀が岩の上で甲羅干しをしている。ミョンジンが言うには、春のしだれ桜は本当に素晴らしいのだというが、この季節の紅葉も実に美しい。
 芝の上に置かれたテーブルと2脚の椅子、ミョンジンが持ってきたバスケットには、彼のお手製のマフィンとパイナップルケーキの良い匂いがした。彼は立ち上がり、湯沸かしポットから透明の急須にお湯を注いで捨て、改めて茶葉を入れて熱いお茶を注ぐ。白い磁気の小ぶりな茶碗は黄色に緑の絵付けが鮮やかで、中国茶の香ばしい香りが立った。
 「これ、お茶会!」はるかがそう言った次の瞬間、ミョンジンの首に大きな赤い花が咲いたように見え、そして次には黒いプレートキャリア越しにはるかの右胸に鈍痛が走った。「何が!・・・」と言う間も無くミョンジンの頭はスイカのように砕かれ、はるかの右頬に熱いものがかすめた。
 はるかはミョンジンの身体を引きずり、彼と共に岩陰に隠れた。なぜかはるかはそれが正しい対処法だと思ったのだが、なぜ正しいと思ったのか分かったのはしばらく経ってからだった。
 (スナイパーだ。)血を流し、脈打つはるかの右頬。自分の体が冷えていくのを感じながら、酸欠ではるかの視界は真っ黒になった。
 はるかはプレートキャリア左胸のPTTスイッチを押し、「40メアリーより各局、応答願います。」と連絡した。
 しばらくしてはるかの部下から連絡が入った。「こちら45メアリー。隊長、今銃声が聞こえましたが!」
 「至急、南補佐官に連絡を。キングアウル、ダウン!繰り返す、キングアウル、ダウン!」

 夕暮れに包まれる六義園で、はるかは、自分のプレートキャリアで潰れた7.62×51ミリ弾を引き剥がし、気を失うまで眺めていた。
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 はるかが右胸に受けた7.62×51ミリ弾は、ミョンジンの首をかすっており、幾分か衝撃が和らげられ、かつレベル4プレートで止まったために大事には至らなかった。それでもプレート越しに彼女が食らった衝撃は、右肋骨に亀裂を入れ、肺にちょっとしたショックを与えるのに十分だった。はるかは1日意識を失った。
 自分の子が傷つけられた時の、俺と同世代の親たちというものを、俺はこの時初めて知ることになった。俺と同世代の、そこそこ高度な教育を受けた連中というのは、大概晩婚で、一粒種の子を異常なほどに大事にする。社会性を損なうような教育を進んでするほど彼らはイカれてはいない。しかし、子供が不運で沈んだ時には(自業自得であっても)どこまでも子に寄り添うという姿勢を崩さない。子の夢はどこまでも応援する。子が興味を持ったことにはとことん付き合う。はるかはいつかこう言ったことがある。

 「なんか、自分の親ウザいって思ったこと無いんだよね。でも、補佐官殿のことはすごくウザい。何て言うかさ、たまに補佐官殿の方が、パパよりウザい分『親』って感じするんだよね。」
 「俺に面と向かってウザいって言うのもどうかと思うが、お前、それカズやん(森山父)には絶対言うなよ。」と俺ははるかにキツく釘を刺した。
 「分かったよ、補佐官殿。」と言ってはるかはニヤニヤ笑っていた。

 こんな親が目に入れても痛くないほど溺愛している娘を傷つけられたらどうなるか(その割にこの親たちは娘たちに武器を持たせて危険な戦場に立たせているわけだが、それはさて置き)、昭和の妖怪のような目白の御前には知る由もないだろうが、同世代の俺には辛うじて理解できた。市長以下五人衆が、全会一致で復讐戦を決意した。
 もちろん俺は反対した。市政を預かる補佐官として責任が持てないと、俺は市長に強く主張した。駒込での事件の裏には、ミョンジンという邪魔者を排除して、アウルズを手中に収めようとする目白の御前がバックにいる。今回の凄腕スナイパーの件もそうだが、俺たちは目白の御前がどんなカードを持っているのか分からない。スナイパー1人倒して済むとは限らず、これが引き金になって豊島と抗争を始めるのは避けるべきだと強く主張した。そもそもミョンジンは俺の友人だ。悔しいのは俺も一緒だ。その俺が強く反対していることの意味が、「親モード」になってしまった政治家たちにはまるで伝わらなかった。森山保安官は俺に言った。

 「失礼ながら子供がいない補佐官殿とこれ以上議論しても無意味だし、これが市政を賭け物にするほどの冒険だってのは私達も分かってる。でも殺らなければならないと私達は覚悟を決めたんだ。補佐官殿、二つほど頼まれて欲しい。」

 補佐官殿・・・と森山保安官が言う時は、権限を傘にきて命令をする時だ。彼の頼みの一つは、厄災後に仙台に移転した警視庁に伝手があったら紹介して欲しいということ。スナイパーは地面から生えて来はしない。これは恐らく警察がマークするに値するほどの凄腕スナイパーが東京にいて、仕事を請け負ったということに他ならない。俺は、警視庁を警視で退官した親父が現役時代に可愛がっていたキャリア警察官僚を一人森山保安官に紹介した。
 そして二つ目は更に気の重い話だ。俺が使者になり、豊島市長に捜査協力を仰ぐということだ。それも御前を無視して直接豊島市長に掛け合うということだった。(俺、御前に殺されても文句言えないよな。)と内心思ったが、恐らくこれは、渋谷にこれからも俺が居続けることとのバーター、踏み絵に近いものに違いない。
 俺は、すぐ豊島に飛んで、川村樹一郎市長から約束を取り付けて来た。川村市長は大変申し訳無さそうに、ウチの傭兵の件でそちらにまで迷惑を掛けた・・・と神妙な面持ちだった。まさか、御前のやっていることをまるで知らないわけじゃあるまいが・・・と俺は思ったが、後日、市長より俺宛に直々に連絡が来た。大叔父が激怒しているが気にしないで捜査していただきたいと更なる言質を取った形になった。市長はどうやら何も知らないらしい。俺は少し胸が痛んだ。
 一方仙台警視庁からの協力は、非常にスムーズに得られた。当然だが、仙台には、厄災後の旧都民の生死に関する情報は無い。だが厄災前に都内に在住または在勤だった監視対象の情報ならある。凄腕スナイパーもその対象であり、しかも数がとても限られていた。その中から、元フィリピン陸軍特務曹長だった、アメリア・バターンの名前が浮上した。彼女は旧東京都の住民ではなく、埼玉県川口市の住民だった。勤務地は千代田区外神田、なぜか秋葉原のメイド喫茶で働いていた。これほどの危険人物がメイドというのも嘘みたいな話だが、久住副市長が調べるとメイド姿の彼女の写真がゴロゴロ出て来た。その写真を持たせた渋谷市の覆面エージェントを田端周辺に向かわせると、アメリア・バターンが例のスナイパーであることを断定するに足る情報が複数得られた。
 厄災後の旧北区ほどアンラッキーな地区は無かった。日本人と外国人が入り乱れた小集団が互いに攻伐し合い、さながら戦国時代の様相を見せていた。ロックダウンで川口に帰れなくなったアメリアは、早々にAK47を手に入れて一匹狼を決め込んだようだ。そして今では、QEEN BEE(女王蜂)という二つ名を持つまでに至った。「風向きはQB次第」と言われるほど、旧北区では、彼女を引き込んだ陣営が、彼女の狙撃で契約期間の間だけ束の間の平和を謳歌する。しかし契約期間が切れると別の陣営が彼女を引き込み・・・といった具合。そんなわけで小集団の乱立はずっと続いていた。
 ところが彼女は、今年の春先から活動を停止してしまった。恐らく雇い主を変えたのだろう・・・と五人衆は推測した。
 彼女の家族構成は、彼女と17歳の妹に10歳の弟、というところまでは警視庁の情報で分かった。こうなると彼らの面倒を誰が見ているのか気になるところだ。森山保安官は、「学校にでも電話してみるか。」と言ったが、俺は「やめておけ」と助言した。彼女の家族は、恐らく彼女の「雇い主」の影響下にあるだろう・・・と、俺は彼に言った。
 「確かに。」そう言って、彼はありったけの日本円をかき集め、品川の海援隊、要するに面識のある水沢花音だが、彼女に秘匿回線で連絡をつけた。その後のことは「補佐官殿はもう関わらなくていい。」と言われ、俺は蚊帳の外に置かれた。以下は俺が後に、森山保安官や副保安官たちから聞いたことだ。

 厄災以来、赤羽と埼玉県川口市で、荒川を挟んで妹弟たちと離れ離れのアメリアは、狙撃の報酬で得た電子マネーを送金していた。それにより、妹と弟は生活できていた。
 荒川土手の川口市側は、二重の有刺鉄線が敷かれ、更に金網フェンスでしっかり封鎖され、24時間県境監視体制が続けられ、夜間は高所からサーチライトで照らされていた。おまけに自衛隊の見張りが旧北区側に20式小銃を向け、常時発砲の許可が出ていた。警戒線より近づいた旧都民がいれば問答無用で射殺せよというのが彼らの受けていた命令だ。彼らの心中いかばかりかと思う。
 とは言えアメリアは、狙撃による荒稼ぎで、川向こうの妹たちに類が及ぶことだけは心配していなかった。(これだけの厳戒態勢が敷かれているのだ、心配ない。)と思い込んでいた。ところが、目白の御前に彼らの身柄を押さえられてしまい、全く想定外のことに進退窮まり、泣く泣く言う通りにするしか無かったのだろう。
 (QUEEN BEEが聞いて呆れる。)と、さぞや彼女は泣きたくなったことだろう。

 その後、森山保安官はQBの情報収集に精を出した。彼女の武器がFN SCAR 7.62mmバトルライフルであること、白いカミースを着て、チェストリグを装着し、FN5-7とライフルの予備マグを差し、バイクで移動する、アジトは旧北区の田端駅近くのJRが宿直の職員用に確保していたアパート・・・といった情報だ。
 恐らく、そろそろ「渋谷保安官事務所の精鋭が私を追っている。」という情報が、彼女に入っているに違いない。ただ、アウルズではなく、渋谷保安官事務所というのが彼女には解せなかったことだろう。何れにせよフィリピン陸軍でスナイパーだった元特務曹長だ。きっと返り討ちにするつもりで準備をしているに違いない。

 ある朝、田端車両基地の凄まじい爆発音でアメリア・バターンは目を覚ますことになった。セーフハウスからSCARのスコープで覗いた光景に彼女は驚愕したに違いない。田端車両基地に常駐している車両のうち、ディーゼル車だけが大破していた。

 (移動手段から潰しに来たか!)と敵は思ったか思わなかったか。
 
 これは俺が玉緒に指示したことだった。流石に電車は動かないだろうが、ディーゼル車ならガソリンさえ入れれば動かせる。敵を猛スピードで振り切る、たとえトラックで止めようとしても、包囲された際に有無を言わせず囲みを破るために最適な移動手段だった。万が一奴がディーゼル車で逃げることを想定しておけ・・・という俺の助言を、玉緒は忠実に実行した。

 派手な爆発音でかき消されている間に、ゆっくりと浮上したドローンが、樹里のアナウンスで「アメリア・バターン!あなたには殺人及び殺人未遂の罪で逮捕状が出ている。大人しく建物から出て、投降しなさい!」
 幸いドローンに搭載されたカメラは、QBをしっかり捕しっかり捕らえてくれた。
 そのQBだが、枕の下に常に忍ばせているFN5-7をさっと掴み、窓を開けてドローンを狙い撃ちした。銃を視認した瞬間にドローンを操作して旋回させる樹里、ドローンは45口径でQBに応射した。彼女が居住している5階の部屋の窓は粉々に。この応射で、樹里は火器を印象づけ、彼女を窓から遠い出口へ誘導する。
 QBは、くすんだグリーンのタンクトップの上からカミースを着て、チェストリグにいつもの装備を差し、背中に重いSCARを背負い、予め穴の開けられた壁を抜けて、カーテンの締まった3つ隣の部屋に駆け込んだ。
 その部屋でトレッキングシューズを履き、畳を剥がしてそのまま4階に降りた。壁を抜け、居住者の居ない別の部屋から部屋へ垂直に降りて行けるのは、この建物が雇い主の仕込んだものだからだ。
 QBの頭には、敵が火器を搭載したドローンを使うことがインプットされている。敵はチームで来ていると認識しているはず。すぐにアパートを飛び出すより、CQBを仕掛けて、敵を返り討ちにして隙を作って逃げるのが得策と踏むに違いない。
 ところが1階から、はるか特製の「AMG01(アーマーゲーゼロワン)」ことブリーチング用の対物グレネードが弾ける音がした。これも俺が玉緒に指示したことだった。部屋数の多いアパートをQBは一人で占有している。必ず何か仕掛けをしているに違いないと。果たして1階の6部屋のうち1部屋で、手榴弾で作られた即席ブービートラップが弾けた。もちろん離れた場所で対物グレネードを操作していた玉緒と夏希は無傷だった。
 破ったドアを一部屋一部屋クリアリングして、1階からの逃走の可能性を丁寧に潰していく玉緒と夏希、103号室の天井に大きな穴があるのを発見した二人は、上の階にQBがいるのを確信した。
 ところが敵も然る者、QBは303号室から203号室にハンドグレネードを放り込んだ。103号室にいた玉緒と夏希は際どいところで難を逃れた。QBは、方針を変えて、SCARでドローンを撃墜した。(最初からSCARで撃墜すれば良かったか・・・)と思ったが、飛んでいるドローンを撃墜するより、CQBで相手を返り討ちにする方が分の良い賭けだと思った判断は決して間違っていなかったはずだった。(私は何を間違った?)QBはふとそんなことを思ったが(間違えるも何も私は敵のことを何も知らない)ということに思い至った。(CQBに関しては、こいつらの方が私より手練れだったということか・・・)とQBは唇を噛んだ。
 QBは、ドローンの脅威の消えた4階の窓から、隣のアパートの屋根に飛び移った。更に隣の家屋の屋根へ、また更に隣の屋根へと渡る。新しいドローンがQBを追う。ドローンをFN5-7で撃ち落そうとするQB、しかし今度は当たらない。玉緒と夏希が銃を抱えてQBを追って来た。ジグザグに逃げながら着地した家の軒先にはQBが逃走用に忍ばせたオフロード車があった。エンジンにキックを入れ、大きくアクセルをふかす。
 しかし、通りに出た瞬間、足元で銃弾が弾けた。放棄された電車の屋根の上から銃身の長いAR15に大ぶりなスコープを乗せて、涼子がQBを狙っていた。
 踵を返すQB。バイクの姿勢制御を一瞬崩したが、立て直してアクセルを一気にふかして彼女は距離を稼いだ。ドローンを動かしていた樹里が、ジムニーで涼子を拾い、ここに夏希と玉緒が自分のバイクで合流した。
 直進でアクセルをいっぱいにふかし、アクセルからクリスベクターに持ち替えた右手で片手撃ちする玉緒に、やはりAR15を構えて片手撃ちする夏希。当てなくても構わない、QBのバイクの制御を奪うくらいの精度であれば十分だくらいの気持ちで撃つ二人。
 (身を隠すべきだった。)とQBは後悔したに違いない。特にジムニーのサンルーフからQBを狙う涼子は、同じスナイパーとして底冷えがする程恐ろしかったに違いない。チェストリグからFN5-7を取り出して右手で構えたQB、涼子は動いている車のサンルーフから頭を出して狙い澄まし、肩に一発見事に喰らわせた。

 「クソっ!クソっ!」痛みに耐えながら何とかバイクの姿勢を保ち、血だらけの痺れる右手でもう一度アクセルを吹かすQB。田端から赤羽までの追跡劇、とうとうQBは荒川土手にバイクで降りるハメになった。
 川向こうの自衛隊員たちがざわめく。県境の荒川はまともな神経の者が寄り付かない土地になって久しい。
 ゴロゴロとした岩場をバイクで器用に走ることについては、QBはきっと誰にも負けないつもりだったろう。しかし、クリスベクターと近接専用のAR15を持った玉緒と夏希は、QBに食らいついて放さなかった。少し遅れてジムニーもやってきた。バイクのまま荒川に飛び込もうというのがQBの狙いだったが、バイクの二人は散開して射線を作り、荒川土手から300メートルの距離を何の遮蔽物も無いところから狙う涼子は、正確にQBのバイクのタイヤを撃ち抜き、川から数メートルの位置で足止めすることができた。川向こうの自衛隊員たちからどよめきが起こった。
 センター街戦でも大活躍のメガフォンを持って樹里が車を降り、腰のバッジを外して高く掲げ、川向こうの自衛隊員たちに向かって叫んだ。
 「渋谷市副保安官、成海樹里です!自衛隊の皆さん、お騒がせしておりますが、ただ今重武装した凶悪犯を確保したところです。もう危険はありませんので、小銃を下ろして警戒を解いていただけると助かります!」

 「負けた・・・」と項垂れるQB。
 三方からサブマシンガン、アサルトライフルで狙われたQBはボロボロのカミースの肩から血を流しながら座り込んだ。

 「20メアリーより21ゼブラへ!クインビー、確保!繰り返す、クインビー、確保!」

 21ゼブラとは「Z–21」と書く。森山保安官のコールサインだ。玉緒がクリスベクターでQBを狙いながら言った。ヘッドセットを使わないでする通話に怪訝な顔をするQB。渋谷保安官事務所はスロートマイクを使用している。
 夏希が、うつ伏せになるようにQBを蹴り倒し、後ろ手に結束バンドで手を縛り、仰向けに転がした。
 「手間かけさせやがって。ああ、ナイフ持ってるじゃん。危ない危ない。」夏希はチェストリグからQBのナイフを取り上げて自分のポケットに入れた。
 涼子が土手に降りてきて囲いに加わった。樹里の目配せに頷いた涼子が、スマホの画像をQBに見せた。
 「舞浜って東川口から武蔵野線で行けるらしいね。」と言って涼子は、舞浜駅前で記念撮影をしているQBの妹と弟の画像を見せた。
 「これから二人は天然痘ワクチンを接種して品川へ行くの。そしてあなたの任務完了を以ってアメリカでの生活が始まるわ。あなたが任務をしくじったら・・・まあその後のことはあなたには関係無いわよね。」涼子は実に冷たい声で言った。
 悔しそうなQB。ただQBは小さな声で言った。
 「お前らもあいつらと同じだな。」
 「おいおい、傭兵に高い金出して妹と弟ヤクザから助けてやったのに、恩知らずだな。」夏希は鼻で笑った。
 「任務の内容は想像ついてるよね。」玉緒がニッコリと笑って言った。「あなたのクライアントを消して欲しいの。簡単でしょ?」
 「これから私とお前で、川向こうのオーディエンスの前で一芝居打つんだ。正直この芝居は私にとって命懸けだ。お前がどのくらい弟と妹を大事に思っているかも測れないところがある。ただ、私が死んだらお前は蜂の巣にされ、お前の弟と妹は腹を裂かれて吊るされる。」涼子の手元にはQBのFN5-7があった。
 「本当は今すぐここでお前を殺したい。お前はすごく危険だし、その方が簡単だから。でもお前に最後に一仕事をさせた方がいいという判断を私たちはした。」涼子はQBのカミースの襟を掴んで水辺へと引っ立てながら(私から銃を奪え、予備マグもチェストリグに入れておいた。)と小声で言った。(任務が成功したら大井競馬場正門まで行き、本名を名乗れ。)
 夏希がQBを縛った結束バンドは簡単に切れた。予め切り込みを入れていたからだ。
 「あちゃー!」とことさらに慌てる夏希。
 QBは、涼子の腹に一発入れ、引き倒して愛銃FN5-7を奪った。流石に元軍人、肩を負傷しているのにほとんど一瞬でやり遂げた。背中から倒れて呼吸を止められたかのような演技をする涼子に一瞥もくれず、QBは一目散に荒川に走って飛び込んだ。背後から5.56ミリ弾と45口径の音がした。当てる気が無いのはQBにも気配で分かった。
 川向こうの自衛隊員からは「ああ~!」という落胆の声が聞こえた。悔しがる(演技をする)4人、そのうち夏希と涼子が言い争う(振りをする)間に、メガフォンを持って川向こうに叫ぶ樹里。
 「自衛隊の皆さん、お騒がせしました!」

 きっかり一週間後、QBは大井競馬場正門にいた。
 「アメリア・バターン」
 泥だらけの姿、持っているのはFN5-7と小さなナイフだけ。紺のロングジャケットを着た守衛がQBを迎え入れた。彼女は倒れ、目を覚ましたら太平洋上の米戦艦の医務室にいた。徹底的なメディカルチェックを受け、米軍に天然痘の抗体を提供した。その甲斐あって、彼女は米軍にとって有用な人間になれたようだった。
 翌日には妹と弟との面会が許され、彼女たち姉弟はハワイで暮らすことになった。

 西日暮里復興評議会なる団体より、「渋谷市政補佐官 南慎介様」と名指しの封書が届けられた。差出人は「西日暮里復興評議会議長 南大介」とある。
 かつて使徒パウロは言った「高慢にならないように、私の肉体に一つの棘が与えられた。それは、高慢にならないように、私を打つサタンの使なのである。」と。南大介、それは俺の肉体の棘、サタンの使い、有り体に言えば俺の親父の名だ。
 「まさか生きてるとは思わなかった。」その達筆で書かれた書状を見ながら腕をわなわなと震わせる俺を、五人衆はここぞとばかり揶揄った。
 「補佐官殿のいかにも放蕩息子的な経歴を思えば、親父殿の苦労が偲ばれるな。」久住副市長が大笑いした。
 「一般向けの経済学の新書書いたり、アウトドア雑誌とバイク雑誌に連載したり、金が無くなると通訳で稼いでたとか、それからエロ雑誌の人気ライターだっけ?遊んで遊んで遊びまくった結果運よく金がついてきて、挙句の果てには乱世の梟雄だろ?そりゃ親父殿もハラハラドキドキだよ。」成海先生は随分俺の経歴に詳しい。森山保安官からの断片的な情報からネットで調べまくったか?
 「私、補佐官殿のエロ雑誌の記事読みたいなぁ!」ドクター矢吹までが茶々を入れ、「二人もそうだよね!?」と玉緒と夏希に目を向ける。
 「え~キモいよ。絶対やだ。」と玉緒。
 「同じく!」と夏希。
 「同感だな、友達ならともかく間違っても娘を嫁にやりたくないタイプだ。」ニヤリと笑う森山保安官。
 「ハイハイ、それくらいにしましょう。アダム、行くんでしょ?たまには実家に帰りなさいよ。」と渋谷のお袋様、もとい斉藤市長が俺を促した。
 「行かねぇよ、行くかよ、何言ってんだ!『復興協議会』だぜ?旧荒川区なんて一番治安の悪いとこだろ。」俺は治安の悪さを盾に取ってこの招請を市長に断らせようと思った。
 「ああ、じゃあはっきり言うわ。補佐官殿、森山保安官と一緒に行ってちょうだい。私たちの最終目標忘れたわけじゃないわよね。葛飾の浄水場を復旧すること考えたら、荒川の復興はその一里塚でしょう。荒川が自分から手を上げてくれているんだから行くしかないでしょう。高橋副保安官のチームを完全武装でつけるから。」
 「ああ~俺、アダムの親父殿に会うの楽しみだなぁ。」森山保安官は随分楽しそうだった。「アダムの親父ってことは『神』だったりしてな。」

 翌朝、俺は完全武装で森山保安官の運転するジムニーの助手席に乗り、日暮里に向けて出発した。AR15を右肩からスリングで釣り、P226を腰のホルスターに挿してヘルメットを着用、こんな武装はセンター街の戦闘以来だ。森山保安官も同様にアーマー着用、制式のMCBK迷彩の戦闘服を着てヘルメット着用、護身用にUSPコンパクトを腰に挿して、後部座席にはM870ショットガンを置いてある。
 「なぁ、カズやん、あれで良かったのか?」
 俺と森山先生は保安官代理と保安官という立場で二人きりで話し合うことが多い。二人きりなら彼は俺をしんちゃん、俺は彼をカズやんと呼び合う仲だ。
 「ああいうことはしんちゃんに決めさせるわけには行かないよ。俺ら五人衆の領分だ。だから俺たちの娘たちだけに実行を任せ、その他の条件は全部五人衆で決めたんだ。」
 彼の言うように、田端の作戦はほぼ俺抜きで五人衆が決め、森山保安官が手配して進めたものだった。それにしては鮮やかに決まったものだった。
 「川村市長まで殺るこたぁ無かったんじゃないか?」
 川村重徳氏をはじめ、目白の川村家の使用人たちを殺害したのは、使用された凶器がアメリア・バターンが所持していたFN5-7や、彼女がよく使っていたハンドグレネードであったことから彼女の仕業であることは明らかだった。しかし、その後ほどなくして川村樹一郎市長まで自動車に仕掛けられたプラスチック爆弾で爆殺されたのは明らかに別の実行犯によるものだ。
 「俺は何も指示してない。恐らくアウルズの残党だよ。」
 「本当に指示してないんだな?あのイケメン市長様は何も知らなかったんだぜ。それに政治的目的の実現のために政治家を殺害するとかが常識になっちまったら・・・。」
 「補佐官殿、俺は何も知らないよ。」カズやんはきっぱり言った。
 「分かった、もう何も聞かない。」二人きりのこの場で「補佐官殿」と彼が言うということは、この話は打ち切り、それ以外に無い。
 「この件では、仙台警視庁にしんちゃんの親父さんの指導っ子がいたという伝手が役に立った。都内で生存している可能性のある狙撃手の情報を得られた結果、アメリア・バターンが浮上、その後の手掛かりが芋づる式に得られた。品川伝手に米空軍のコネで傭兵を雇い、川口で軟禁されていた彼女の肉親を救出・・・とまあ、しんちゃんの親父さんにこの辺りの話するわけにはいかんが、間接的であれ大恩人だってことは間違いない。俺が今回ワザワザ出向くのは、借りを作ったままじゃ俺の気が済まないからさ。」

 文京区千駄木、台東区谷中、そして荒川区西日暮里の境界入り組む西日暮里谷中銀座商店街。谷中銀座を見下ろすマンションが俺の実家だ。昼前に到着し、涼子のチームが周辺の警戒態勢を整え、最後に俺と森山先生の車の場所を確保。俺たちと隊長の涼子はマンション1階にある、かつてレストランであったスペースに通された。

 「西日暮里復興協議会議長の、南大介と申します。」相変わらずのこの目つきの悪さが何とも堪らないのが俺の親父殿である。
 「渋谷市議、兼渋谷市保安官をしております、森山です。こちらは市政補佐官の南慎介、副保安官の高橋涼子です。」森山先生が挨拶をした。
 「本日は、わざわざのお越しありがとうございます。実は西日暮里地区の復興のために補佐官の南慎介氏のお力をお借りしたく・・・。」
 「南議長、あんまり他人行儀は好きじゃありません。我らが補佐官殿はご子息じゃないですか。私たちも親戚のようなものだと思っていただいて結構ですよ。それを申し上げたくて私直々に出向いたのですから。」
 「ああ・・・これは何と申し上げたら良いのか・・・。」親父殿は随分恐縮している。
 「協議会の他の皆さんも是非お話に参加してください。今西日暮里で、何が出来ていて、何が出来ていないのか、課題を整理し、課題解決に何が必要なのか話しましょう。」森山保安官はすっかり政治家らしくなったものだ。

 西日暮里復興協議会は地元商店会等の商工業者の団体を母体とし、その議長として警視庁で警視まで勤め上げた俺の親父殿を担ぎ上げた。実効支配エリアはとても小さく、地域的にも旧荒川区周縁部ということで、幸い武器を持った暴徒が拠点としなかった代わりに、彼らの復興活動には旧荒川区各所への影響力はほとんど無いというのが現状だ。しかしながら親父の指揮により、路上や鍵の掛かっていないドアのご遺体の片付けは粗方済んで、町屋斎場での火葬が済んでいる。流石に親父はこの辺りのことはよく分かっていて、早々に医者を確保し、遺体に関する書類仕事は全て済んでいた。
 「まずは旧出張所管区に範囲を区切って、その地域にあるドアというドアは悉皆でブリーチング、ご遺体と武器を一掃し、同時に生存者の名簿を作って・・・議長、この地域には若者は居ませんか?5人いれば十分ですが。」俺は親父に言った。「渋谷は復興にあたって一番危険で汚くて辛い仕事を、復興協議会の核となる5つの家から一人ずつ子女を出して担わせた。この森山先生の娘さんも、今日来てるこの高橋もそうです。」
 「ちょっと待て、このお嬢さんは、元警察官とかじゃないのか!警察の特殊部隊員の生き残りかと思ったぞ。」親父が目を丸くした。
 「私は檜原村で補佐官殿に2ヶ月の訓練を受け、あとはOJTだけで保安官事務所の仕事をしています。渋谷は繁華街や新宿区境での戦闘が多かったために、実戦経験だけは積んでますが、17歳ですから警察官募集に応募できる年齢ですらありませんよ。」と涼子はにこやかに言った。
 「当面は、檜原で訓練を受けた品川の若者にしばらく仕事をして貰えば良いでしょう。渋谷の復興時のように補佐官殿に直々に指揮をさせます。」森山保安官は全面協力を約束した。「ご子息とお会いになるのは久しぶりのようですが、渋谷首脳部は、彼からは治安に限らず、政治全般について助言を貰っています。彼がいれば西日暮里だけでなく、旧荒川区をまとめ上げるのもそう遠い未来ではないでしょう。」
 「そんなことが、可能なのか?保安官たちの給料や手当は?」親父は一番懸念していることをズバリと言った。
 「東京フェデレーション構想と言いまして、私が総務省に提出した保安官事務所の旧特別区連合単位で管理を行うプランがようやく実施にこぎ着けまして、民主的な地方政府を目指す地域での警察権力の空白に、東京フェデレーションの保安官を置いて治安を担当させるというものです。今までは旧特別区単位で財政力によって・・・と言っても地域の小金持ちのポケットマネーでの運営だった保安官事務所を、国の交付金を使って地域の偏りなく設置できるように仕組みを作ったんですよ。」
 「なるほど、警視庁のようなものですか。」
 「いや議長、どちらかと言うと、清掃一部事務組合とか特別区競馬組合に近い仕組みです。」俺はそう説明した。
 「慎介、お前いつの間に特別区にそんなに詳しくなったんだ?」
 「いや、専門ってわけじゃないがな・・・」俺は頭を掻いた。

 この時から3ヶ月を目処に、荒川市政施行を目標とする戦いが始まった。俺は新たに荒川保安官事務所制式となったODカラーの戦闘服とアーマーに着替え、復興協議会メンバーたちにもヘルメットとアーマーを支給して、悉皆ブリーチングを開始した。
 最初の1か月は涼子が、悉皆ブリーチングを担当した。制式の短いAR15を構え、人影はあるものの応答しない怪しいドアには、親父に無線で突入許可を取る。
 「60メアリーよりゴッドファーザー、突入許可願います。」
 「ゴッドファーザーより60メアリー、突入を許可する。」
 「突入許可、コピー!」
 涼子のチームが、ドアにAMG01を仕掛けて退避、ドアが破られるとフラッシュバンを放り込み突入。荒川は組織化した暴徒の根城が多く、渋谷の熟練したブリーチング技術がとても役に立った。
 大量の武器を押収して引き上げて来る涼子に、目を丸くして驚き、親父殿は絶賛した。
 「本当に見事なものだ。涼子ちゃん・・・じゃなく、高橋副保安官。怪我だけは避けてくださいよ。お父君に顔向けができないので。」
 「ご心配なく、無理はしませんよ。私は渋谷の副保安官で一番荒事に向かない人間ですから。」
 (なら他の子たちはどれだけの猛者なんだ。)と親父は想像を巡らせた。

 その後は復帰したはるかが来てくれていた。はるかの復帰は、俺には本当に嬉しいニュースだったが、はるかの頬の生々しい傷痕に、うちの親父は、ああ、嫁入り前の娘が・・・と随分狼狽えたという。
 「40メアリーよりゴッドファーザー、突入許可願います。」
 「ゴッドファーザーより40メアリー、突入を許可する。」
 「突入許可、コピー!」
 突入すると、失禁した老人が腰を抜かしていたなんてこともあった。
 予め待機させた介護のスタッフにテキパキと指示するはるかにも、親父は随分好感を持ったという。

 西日暮里から訓練に参加した若者たちはODカラーの戦闘服に着替え、やがてはるかから現場の仕事の引き継ぎを受けた。
 渋谷、品川、時には新宿、目黒、世田谷からも応援を受け入れ、旧荒川区の他地域へとブリーチングの地域を広がって行った。出張所区域単位で副保安官を置く保安官制度の確立と住民台帳が完成、政府から支援物資を受けられるようになって、親父は市長代行を名乗るようになった。俺は久住副市長を呼び、仕事を引き継いだ。選挙からはシステム屋である久住副市長の仕事だからだ。
 俺は、日暮里にある自分所有のマンションを訪れた。旧荒川区最後の2日間はご無沙汰していた愛車のトライアンフを整備して過ごした。
 「市長には、私、南大介を!」と訴える親父の姿を街頭ビジョンからの政見放送で見た。俺は親父の姿にさっと敬礼をし、渋谷へ帰るバイクのアクセルをふかした。

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 荒川の選挙が終わり、補佐官殿の父上が市長に当選された。夏希パパは荒川の選挙管理委員長を勤め上げほっと一息だったのが、今度は豊島から2度目の選挙管理委員長就任の要請があった。
 豊島は自動車爆弾で市長の川村樹一郎氏が亡くなったばかりで、市政に空白が出来ていたからだ。豊島市議の名取氏が市長に立候補、さらに名取氏の議席を巡って補選が行われた。夏希パパはまた大忙しだ。五人衆の暗黙のルールで、自分の娘は随行させないというものがある。豊島には樹里のチームが随行した。
 今回の選挙の最も大きな争点は傭兵団アウルズに代わる治安組織として、新たな傭兵団と契約するか、それとも東京フェデレーションの保安官制度に乗るかである。実質川村家の私兵だったアウルズのような傭兵団が(上手く機能していたとは言え)治安維持の任に当たるのは、厄災を背景とする非常手段として辛うじて許容されていただけのことで、川村家が無くなれば原則に戻るだけのことだ。
 名取氏は前市長の与党であり、川村家の影響を強く受けていた人ではあったが、東京フェデレーション加入の推進派であった。
 なお、荒川と豊島の動きに呼応するように、旧文京区も復興協議会を組織、保安官事務所設置という流れになった。渋谷の友邦とでも言うべき旧特別区は湾岸4区の港、品川、港、大田、江東、そして目黒、世田谷、新宿、豊島、荒川、そして文京と11自治体、旧23特別区のほぼ半数に及んだ。
 その他杉並と中野から世田谷にコンタクトがあったが、この旧2区は復興協議会作りの端緒についたところである。その他の旧特別区の情報は少ない。
 さて、豊島を闊歩していた元アウルズ隊員たちはどこへ行ったか?総勢150人のうち、ミョンジン氏に近かった隊員たちは皆行方知れずだ。残りの、ミョンジン氏側から見れば裏切者の分派に当たる隊員たちは、東京フェデレーションが抱えることになった。
 彼らは一度檜原ファームへ移され、訓練と適正検査の後に、檜原の木下文太郎率いるE中隊に編入。後に「陸援隊」と名付けられ、東京西部と旧特別区の区域を結ぶ、中央道の警備に当たった。
 彼らの活躍で、東京西部と特別区の区域の物流は大きく促進されたが、同時に中央道沿いの旧三鷹市、旧調布市・・・という地域の復興を促すことになった。最初、これらの地域の市民たちは物々しく武装した陸援隊を見て、自衛隊が救援に来たと思ったらしい。地域の実力者が陸援隊を通じて東京フェデレーションを知り、荒川復興のような情報を得るに至って続々と復興協議会作りに乗り出すことになった。東京フェデレーションの事務局長をしている永尾さんもさぞや忙しい思いをしているだろう。

 ここへ来て荒川の南市長から渋谷にまた支援要請があった。はるかパパ、もとい森山議員のご指名で夏希と涼子がチームを連れて荒川に行くことになった。
 「渋谷市副保安官の久住夏希です!」と夏希は南市長に挨拶した。
 仮庁舎として使っている旧日暮里ラングウッドホテルで二人を満面の笑顔で出迎えた総白髪の南市長はいかにも好々爺然としていて、元警視庁警視というコワモテの経歴と、書状を受け取った時の補佐官殿のあの苦虫を噛み潰したような表情から想像していた「隙の無い気難しい人物」というイメージを完全に裏切った。
 「久住さんのお嬢さんだね?ああ、選挙ではお父上に本当にお世話になりましたよ。」
 「お久しぶりです、市長!」涼子が満々の笑顔で南市長と両手で握手したのには、夏希はかなり面食らったのだそうだ。
 「涼子ちゃん!じゃなくて・・・高橋副保安官だね、あはは、すまんすまん。今回は大変な仕事を任せることになっちゃって。」
 (涼子ちゃんてなんだよ、しかし結構長い付き合いだけど、涼子のこんな表情見たこと無いぞ。)と夏希は内心思った。
 鶯谷地域で最近麻薬カルテルが急速に育ち始めたという話は聞いていた。鶯谷を拠点として上野や日暮里に勢力を伸ばそうとしているその組織を壊滅させるというのが今回の作戦だ。
 「久住さん、うちの慎介も今回の作戦に参加すると聞いているんだが、今回は君たちを指揮するんじゃないのか?」
 「いや、上野の自警団と本件に関する交渉に行くとかで、指揮は私に任されてます。」
 「仕方ない奴だなぁ。」
 (なんだかんだ言って息子に会いたかったのかな。そういうとこなんだか可愛い。)と夏希は微笑ましかった。
 涼子は終始ニコニコしている。きっと南市長に懐いてしまったのだろう。夏希たちはラングウッドホテルの市長室を辞した。
 
 作戦は鶯谷の旧ラブホテル街の悉皆ブリーチングだった。二人は激しい銃撃戦を覚悟していた。50軒あると言われているラブホテル、日暮里方面の一番高いビルから、まずは涼子のチームが拡声器を乗せたドローンを飛ばし、悉皆ブリーチングを1時間近くアナウンスする。早速銃声がした。ドローンに向けてAK47を撃ちまくる粗忽者がいたようだ。 
 ドローンは上野、根岸方面へ逃げていく男女数十人の姿を捕えた。この作戦は、鶯谷駅前ラブホテル街の面的制圧だったので、逃げる者は逃げるに任せた。
 「30メアリーよりゴッドファーザー、突入許可願います。」夏希はチームを率い、鶯谷駅に一番近い建物から突入する準備をした。
 「こちらゴッドファーザー!30メアリー、突入を許可、どうぞ!」南市長から許可が下りた。
 「30メアリー、コピー!30メアリーより各局へ、突入を開始する、ロックンロール!」

 夏希のチームのメンバーは、同時にアサルトライフルやサブマシンガンのチャージングハンドルを引いた。
 「ラブホテルのドアってのは全部内側から鍵が掛かっているもんだ。」とは、この種のことにはとても物知りの補佐官殿が、夏希と涼子に授けた知識だ。
 夏希も涼子も施錠の有無を確認すること無く、対物グレネードをセットし、ドアを破った。一棟のクリアリングを終了すると荒川保安官事務所の要員を捜索のために残して、夏希のチームは次のホテルに向かった。
 同じ頃、涼子のチームは別のホテルに向かっていた。やはり対物グレネードでドアをひとつづつ破ってクリアリングをしながら進んでいく。2人のチームで10棟ほどのクリアリングが完了した頃、夏希のチームが銃声の聞こえたホテルに行き当たった。
 「30メアリーよりゴッドファーザー、突入許可願います!」「こちらゴッドファーザー!
30メアリー、突入を許可、どうぞ!」例によって南市長から許可が下りた。
 1階から、しらみ潰しにブリーチを仕掛け、3階の304号室に突き当たった時、ドアの中から話し声が聞こえた。
 (アタリだ!)夏希はドア周辺からチームのメンバーを退避させ、対物グレネードをセットした。そして全員にサーマルビジョンのセットを命じた。ドアが破られると、遮蔽物を使ってAKを撃ちまくる敵。夏希の部下がフラッシュパンを投げ込むと、銃声が止んだ。突入後確保した敵2名に手錠を掛け荒川の隊員に引き渡す。夏希がブリーチングしたホテルでは合計7名を拘束。ほとんどが日本人だった。
 20棟目のブリーチングが終了した頃、補佐官殿より無線連絡が入った。
 「21アダムより各局、どうぞ!」
 「60メアリー!」まずは涼子が応答した。
 「30メアリー!」そして夏希が応答した。
 「上野方面より、上野の自警団とともにブリーチングをしながら進んでいる。こちらの進捗は28棟。こちらはマーパットウッドランド迷彩でアーマーはコヨーテブラウン、フレンドリー(同士討ち)に気をつけられたし、どうぞ!」
 28棟?すごい手際だ。大人数なんだろうか・・・と夏希も涼子も些か舌を巻いた。
 「30メアリー、コピー!」
 「60メアリー、コピー!」
 夏希のチームが20棟目をクリアしてホテルから出ると、隣のホテルから大きな爆発音がした。どうやら上野の自警団がブリーチングをしたホテルで、RPGをぶっ放した大バカ者がいたらしい。5.56ミリ弾の長く激しい連射音が聞こえた後、補佐官殿の声で「クリア」と無線が入った。
 最後のホテルより、続々とマーパットウッドランドの戦闘服を着た隊員たちが降りてきた。出てきた最後の2人は補佐官殿と体格の良い金髪の女性だった。どうやらあの人が自警団のリーダーらしい。
 「よう、夏希!おお、涼子も!」補佐官殿は随分上機嫌だ。「紹介しとく、こちらは上野駅前復興協議会配下の自警団長、アメリカ海兵隊のジェニファー・リープフロイデ三等軍曹だ。」
 「久住副保安官です!」二人は敬礼した。
 「もう、シン、敬礼要らないよ~、このお二人は海兵隊ならキャプテンでしょう?私の方が階級下よ~。」
 少し英語のアクセントはあるが達者な日本語、大らかなアメリカのお姉ちゃんといった風情の彼女は長いノーマルのM4、大腿部のホルスターには、海兵隊では既に旧世代の銃となっているM45A1を挿している。
 「補佐官殿はこの方とはどういうお知り合いで?」涼子が尋ねた。
 「ああ、グアムで射撃訓練を受けた時のインストラクターだったんだ。その時彼女は予備役だったんだが、その後再入隊して沖縄に来てた。休暇で東京に来ていた時に厄災に遭遇して生き残ったというわけさ。」
 「今日一緒にラブホテルをブリーチして、シンはCQBの訓練教官みたいだった。マリーンコープスは全部の部隊がCQBの訓練受けるわけじゃないからね~。」
 そう言う割には、長いM4で我々より多くのドアをブリーチングしてきたわけだから、この女も只者ではない。と言うか、ずっと補佐官殿の腕に手を回していて腰をくねくねしているのが、夏希も涼子も気になって仕方がなかった。
 「21アダムよりゴッドファーザー!任務終了、これより帰投します、どうぞ。」
 「ゴッドファーザー、了解!」
 これで一仕事終わった。

 補佐官殿は荒川市首脳にリープフロイデ軍曹を引き合わせ、軍曹は上野駅前復興協議会からの親書を市長に手渡した。
 内容は、今後復興に取り組む範囲を広げて行く所存であるため、良好な善隣関係を作って行きたいとのことだった。喜んで、と市長は返答した。
 その後シャワーを浴び、戦闘服を脱ぎ、ソフトシェルジャケットの上からプレートキャリアを着た夏希たちは、補佐官殿と軍曹の案内で上野駅前に移動した。
 旧台東区は、かつての荒川と比較にならないほど治安が悪いと聞いていた。現に鶯谷は酷い有様だった。台東の他の地域も推して知るべしといったところ。
 ところが上野駅前だけは別天地の感があった。聞けば、上野駅前復興協議会のお偉方は有能なリープフロイデ軍曹が手中に収めたことで、上野の治安回復が実現し満足してしまっていたのだと言う。
 彼らの重い腰を上げさせに補佐官殿が上野側に出向いたのだそうな。もちろんこの件についてはリープフロイデ軍曹も強く意見を言ったらしい。
 屋外でグツグツ煮えた水炊きの中に放り込まれた鶏肉は、上野のそこここで育てられている鶏らしい。今上野名物と言えばこれだと補佐官殿は言った。
 「物流が回復すれば魚も食えたんだがな・・・」荒川区民だった補佐官殿にはきっと上野は馴染みの場所だったに違いない。
 「明日は、お前ら二人に御徒町から秋葉原を案内するからな。」と補佐官殿は言った。

 一体どこへ案内されるのやら。夏希は、傍らでニコニコ笑っているリープフロイデ三等軍曹の表情を読んだが、見当もつかなかった。

  朝6時には目覚めてしまう涼子は、茶のカーゴパンツにブラトップ、その上から袖に白字でSHERIFFと書いてある分厚い紺のトレーナーを着て、緑のソフトシェルジャケットを羽織り、その上からプレートキャリアを着て屋外の寒さに備え、ホルスター、ハンドカフポーチ、ダンプポーチ、フラッシュパンポーチ、ハンドガン用マグポーチといういつもの装備一式を携帯するベルトをパンツベルトの上から装着した。
 トレッキングシューズを履くと、涼子は、部屋の柱に右手をついて右足を浮かせて左足の踵上げを10回した。続いて右足の踵上げを10回。装備を腰にしたままのスクワットを10回。
 私や夏希、そしてはるかも、涼子から見れば体力お化けなのだと言う。「装備重い!」と言いながら、確かに私たちは装備の重さにはすぐ慣れた。涼子と樹里は装備に足を取られ、しばらくは相当キツい思いをしていた。
 そんな涼子に、装備に耐えられる足腰を作るためのエクササイズを補佐官殿は教えてくれたのだという。「少なすぎると感じるぐらいで良い」と補佐官殿は言った。不思議なことに、涼子は、装備に耐えられる足腰をすぐにつけることができた。
 「得意なことを伸ばしていけば良いんだ。俺はみんなそれぞれ飛び切りの武器を持ってると思うぞ。1人で何でもできる必要は無い。5人で1人分くらいで構わない。」
 補佐官殿は個性を愛するが故のチームプレイヤーだった。
 「それぞれの個性でチームに貢献し、補い合え。」と常に言っていた。それはきっと、バスケットボールプレイヤーだった彼ならではの発想だったに違いない。
 補佐官殿に対しては、私と夏希はそれぞれ頼りにするところがあったが、一人の男としては見ていないかった。
 樹里は補佐官殿に良く懐いていた。親戚のおじさんのような感覚だったのだろう。涼子とはるかは、それよりはかなり複雑な想いを抱いていた。
 (なぜこんな傑物が世に埋もれていたんだろう)というのが涼子とはるかの補佐官に対する評価だった。
 はるかはこの傑物が世に埋もれていたことを、どちらかというと彼の怠慢だと思いたがっていた。世を斜めに見ている南慎介が厄災前の世にまっすぐに関わってくれていたら、母がいて、学校に行って、渋谷で楽しく暮らしていた自分の日常は失われなかったに違いない・・・と思っているフシがあった。
 それ故に、はるかは最初、補佐官殿にはことさら刺々しく当たっているように見えた。
 補佐官殿はよく言っていた。
 「天然痘は空から降ってきたと思え、AKは地面から生えてきたと思え、今すぐ自分の手で出来ることを全力でやれ。どこの国が天然痘を持ってきたか、どこの国の奴らがAKを持ってきたかなんて気にしなくて良い。生き残った俺たちがどっちも根絶できれば、俺たちの勝ちなんだ。」
 それは、はるかにとっては本当に気に障る言葉だった。「厄災を持ち込んだ奴らを根絶やしにしなければ、あたしゃ収まらないよ。」と常々言っていた。
 ある激しい銃撃戦の後、「銃撃戦、倒してみれば、同胞か」とはるかがマズい川柳を詠んだことがある。私はそのマズい川柳をゲラゲラ笑ったが、同時私は、それを境に、はるかの何かが変わったと微妙に感じ取った。「AKは地面から生えてきたと思え」と言う補佐官殿の言葉がどうやら彼女の中でもすとんと腑に落ちたのだろう。

 涼子はと言えば、補佐官殿は、涼子の世界の全てに限りなく近いものだった。GLOCK22で射撃訓練をした時、いち早く涼子の目の良さを褒めた。KRISS VECTORでもブルズアイを連発した涼子、ところが腕力を補うために無理な姿勢をしていたことにすぐに彼は気づいて修正した。彼が修正するたびに涼子は成績を落としたが、その度に筋力を向上させる簡単なエクササイズを補佐官殿は涼子に提案した。
 「涼子はこれが出来るようになったら無敵だぞ!」「おお、思った通り、涼子は尋常じゃない才能があるぞ。」
 彼がそう言ってくれたお陰で、会社経営者の元気な子女たちに混ざっての生活に、孤立する恐怖で絶望しかけていた涼子の視界は明るく開けていった。
 銃の扱いで頭角を顕した涼子に、彼はスナイパーという仕事を与えた。
 「みんなお前に背中を預けると言ってるぜ。」と涼子に伝えた彼は本当に嬉しそうだった。
 長所を伸ばしたいという希望にも、弱点を克服したいという希望にも、彼は全力でアドバイスをくれたという。
 「部下を持つなんて、私にはまだ早いんじゃないかと思います。」と、代々木を任された時に泣きついた涼子に、補佐官殿はジェノベーゼソースのスパゲッティを食べさせた。
 「美味しい・・・」
 「部下に食わせてやれよ。作り方教えてやるから。今の涼子みたいないい顔するぜ、きっと。」と彼は言った。「そんで言ってやれ。荒事の場数は嫌というほど積んできたけれど、自分にも足りないことはある。だからこのスパゲッティ分で良いから私を助けて欲しいってな。きっと奴ら恐縮するぜ。」
 「そういうものでしょうか?」
 「曲がりなりにもお前はガチの戦場を知ってるんだ。渋谷センター街周辺のビルの上から、RPGやAKを持った暴徒をM14で丁寧に間引いて行くお前を見て、俺はセンター街のあの戦闘の勝ちを確信したものだ。玉緒や夏希がセンター街で好き放題暴れられたのはお前がいたからだ。お前に一目置かない奴の方がどうかしている。」
 (銃の撃ち方も、無線の使い方も、人の頼り方も、リーダーシップも、そして彼女も人に魅了されることがあるんだと、南慎介は教えてくれた。)後に彼が長い眠りについた後、涼子は言っていた。だから涼子は思っていた、はるかとは反対に、埋もれていてくれてありがとう、そしてこんな大変な渋谷に来てくれてありがとうと。
 さて、目下の涼子にとっての大問題は、ジェニファー・リープフロイデ三等軍曹という金髪のケツデカ女である。補佐官殿にべったりとくっついて腰をくねくねさせている。その理由は、涼子のような奥手な女でも分かった。お腹の下の下あたりで・・・虫がムズムズ這い回るような甘いような電気が走るような・・・と考えて涼子はやめた。止せばいいのに夏希は、「あの二人、アメリカで何か有ったね。」と涼子に言ったらしい。
 涼子の中で殺意が芽生え始めた時、補佐官殿の声がかき消した。
 「涼子!どうだ、このスコープ!使えそうか?」
 「え、す、スコープ?」
 「なんだよ、疲れてんのか?」補佐官殿は、しんみり涼子の心に沁みるような笑顔で涼子を気遣った。
 「いえ、そんなことは無いです。ああ、等倍から4倍くらいの近距離用のスコープ、ダットサイトとして使うこともできるみたいですね。」
 電池を入れると十字の中心が赤く点灯した。CQBから中距離くらいまでをカバーするショートスコープか・・・・と涼子はそんな状況に置かれた自分を想像した。(悪くないか。)
 「夏希はそれが気に入ったか。」
 「これは良いっすよ、補佐官殿。ハンドガン用の小型ドットサイト。この店って・・・。」
 「ジェンが俺たちなら使いこなせるだろうって目ぼしいのを昨日のうちに集めてくれたんだ。」
 「ここ、おもちゃ屋っすよね。」夏希さんがオプティクスを見ながら言う。「でもオプティクスは本物。本物のシュアファイアのライトなんかもある。」
 「ああ、プレートキャリアなんかもな。昔、実物オプティクスや実物装備なんかを使っておもちゃの銃で遊んだオタクがたくさんいた名残りさ。」
 「これ、400ドルぐらいしませんか?」涼子が口を挟むと補佐官殿は言った。
 「そう、面白いだろ?100ドルのおもちゃの銃に400ドルのライトに500ドルのオプティクス。」
 「うへぇ、変態の匂いがします!でもそんな変態さんたちのお陰でこんなお宝アクセサリが拝めるんだ。」と夏希は苦笑いした。
 「今日は御徒町、秋葉原の目ぼしい店をジェンに見繕ってもらったので、オプティクスやら予備のプレートキャリアやらホルスターやらを無償でお迎えして帰るぞ。」
 「ウソ!ジェン軍曹は良いんですか、自分のチームのために使わなくて。」夏希が驚いて言った。
 「私のチームはあなたたちみたいに特殊作戦の訓練はしていないから、こういうアクセサリを使うと却って調子崩すと思う。だから、シンのチームで使って貰った方が良い。ゆくゆくは私の部下たち、あなたたちにCQBの訓練お願いできると聞いたよ、東京フェデレーションあるでしょ?」
 「とても・・・助かります。」現金なもので、涼子は殺意が雲散霧消していくのを感じた。「ありがとうございます。」
 涼子は、スコープやホルスター、スリング、非番の時に着るフーディやプレートキャリア、トレッキングシューズを見繕い、箱に詰めた。補給を受けられるので差し迫って必要なものばかりでは無いが、部下にも十分行き渡る量が手に入ったのは涼子には有難かった。

 「うちの制式の5.11tactecもあるんだ。はるかのために持って行こうかな。」
 涼子は、はるかのプレートキャリアに7.62ミリ弾の穴が空いているのを思い出して言った。
 「まあ、持って行ってやれよ。喜ぶと思うぞ。今すぐ使うかどうかは分からないが、お前の持ってきたそのアーマーを着るときが、はるかの本当の再出発になるようにな。」
 「はい・・・。」涼子は真新しいtactecをじっと見つめた。
 「よし、このくらいで御徒町・秋葉原略奪行脚はおしまいだ。飯にするぞ。」

 秋葉原の歩行者天国には様々なB級グルメの店が出店していた。玉石混交、何せ保健所の営業許可を得た店など皆無、ある程度食中毒を覚悟して食べなければならない。
 「ここにしよう!」と補佐官殿が決めた店はスパゲティ・アキハバラクーダというふざけた名前の店だった。屋台でグツグツ煮える大量の湯に生麺を落とし、サッと引き上げてジェノベーゼ、ペペロンチーノ、ガーリックトマトチキンの三種類のソースを和えながら火を通して3つの大皿に盛る。
 「さあ食うぞ~」と言うと夏希がソースの混ざるのも気にせず、自分の皿にどんどん盛って食べ始めた。
 「補佐官殿、この味・・・」ジェノベーゼを口に入れた瞬間に涼子は言った。
 「な?ここの店主は昔、上野に店出してたんだ。俺も良く通ってた。」
 「『この味』ってどう言うこと?」夏希が涼子を怪訝な顔で見た。
 「初めての部下を持った時、とても不安で相談したら、補佐官殿がこのスパゲッティの作り方を教えてくれたんです。食べさせてやったらみんなお前についてくぞって。お陰でその通りになりました。」
 「そんなの当たり前じゃん、つか、『センター街のホークアイ』の異名を取る涼子について行かない部下なんているわけないよ。背後でRPG持ってた野郎が頭撃ち抜かれて倒れた時も、子供にAK向けられた時も、やべ~紙一重で死んでた!って思ったよ。あたしゃ涼子に一生頭上がんないよ!」と夏希は涼子の謙虚さを笑い飛ばした。

 気質はバラバラ、持ち味も違う。最悪の東京で、私たちはそれぞれがこの体験を通じて最高の仲間に出会えたと思っている。でも、涼子にとってこの渋谷保安官事務所での日々は、一際輝きを放っていた。そんな輝く彼女の世界の中心には、常に補佐官殿がいた。

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 旧文京区が東京フェデレーションに加わったのは、実はうちの親父殿の尽力が大きかった。西日暮里での成功が旧荒川区に広がり始めた頃、うちの親父殿は谷中、根津方面から避難して来る生存者も支援していた。復興の機運が不忍通り沿いに面的に広がったお陰で、旧文京区は南から面的に押し上げられる形で復興が始まった。
 同時に目白台、関口といった旧新宿区境の地域にも、大塚の旧豊島区境にもそれぞれ境を接する渋谷の友好市が支援する復興協議会が設立され、個別に政府の支援が行われるようになり、最終的には3地域がトップ会談を行ない、一つの保安官事務所を作って全土の治安回復、選挙による市長及び議会の選出を目指すことになった。
 当然余波は谷中から不忍通り沿いに上野へと広がり、今度は旧台東区の復興を押し上げることになった。台東の復興が進むとその余波は旧墨田区に及ぶであろう。旧墨田区は旧葛飾区と境を接しているため、墨田の復興が成れば葛飾への足掛かりが出来る。
 旧湾岸4区を覆い、東京湾の制海権を握っている海援隊は、東に旧江戸川区と西に旧中央区と接している江東市への支援のため、即応部隊が西へ東へと忙しく動いている。
 海の側から旧東京都に武器や薬物を運び入れていた敵は、港・品川・大田・江東に拠点を作り、わずかに東京湾に開けている旧中央区には作らなかった。このため、長らく海援隊の作戦目標にはならなかったのだが、新宿・港・文京の治安回復とともに行き場を失ったギャングが千代田へ雪崩れ込み、千代田・中央がギャングの拠点と化すことになった。海援隊は、まず旧中央区を制圧し、江東市の安全を確保するという方針を立てることになった。
 渋谷周辺の情勢は、中野・杉並が新宿の支援を受けて復興を開始。中野・杉並は年明けには選挙を行うことになっている。
 これで旧特別区南西部は東京フェデレーションの影響下になった。 

 ところで復興には絶対必須の天然痘問題だが、こちらにも動きがあった。 
 海援隊の水沢花音のセッティングによる、米空軍品川基地代表者との初顔合わせがそれである。
 こちらの主役はドクター矢吹と成海先生だ。
 英語が堪能な成海先生は、QB問題で、QBの家族を奪還するにあたり、米空軍代表のカレン・ウッズ少佐とやり取りを行い、彼女に紹介された民間軍事会社の役員との折衝を取り仕切った縁で、品川空軍との太いパイプを持つようになった。
 成海先生も、渋谷市議に選出されてから1年以上経つ。民政に関する様々な法律、教育法、刑事関係法施行条例を何百本と通してきた渋谷市執行部五人衆の一人として、本当に多忙だったに違いない。足りないのは時間だけではない。
 市政を施行して一番長い渋谷でさえ、財産権、税、福祉、インフラ整備に関しては全くの手つかずでいる。昼間人口の大多数を失い、無人の建物だらけの東京で、不動産所有権をやかましく言うことなど無理だ。
 また、経済活動がようやく再開されたとは言え、今の市民たちから税など取れるわけがない。財源が無いのだから福祉はゼロだ。土木工事だって起こせないのだからインフラの多くはしばらく放置するしかない。
 要するに行政を転がしていくアセットが悉く足りないのだ。1日も早く東京封鎖を解き、日本中の力を結集して全ての問題を片付けたい。これが民政担当議員としての、成海先生の偽らざる気持ちだ。
 そして東京封鎖解除の鍵は米軍と、我らがドクター矢吹が握っている。
 米軍との顔合わせに向かう我々は、玉緒のジムニーの先導で神田を通過。そこで我々は信じられない光景を見た。神田高架橋が倒壊してコンクリートの橋の鉄筋が剥き出しになっていたのだ。
 成海先生は、俺の運転するジムニーの助手席からその光景を撮影した。一昨日の地震の影響であろうか。体感で震度3程度といった揺れ具合だったのにこの崩れようだ。厄災後の社会的混乱がインフラにもたらした荒廃は計り知れない。神田は、千代田市として復活しなければならないが、マンパワー不足が障害となって、核となる復興協議会がなかなか発足しない土地柄であった。
 「万人の万人に対する争いか、トマス・ホッブスは正しかったな。」と成海先生は言った。
 「確かに、これはトマス・ホッブスが説いた世界そのものの帰結のように見えますよね。でも、アダム・スミスが言っていたように、人と生きることで喜びを感じるのも人の本質なんですよ。矛盾しているように見えて、必ずしも矛盾しない。人の価値を毀損することで自分の価値を釣り上げるのも、人の価値を認め、そこに自分の個性を掛け合わせてより価値の高いものを作って貢献するのを自分の喜びとするのも、価値ある何かでいたいという人のエロスであり、行動の原動力だったりします。それが人の面白さであり、難しさでもあると思うんですよ、成海先生。」と俺は言った。
 米軍の代表者、カレン・ウッズ空軍少佐が指定した会合の場所は東京駅丸の内口、有名なあの赤煉瓦駅舎のロビーだ。そのロビーに長いテーブルが置かれ、ドクター矢吹、成海先生、俺、そして清美の席が設けられた。玉緒のチームは外で警戒態勢を敷いている。
 これに対して米空軍のメンバーはカレン・ウッズ少佐と彼女のスタッフが2人、伝染病の権威、アレックス・トーレス博士の4名だった。
 『初めまして、代表の成海謙介と申します。こちらがドクター矢吹、私たちの市政補佐官の南、副保安官の斉藤です。』
 『空軍のカレン・ウッズです。こちらはドクター・アレックス・トーレス。』
 成海先生にとって、カレン・ウッズ少佐は刺激的だったろう。アジア系とラテン系の混血だろうか、とても掘りの深い魅力的な美女、肩にかかる赤みがかったブラウンの直毛、くすんだ緑のブラトップの胸元から覗く深く浅黒い谷間、細身のデニムが露わにする下半身の肉付き。その上から空軍のフライトジャケットを羽織っていた。
 渋谷側が3人とも流暢な英語を話すメンバーであったため、会議はほとんど英語で行われた。
 少佐と同様、フライトジャケットを着ているトーレス博士はほぼ俺たちと同世代、40代後半から50代といった年恰好のラテン系の色男だが、東海岸風の綺麗な英語から、アイビーリーグのメディカルスクール出身の医師なのだろうと思われた。
 『品川の海援隊の助けで、私たちは天然痘の検体を大量に手に入れることができた。既に私がドクター矢吹の仮説を検証した論文がジャーナルに掲載され、いくつかの製薬会社が私の論文に基づいて新しい天然痘ワクチンを開発し始めている。』
 『はい、拝見させていただきました。もの凄い反響で驚いています。』と矢吹先生は言った。『ウォール・ストリートジャーナルにまで私の名前が載る日が来るとは夢にも思いませんでした。』
 『あなたの発見は物凄い経済効果を生むものだからね。ただ一つ気になっている点がある。あなたはあのハイパーミニスモールポックス(極小天然痘)が蚊によって媒介された可能性を示唆していた。』
 『これが天然痘を媒介したと思われる雌の蚊のサンプルです。』矢吹先生は、プレパラートに綺麗に保存されたサンプルを、その拡大写真と一緒にトーレス博士に手渡した。
 『貴重なサンプルだね。東京では犠牲者がほとんど死に絶えて、今残っているのは抗体を持っている私たちだけだ。蚊が媒介する可能性を示唆しようにも『天然痘を媒介した蚊』というものが獲れなくなっている。』
 『その通りです。この貴重なサンプルには、実は再現性がほぼ無いんです。東京の本当の復興のためには、東京からご遺体を一掃すること、治安を回復すること以外に、蚊の対策も必要だと思いますが、科学的な根拠が欠けている。』
 『蚊を一掃する方法は、無いわけじゃないが、夏を待つ必要があるな。』トーレス博士は言った。『遺伝子操作で不妊化した雄の蚊を大量に放つってのはどうだろう。』
 『それ、何かのドラマで見た気がしますよ!可能なんですか?』矢吹先生が吹き出した。
 『その点について、私は全くの専門外だ。だから別の専門家に意見を聞いてみよう。でもとても素敵だと思わないか?イケメンだが女を妊娠させられない種無し男を大量に放って民族絶滅なんて。このプロジェクトを私は、プロジェクト”エル・グアポ(イケメン)”と名付けるつもりだよ。』トーレス博士は矢吹先生にウィンクした。
 俺は、”エル・グアポ”に吹き出してしまった。イケメンのトーレス博士が蚊に見えてしまったからだ。
 スペイン語に疎い成海先生が「アダム、”エル・グアポ”ってどういう意味だ?」と聞いてきた。

 ちなみに、このプロジェクト”エル・グアポ(イケメン)”は、日本政府の採用するところとはならなかった。

 『何れにせよ一歩前進だ、会えて良かったよ、ドクター矢吹。』とトーレス博士が手を差し出した。
 『私も。』二人は力強く握手した。

 『これでやらなければならないことがいくつか明確になった気がするね。』と成海先生は言った。『東京の全ての地域にあまねく民主的な地方政府を樹立すること。そしてご遺体を一掃することだ。』
 『少佐、ずっと気になっていたんだが、米軍は品川の民主化に反対はしないということで良いのか?品川の住民は海援隊が権力を明け渡したら反米化するかも知れないぜ。』俺は少し物騒なことを言った。
 『南さん、私たちが品川で海援隊とのパートナーシップの下、2年間漫然と過ごしていたと思ってらっしゃる?品川で、米軍ほど頻繁に診療所を開設していた医療チームは無いわ。』少佐はとても魅惑的な笑みを浮かべた。『それでも私たちが退去を要求されるということなら、あなたたちにお世話になろうかしら。』
 『斉藤市長は反対しないと思いますよ、賑やかなのがお好きな方ですから。ただ、海に近いというのは魅力的だったんじゃない?』ドクター矢吹は米軍に興味津々のようだ。
 『最初私は、単独で大井競馬場にパラシュート降下して、そこを拠点にしたの。品川では海援隊という民兵が最も支配的だというのはリサーチできていたので、あとは運河沿いに歩いて、彼らの船と遭遇すれば良かった。米空軍の者だということと、目的を伝えたら、すぐに水沢花音と面会できた。』
 「ちょっと待ってください、少佐は日本語がお出来になるんですか?」成海先生は敢えて日本語で尋ねた。
 「ええ、私は日系の血を引いているので。」と少佐は日本語で答えてくれた。「水沢に会うと、品川駅の近くに場所を確保するから大井競馬場はやめておけと言うの。」
 「大井競馬場は水害に弱いからなぁ。」俺はこの種のことに詳しい。「少なくともヘリコプターを留めておく場所としては不安が多いか。」
 「そう、それで私たちは品川駅を拠点にしているの。大井競馬場なら十分な広さがあるし、彼らの邪魔にはならないと思ったんだけど、水沢は私たちのことを心配してくれたのよね。」
 「先日大塚で彼らと会った時、彼らは皆FN509を腰に差していて、外の警備の連中はFN2000を持って警戒態勢を敷いていたが、あの武器は君らが?」俺はとても気になっていた。「少佐の腰の銃はFNX-45だよな。空軍はFNと契約しているのか?」
 「この天然痘撲滅プロジェクトは様々な企業がスポンサーになっていて、その中には銃器メーカーのFNが含まれているの。」
 「FN以外に銃器メーカーとのコネがあったら助かるんだが。渋谷は銃器の調達に密売ルートを使って法外な金を取られているんだ。装備の更新や弾薬の調達に是非強力をお願いしたい。」
 「紹介はできると思うわ。」少佐は「FNを使うなら無料でイケるけど。」
 「いや、金はちゃんと払う。だからこちらの指定したメーカーと渡りをつけて欲しいんだ。」
 「了解よ、南さん。」
 「とても助かるよ、少佐。」
 この会合は、渋谷保安官事務所にとって、とても良いディールになった。

 東京駅前の広場に爆音をかき鳴らす空軍のヘリが降り立った。カレン・ウッズ少佐とトーレス博士はヘリに乗り込み、東京駅上空を品川に向けて飛び立った。

 帰りの車で俺はボソリと言った。

 「成海先生はさすがホテルマンだけあって、人の目を盗んでおっぱい見るの上手いね。」
 「ちょっと!アダム、人聞きが悪いよ・・・。」成海先生はとても慌てた。「いや、でもアメリカ人の若い女性見たの久々で・・・彼女たちは堂々と胸元を強調してくるからちょっと目のやり場に困ることもあり・・・。」
 「まあでも、うちの矢吹先生も清美ちゃんも結構なもんだから。」俺はニヤリと笑った。
 「妻が天然痘で亡くなって・・・娘が大きくなったらひとり旅して『命の洗濯』なんて思わないではないけど、市議なんて要職に就いてしまったら滅多なことは出来なくなっちゃったよ。」
 「そうだね。東京封鎖解除まで、あとどのくらい掛かるかね。」俺はため息を吐いた。

 2週間ほど経って、海援隊の使者がトラックでクリス・ベクターを3丁持ってやって来た。俺は玉緒と樹里を呼び出し、試射をさせた。非常に良くチューニングされたカスタムガンであり。片方は戦闘服と同じマルチカムブラック、もう片方はODをベースとするカラーリングだった。
 玉緒はマルチカムブラックのものを、樹里はODカラーのものを、その後愛用することになった。

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 東京を壊滅させた厄災の正体が、新種の天然痘であることが日本政府によって正式に認められることになった。これは米空軍とトーレス博士の研究成果を背景とする米軍の働きかけによるところが大きい。
 首相を中心とする対策会議が開催され、東京封鎖解除、東京の本土復帰へのロードマップが描かれることになった。概ね民主的な組織によって統治されている東京は、所々の地域に歯抜けを残してはいるものの、ようやく希望が見えかけたと言えるレベルまで復興を果たしている。
 現在、旧23区のうち、18区の区域が選挙を行い、それぞれの市長を擁するに至った。残るは千代田、北、葛飾、足立、江戸川の5区の領域だ。埼玉県、千葉県に境を接する4区の区域には東京フェデレーションが各地域保安官事務所の部隊を送り込み、ギャング一掃、復興協議会のサポートを中心とする平定を企図している。
 江戸川には、旧中央区を平らげ、返す刀で東へ向かった品川海援隊が、武器を所持し、薬物取引で荒稼ぎをしているカルテル壊滅に向かった。こちらは簡単に片がつきそうだ。
 葛飾、足立は、足立警備保障という傭兵組織が実効支配している。これはアウルズの残党が立ち上げた厄介な相手だ。森山保安官が、旧墨田区ルートではるかを司令官として送り込み、平定に当たっている。
 旧北区は割拠状態であり、これもかなり厄介な地域だった。しかし、うちの親父殿が、近隣地域ということで、涼子が指揮する渋谷・荒川両保安官事務所の実力を背景にした交渉に入った。そして先日停戦にまで漕ぎ着けたところだ。これから各派に対して中立の保安官事務所が設立されて、その後は選挙が行われる予定だという。
 残るは千代田区の区域だが、ここは上野に近い外神田地域及びお茶の水周辺を除けば完全な無法地帯だ。旧23区で最も治安が良かったはずの地域が、図らずも無法地帯になってしまった背景には、住民が少ないというマンパワーの問題と、台東保安官事務所による全域の平定が進んだために、犯罪組織が全て旧千代田区の領域に集まってしまったというのが理由だった。
 自衛隊員の天然痘ワクチン接種が進んだことから、政府は東京市長会に対して自衛隊の治安出動を提案したが、東京市長会代表荒川市長、つまり俺の親父殿は、旧千代田区の領域限定での出動を要請した。旧千代田区以外の地域はほぼ制圧済み又は制圧見込みであること、加えて政府によって放置された東京を自分たちが守ってきたという矜持を示した形である。
 自衛隊派遣前に、現在の旧千代田区の状態を把握するため、陸自特戦群から相当な手練れが先遣隊として来ることになった。前島仁志一等陸尉と部下の下田美希三等陸曹である。俺と樹里が二人と有楽町で合流、前島一等陸尉等は、その足で千代田区全域を回ることになった。
 深夜にヘリコプターで現地へ、打ち合わせ通りストロボで着地地点を指定し、ロープで降下した二人を、俺たちは迎えた。ジーンズにグレーの長袖Tシャツ、そしてODのプレートキャリアを着た彼らを、俺はメルセデスのRVの後部座席に案内した。樹里が彼らに3枚のパッチを渡した。大小横長のパッチ2枚には緑地に金文字で「FUGITIVE RECOVERY AGENT」とあり、胸用の丸パッチには上半分に「FUGITIVE RECOVERY 」下半分には「AGENT」とあり、中央に飛び立つゆりかもめのマークが描かれ、ゆりかもめの下に描かれた赤いリボンに「TOKYO FEDERATION」と書かれていた。
 「これは民間人で保安官事務所に協力する人間に配布されるパッチなんだ。銃を持ってて、何もつけてないと保安官事務所に撃たれるからな。」と俺は笑った。
 「とりあえず有楽町マリオンへ行こうか。実は潜伏中の凶悪犯がマリオンにいるらしいという情報がある。今日俺たちはその凶悪犯の逮捕を兼ねてここへ来てるんだ。」
 彼らは俺と樹里の先導で、ぴくりとも動かないマリオン時計の下を潜り、センターモールへ、店舗は軒並みシャッターが降りているが、生々しい銃撃と略奪の跡の残る大きな柱を見れば、流石に本職の特殊部隊員も緊張の面持ちだ。大きなガラス窓の前を通る時は丁寧にクリアリングを行なって進む。俺と樹里はともにサプレッサー付きのKRISS VECTORを使用。自衛隊では見かけない銃であるため、前島一尉は、ジロジロと興味深かそうに見ていた。
 非常階段の分厚いドアを慎重に開ける俺、誰も居ないのを確認して樹里が侵入、俺がそれに続き、前島さんも俺の背中を守りながら階段に侵入。樹里はカタカタと小走りに階段を上がって行く。俺も銃を構えながら同じペースで続く。前島さんたちは、今回の任務のために支給されたHK416の重量のせいで余分に汗をかいているようだった。
 「着いた、5階だ。」と俺が言うが早いか、樹里がドアを少し開けて中に鏡を入れ、すぐに引っ込めた。
 (どうした樹里?)と俺が手話で言うと、樹里は渋い顔をして手話で(突入無理です)と言った。檜原時代にうちの副保安官たちに始めさせた手話だが、流石に語学に堪能な樹里、手話の上達も早い。俺たちは銃を持った行政官だ、軍隊式のブロックサインを勉強するより、手話の方が大きなアドバンテージがある。
 鏡を使って自分の目でも確認する俺、そして俺は首を横に振って言った。
 「見つかる前にズラかろう。自衛隊のお二人から先に。」俺たちは、前島さんたちを先頭に小走りに階段を駆け降り、センターモールを全速で走り、慌ただしく車に乗ってマリオンを離れた。
 「廊下に銃を持ったのが7人、奥からもかなりの人数の声が聞こえた。この人数では無理だ。武器と人数を揃えて、奴らどこかで戦争でもする気なのかもな。」車の中で俺は、物騒な推測をした。
 「東京の中心、旧千代田区は今やギャング共の吹き溜まり」前島さんは呻いた。「縄張争いも盛んというわけか。」
 「千代田だけは自衛隊の皆さんの面的な制圧力が無いと無理だと思うよ。」と言って俺は頭を掻いた。「日比谷を抜けて桜田門へということでいいな?」
 「ええ、よろしくお願いします。」下田三等陸曹が言った。

 桜田門の警視庁前に到着し、俺たちは、前島さんたちと別れた。
 「議事堂を見た後は永田町まで自力で行ってくれ、うちの久住副保安官が永田町であんたらをピックアップするからな。」と俺は前島さんに伝えた。

 警視庁周辺は閑散としていた。全ての通用口が綺麗に閉じられ、破壊された形跡も無い。都内にはRPGもたくさん流れて来ていて、渋谷保安官事務所も実際にはRPGを使用する敵とのコンタクトを何度も経験したものだ。ところがなぜか、ギャングどもは警視庁をRPGで抉じ開けようとは思わなかったようだ。前島さんはその事に首を傾げたという。
 仙台警視庁から預かって来た鍵で奥まった通用口を開け、前島さんたちは中に侵入した。半ば白骨化した制服警官の遺体がそこかしこに転がっていた。
 前島さんは、仙台警視庁との打ち合わせ通り地下のコンソール限定で電源を開通させ、3年ぶりに警視庁のサーバーを立ち上げた。大方のデータは危機管理マニュアルに沿って退避済みとのことだが、立ち上げたサーバーから、データ退避から警視庁機能停止までの期間に更新されたデータを、仙台に引き上げるとのことだ。コンソールから退避した彼らは、周辺隔壁を閉じ、警視庁の通用口を施錠して最高裁判所に向かった。
 国会議事堂も最高裁判所も仙台に移っているが、やはりデータ退避後の数週間分のデータの同期が行われた。霞ヶ関のデータについては自衛隊の制圧後に開始するとのことだ。作業はさしたる障害も無く終わった。彼らは、最高裁判所の作業が終了した後、栄養補助バーでさっと簡単に食事を終わらせ、三宅坂側から皇居を双眼鏡で見た。
 
 大勢が銃撃戦を繰り広げる皇居の惨状を、前島、下田の両名は、遠巻きに眺めることになった。
 「銃声が聞こえたので何だと思ったら、皇居ですか。」下田さんが呆れたように言った。「皇居で戦争って何か意味あるんでしょうかね。」
 「国会議事堂も国立国会図書館も最高裁判所も警視庁もほとんど手つかずだった。恐らく霞ヶ関もだ。ところが皇居ではあんな殺し合いをしてる。意味が分からんよな。旧千代田区を制圧して捕まえたら聞けば良いんじゃないか?」
 「今2人で出来ることはそんなに有りませんしね。」
 「そういうことさ。」前島さんは言った。「永田町へ急ごう。」
 
 彼は、市ヶ谷の防衛省付きだった頃、渋谷に出るのによく永田町で半蔵門線に乗り換えたことを思い出した。永田町では、打ち合わせ通り、夏希の完全武装のチームが、メルセデスのRV2台とオフロードバイク1台で来ていた。
 「久住です!」と敬礼する夏希は、ダットサイトとライトだけを装着したシンプルで軽量なアサルトライフルを肩から下げていた。前島さんは、(渋谷の連中は良い装備を使っているな)とでも思ったか、凝視しながら車に乗り込み、渋谷へ帰投した。

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 翌週から自衛隊による暴徒制圧戦が始まった。グレーの戦闘服、プレートキャリアに咸臨丸のパッチを胸につけた港保安官事務所の隊員と、黒のプレートキャリアにハチ公パッチをつけた渋谷保安官事務所の共同戦線を、市の境界まで押し上げて、逃走してくるギャングを確保するのが私の仕事だった。
 私は、マークシティに副官の築島さんを残し、渋谷保安官事務所3期生を中心とする編成で、この作戦に参加した。
 築島さんは、厄災で夫と子供を亡くした30代後半の女性隊員。副保安官を頭とする各地域には、事務官が一人配置されており、私のチームでも中野さんという事務方の男性が働いているが、残念ながら彼は住民対応で手一杯であり、職員の給与や休暇等の隊務までは手が回らない。築島さんは、OL時代に培ったスキルで、そうした事務をテキパキこなしてくれた。現場に出れば、陣頭指揮もちゃんと取れる、とても有能な副隊長である。
 今回私に同行しているのは、林鉄平という若い隊員だ。若いと言っても彼は25歳。19歳になったばかりの私よりも大分年上だ。渋谷中心街でホームレス生活していた彼は、飯が食える仕事を求めて保安官事務所の門を叩いた。
 機転が利くし、腕っ節も強い、大らかで人に好かれるタイプの男であるため、ゆくゆくは、地区の隊長くらいにはなるかなと思って私は目を掛けていた。ちなみに彼は私の想像を越え、地区隊長から副保安会議の首席副保安官、後に政治の世界へ転身し、夏希が市長になった時、はるかパパのように、市議と保安官を兼ねる名士となった。

 港保安官事務所の隊員は元海援隊、港市議会議員の子弟等の寄せ集めであるが、そこは海援隊代表、水沢さんの重みというやつで、熟練の戦闘員である海援隊と、議員子弟たちは、海援隊のイニシアティブで意外なほど上手く連携できていた。
 私の役割は、彼らの連携を現場で監督すること、まだ19歳とは言え、経験豊富な法執行官としてトップに着くことで隊員の間のリーダーシップの問題を摘み取れとのことだった。立場だけは、さながら幼女●記のター●ャ・デグ●チャフのようであったが、この千代田包囲戦自体はとても退屈な仕事だった。

 防衛線の押し上げは一週間で終了し、港保安官事務所の隊員たちは通常のパトロール業務に戻った。自衛隊の掃討戦は大詰めに入った。
 私は、森山保安官に呼ばれ浜松町の貿易センタービルへ。東フェデ保安官会議に現場のトップとして参加した。19歳の役職としては明らかに重すぎるが、現場サイドの意見を言わせていただく機会があるのは有難い。
 私は、窓際に用意された席でヘルメットを脱いで着席した。
 議題は、次回の保安官会議への北市と江戸川市の保安官のオブザーバー出席の件、私から自衛隊による千代田掃討戦の進捗についての報告、加えて足立・葛飾制圧戦の進捗について報告を行った。
 質疑に入ろうとした瞬間、私に「隊長、屋上から銃を持ったアンノウン接近中!発砲の許可を!」と隣のビルに待機させたスナイパーより無線が入った。
 私は即座に「撃ち落とせ!」と叫んだ。

 「保安官の皆さん、賊です!急いで部屋から出て下さい!」と叫んだ。

 ギョッとして、何のことだ?とざわめく保安官たち。同じ無線を聞いていた森山保安官は、「銃を持った賊がロープで降りて来ています、早く出て下さい!南市長、早く外へ!」と促してくれた。
 「みんな、早く出よう、私に続いて下さい!」と市長会長として出席していた南市長は、保安官たちを先導してくれた。
 私はヘルメットをかぶり、ロープで降りて来た黒い影に向かってKRISS VECTORをフルオートでぶっ放した。
 別室に控えていた林を始めとする私の部下たちもすぐさま突入してきて、避難誘導に入った。テーブルを盾に戦おうとした私たちだったが、敵も然る者、分厚いガラス窓に対物グレネードを仕掛け、窓を割って侵入して来た。
 私の部下が狙撃に成功して、一人落としてくれた。
 「サスペクトナンバー1、ダウン!」と無線が聞こえてくる。
 私は、森山保安官の盾になりながらジリジリと後ずさりしたが、敵は容赦なく手榴弾を投げてきた。
 (あ・・・終わった!)と死を覚悟した瞬間、林鉄平が、手榴弾の上に覆いかぶさった。
 鈍い爆発音とともに、バイタルゾーンを守るプレートキャリアに天井まで届くかという衝撃波を受けてぶっ飛ばされた林。
 私は侵入者にKRISS VECTORの45口径をたっぷりぶち込んだ。「サスペクトナンバー2、ダウン!」と私は声を張り上げた。
 もう1人の手榴弾野郎は5.56ミリ弾を手足に喰らい、武器を持てないほどに手足をズタズタにされて倒れた。「サスペクトナンバー3、ダウン!」と私の部下が叫んだ。
 私は、勢いよく床に叩きつけられた林に駆け寄った。意識は失っていたが、脈拍も呼吸もあった。私は無線に向かって叫んだ。

 「こちら20メアリー!27メアリー、ダウン!医者を呼んで!早く!」

 私たちのプレートキャリアには、AK47の7.62×39㎜弾を十分に防げるレベル4のプレートが入っている。
 もちろんこれは補佐官殿の選定した装備だ。彼は私たちを指導するにあたり、繰り返しプレートを過信するなと言ってきた。敵の弾道を避け、障害物を駆使して、慎重に獲物を追い込むCQBの戦い方が私たちの本領であり、被弾上等などという特攻戦術は補佐官殿の最も嫌うやり方だった。

 「そんなことしろって教えてないだろう・・・。」私は床にへたり込んだ。

 その頃、足立、葛飾方面司令官のはるかは、金町浄水場を無傷で手に入れていた。金町浄水場の復旧は、私たちの悲願だった。渋谷を含む東京中央部の水道の要となる金町浄水場が確保できれば、渋谷を含む都内12区安全な飲料水を安定供給できるようになる。 
 マークシティはこの大きな成果に沸き立った。まだまだ課題はあるが、この浄水場の奇襲制圧は東京完全復興への大きな一歩だった。

 「自分なら、この浄水場を拠点にして東京フェデレーションと交渉しただろうな。」と不謹慎にもはるかは思っていた。
 (単純に、この浄水場の重要性を理解していなかったか、我々と本格的な戦闘を避けたいという意図なのか。)はるかは、今一つ敵の意図が読めないでいた。

 足立警備保障のメンバーは、ほぼ全員、北千住駅前のルミネに籠城していた。アウルズの名簿から、はるかは彼らの戦力をほぼ把握していた。
 足立警備保証は、リーダーの小宮ナナは、アウルズのナンバー2だった女で、金庫番だった。彼女が会社の資金とともに姿をくらましたのに従ったメンバーたちが、そのまま足立警備保障の主体である。小宮ナナの役割が内務系であったことから、彼女に従ったメンバーは、一応の訓練は受けていても、性格は社長の警護役である「ミョンジン親衛隊」というものに近い。
 そこに入った、保安官会議が襲撃を受けたというニュースは、はるかの思考の最後のピースとして浮上した。
 (他ならぬ私が忘れようとしているけど、あの目白の妖怪の復讐戦はまだ続いている。奴らは私たちにとって現実の脅威であり、戦うためのアセットも恐らく沢山持ってる。とすると、アウルズ残党が、武装して東京の隅で勢力を保つことには、確かに意味がある。敵の敵は味方ということか。)
 そこではるかはコーヒーを啜って目を閉じた。
 (私たちはアウルズ残党討伐を行うためにここまで来た。彼らとしては、武装して勢力を保つ以上の意図は無い。破れかぶれの抵抗を続けさせるより、私たちの側に取り込むのが得策なのでは?)
 はるかの思考は、そこにたどり着いた。

 はるかがこの時至った結論は、この時補佐官殿が渋谷首脳部に話していたことと奇しくも同じだった。秘匿回線を通じ、はるかは渋谷首脳部に連絡を入れた。
 それからはるかは、司令官として有るまじき単独行動を取るようになる。海援隊の知己を動かし、密かにルミネにメッセンジャーを送り込み、小宮ナナを呼び出して、短時間でこの討伐戦を落とすべきところへ落とすための絵を描いた。
 同時に、渋谷首脳部と連絡を取り、綿密なレポートを提出して了承を得た。保安官事務所の部下にも、友軍にも秘密の、はるかの孤独な秘密工作が進行して行った。

 元は自分がミョンジンとの駒込の茶会でスナイパーに狙われたことと、この暗殺は大きく関連している。(元より私たちは後戻りなどできない。特にあの時居られなかった私は、みんなのために戦って戦い抜くしか無いんだ。)とはるかは思っていた。
 
 翌朝未明、北千住のランドマークであるルミネが、文字通り「倒壊」した。現場責任者であるはるかは、東京フェデレーション保安官会議に、爆弾を大量に持ち込んだ足立警備保障による自爆であると報告した。

 これにより、かつて東京大戦争と呼ばれた旧23区の割拠状態は事実上終了した。足立市・葛飾市の創設、千代田旧首都特別市は日本政府の東京復興庁直轄市となった。

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 浜松町事件の後、俺は玉緒に1ヶ月の休暇を命じられた。もちろん謹慎では無く、メンタル面の不調を予防するための調整期間という意味合いが強かった。こういう時、我々は、重大な責任を負っている副保安官たちを使い潰さないよう、檜原村で休暇を過ごさせることが多く、玉緒も檜原に向かった。俺が品川の病院で目覚めた後に分かった話だが、この長期休暇の間に、俺の舎弟分であり、後に婿養子となる檜原村保安官、斉藤文太郎と付き合い始めたのだという。
 彼女の受け持ちだった渋谷中心街は、森山保安官の代理を勤める俺が、一時的に受け持つことになり、副保安官会議のまとめ役は、夏希に引き継がせた。そして浜松町事件の後始末が俺と夏希の仕事になった。 
 
 本件については、高輪ゲートウェイを会場として、自衛隊からは旧千代田区制圧作戦司令官の本庄陸将、荒木参謀長の他、俺と顔見知りの前嶋三佐と副官の下田一曹が出席する話し合いが持たれることになった。
 自衛隊のお歴々に呼び出しを掛ける事態となったのは、単純な話、暗殺作戦の実行犯である4人が現役自衛官だったからだ。これでは陸将が直接出向いて釈明せざるを得ない。
 高輪ゲートウェイを会場に選んだのは、一つには旧港区内の比較的警護しやすい開けた地域だったからだ。港保安官事務所は保安会会議の会場市であり、現役自衛隊員の襲撃で完全に顔を潰された形になった立場上、釈明を聞く権利は十分ある。もちろん屋上からの侵入を許したド素人丸出しの警備は決して誉められたものでは無いにしても。
 渋谷から我々が呼ばれたのは、保安官に隊員と、負傷者を出した唯一の自治体だったからだが、加えて、自衛隊との直接のパイプを持っているのが俺だからというのも大きい。実質的には、自衛隊側から見れば渋谷こそが保安官制度発祥の地であり、東京フェデレーションの要であること、その意味で渋谷の出席は必須だった。
 東京フェデレーション代表として、東京フェデレーション管理者、市長会長の南市長、そして永尾事務局長が出席した。
 本庄陸将から、まず今回の件について正式な謝罪があった。荒木参謀長からは自衛隊内部の調査の結果についての説明があった。しかし、4人の現役自衛隊員がなぜこんなテロ紛いの行動を起こしたのかについて、背景は全く不明という調査結果が述べられ、再発防止策の説明があった。
 東京フェデレーションからは、永尾事務局長より、襲撃犯の生き残りの一人の尋問の結果分かったことについての情報共有が自衛隊に対して行われた。とは言え、武器や装備品の入手経路については完全黙秘。背景について何一つ手掛りは無いまま、旧東京都内の事件であるため、檜原の法廷に公訴提起されるとの報告が為されただけであった。
 (茶番だ)と俺は思った。陸将や参謀長がこの件の背景についてどこまで知っているかは不明だが、「目白の御前」の復讐戦だとするならば、我々の敵にしてみれば自衛隊の非番の一兵卒を動かせば十分目的は達せられるのであって、自衛隊の高級士官まで抱き込む必要は無い。(知らないのだとしたら良い面の皮だろう。)と話を聞きながら、俺は思った。
 「自衛隊内の一部の不心得者による犯行、今後は再発防止に努める・・・で本件は手打ちにするとして、渋谷市からは本件を踏まえての対策についてこの場を借りて申し上げます。」俺が、今後の渋谷市の警備計画について説明を行った。
 「今回の件は、我々の警備の不備を突いて行われたものであります。保安官事務所は火器を持ってパトロールや捜索などの治安活動向きのノウハウを積んできましたし、それが役割でもありました。ところが残念ながら、要人警護については全く別のノウハウが必要です。渋谷では要人警護のノウハウの研究と実践のため、危機管理課を新設いたしました。長期的には東京フェデレーションに成果と組織を全て統合していただく形で調整していきたいのですが、渋谷が先行する形で警備専門家の育成と警備体制の構築を進めていきたいと考えております。そしてこれは恐らく、東京フェデレーションも懸念されることと思いますが、指揮系統の問題がございます。法執行の現場において東京フェデレーションと市独自の執行組織が並立することになります。予め申しあげますと、現状、東京フェデレーション内で、各市の保安官が、議会の承認を得て任官する制度になっております。本市危機管理課長は、組織上市長の直属になりますが、現場指揮においては保安官の下にある体制とご了解ください。」
 「ただ、東京フェデレーションには無い制度であるため、試験的に渋谷が独自の予算措置を講じて進めて行くと、こういう訳だね。」と親父殿が助け舟を出てくれた。根回しもしたが、流石政治家、こういう時はいい動きをしてくれる。
 「ええ、その通りです。」と俺は言った。
 なお、本件については永尾事務局長にも事前に話を通していた。意外にも彼はかなり強硬に反対した。
 「指揮系統をめちゃくちゃにするつもりですか?どうかしている!」と彼は顔を真っ赤にして怒った。
 「理想的な形にするためには、現場での熟練が必要なんだ。そのために渋谷が先行してやっていこうと言うんだ。指揮系統なら保安官の下に一本化するから問題ない。」と俺は説明した。
 「東京フェデレーションの中で、渋谷が全体をリードする立場なのは分かりますが、襲われたのは保安官会議ですよ。東京フェデレーションのイニシアチブで一律に進めて行けば良いじゃないですか!それが出来ない理由でもあるんですか?」
 (本当にその通りだ。)と俺は思った。東京フェデレーション横並びで進める時間的な余裕が無い、なぜなら狙われたのは保安官会議ではなく、森山保安官だったのだと見るのが妥当だからだ。
 森山保安官だけでは済むまい。今後は市長、副市長、成海先生、ドクター矢吹・・・と渋谷五人衆が狙われるのは必定。一刻も早く鉄壁の警備体制を仕上げるのが渋谷の利害であるし、なんなら組織とノウハウの東京フェデレーションへの統合も(悪いな、全部嘘だ。)というのが俺の腹だ。
 しかしこれも全て渋谷と東京の将来のため・・・とは言え、永尾くんは本当に良い奴だし、俺としては出来れば敵に回したくない男だった。
 会議中、永尾くんはずっと渋い顔をしていた。滞りなく終わった茶番の後、俺を捕まえて彼は言った。
 「将来に必ず禍根を残しますよ。」と吐き捨てるような口調に彼の忸怩たる思いが滲む。俺は、すたすたと早足で去る永尾事務局長の背中に向かって「知ってるよ」と小声で言った。

 結局将来に禍根を残すことにはならなかった。俺が表舞台を去った後、渋谷市危機管理課は、はるかの指揮の下、目覚ましい成果を上げることになった。危機管理課長となったはるかが、元副保安官の経歴を活かして、保安官事務所と危機管理課の間を上手く交通整理したからだ。

 帰りの車の中、田町の駅を横目で見ながら、俺は夏希にボソリと呟いた。
 「なぁ、夏希、永尾くんのこと、済まない。お前、彼とは親しかったよな。」
 永尾くんと渋谷との縁は、夏希が新宿に派遣された時に繋いでくれたものだった。脳筋の夏希が、彼のようなインテリと親しくなったことは少し意外の感があったが、それだけに本当に相性の良い二人だったのだろうと思う。

 「いや、根っこは例の件だし、私も当事者ですから。」と夏希は言った。サバサバした口調なのは、自分も復讐戦の当事者だという強い自覚があるからだろう。
 「これはきっと終わらない戦争になる。負ければ俺たち全員にとって命取りだ。本当に困ったことだよ。絶対に負けられないのだから。」
 彼女にはズシっと来る一言だったかもしれない。あの時、俺は復讐戦に反対し、五人衆の会合から外されたのだが、今、俺は彼らの尻拭いをしている。
 「お前、今後永尾くんにこのことを話す時が来ると思うか?」
 「さぁ・・・。」と夏希は言った。

 これははるか婆さんから聞いた話だが、この15年後、34歳で市議となり、保安官を拝命した夏希は、東京フェデレーション事務局長を退任して弁護士となっていた永尾を婿に取る形で結婚し、85歳で死ぬまで添い遂げることになった。
 後に渋谷市長となり、75歳で退任した時、彼女はようやく夫に全てを話したのだという。
 
 「南さんとのことは、ずっと気にかかっていた。彼は、そうか・・・心臓も悪くするわけだな。そうか・・・そうか、そうか。僕のことを気にしてくれていたのか。」永尾くんはほろほろと、静かに涙を流していたとのことだった。
 ああ、俺はもう彼には会えないのだな。
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 渋谷の南部から市境を抜け、海援隊発祥の地である五反田を通過、山手線の大崎駅を横目で見ながら、涼子の運転するメルセデスのRVで、品川へ俺は向かった。随行は涼子のチームである。
 今回の用件は湾岸四市の閲兵式への出席・・・というのが名目だが、この名目は後でついたもので、本当は品川埠頭で部下たちの訓練をする、森山はるか危機管理課長の訓練視察と、品川の病院で療養していた森山保安官と浜松町事件で大怪我をした林保安官補を迎えに行くのが主な目的だった。
 森山はるか危機管理課長が直接指揮する即応チームは、発足当時ほぼ全員がアウルズ残党。FNP90とGLOCK19を制式銃とし、紺の制服に薄手の防弾プレートを着用。彼らには、電子戦や爆発物処理の技術も習得させている。今後、彼ら即応チームは、何度となく渋谷市首脳を危険から救うようになる。この他に、警護の対象となる会場を分析してプランを立てる、チームを持ち、これがはるかのブレーンとしての役割を果たしている。
 森山保安官はすっかり元気だ。一方、林はボディに着用したコルセットがまだ痛々しい。しばらくは内勤だ。
 本当はこれで用事は終わり・・・のはずだったが、それに閲兵式が加わり、いつの間にか主目的としてすり替わったのは、先方の大ボスである海援隊総長の水沢花音の意向だった。
 「どうせ南さんが来るなら湾岸流で歓待しましょうよ。」との彼女の一声で、品川、港、大田、江東の4市長が「イイね~」と、それぞれの兵隊、というか保安官事務所の隊員たちを連れてやって来たというわけだ。随分とノリの軽いやつらだ。
 品川埠頭に到着すると、オーストリア国旗に非常に良く似た海援隊旗が翻っていた。中心には羽ばたくゆりかもめの意匠。
 市毎の隊旗も飜る。羽田空港を擁する大田はジャンボジェット、国際展示場を擁する江東は正面から見た展示場を示す並列に並ぶ2つの逆正三角形、勝海舟の地元の港は咸臨丸、そして坂本龍馬の地元品川は龍の意匠だ。安直な気もするが、俺の地元荒川は太田道灌の弓と矢だし、他ならぬ渋谷がハチ公なのだから、他所の話はするまい。
 水沢によると、海援隊と四市の権限関係がようやく綺麗に整理されたとのことだ。内陸部は四市の管轄、東京湾全体と大井競馬場は海援隊の管轄となり、海援隊は一部事務組合として市とは別組織に、但し四市長が持ち回りで管理者となり、四市の議会議長で構成される組合の議会を持ち、曲がりなりにも民主的な統制を受けることになった。
 「で、水沢さんはどうするの?」と聞くと水沢は言った。
 「名誉管理者・・・ってことになるんだそうで。まぁ引退ね。みんなの就職先は心配無いし、私は天王洲アイルに隠居用の住居を貰うことになってるんだけど・・・ちょっとあちこち旅してみたいかな。そういうわけで今日は私の引退式も兼ねてるの。どうしても南さんに立ち合ってもらいたくて。」
 「カリスマの時代は終わりってことか。寂しくなるが、こんな風にスパっと引いてくれる水沢さんがこの湾岸の女王だったってのはこの人たちには幸せだったかもな。」
 水沢花音、経歴不明、体術と剣術で暴徒から武器を奪って力を蓄え、五反田を拠点にして周辺を平らげ、敵勢力を押し返しながらついに港湾部を抑え、ついに東京湾岸の女王となる。剣術と言えば・・・
 「今日は日本刀持ってないね。どうしたの?」
 水沢はニッコリ笑って、答えなかった。
 
 品川埠頭には海を背に舞台が設えられ、海援隊管理者に就任した江東市長始めとする4市長が下手に、水沢と俺が上手に座った。貨物船を改造した偵察船に四市の旗と日の丸が上がり、ブラスバンドが君が代を演奏。全員が船を向き、左胸に手を当てた。不謹慎にも昔のマンガの「心臓を捧げよ」というセリフを俺は思い出してしまった。
 続いて海援隊管理者である江東市長より功労者である水沢への祝辞が述べられ、水沢の演説が始まった。
 「・・・考えれば、本当に無茶なことをしたと思います。体術と剣術だけでアサルトライフルに立ち向かい、敵を斬り倒し、同志を鼓舞し、武器を蓄え・・・でも犠牲者も沢山出た。敵として私たちが葬った人たちの中にも、もしかしたら話し合えば殺しあわずに済んだ人がいたのかも知れない、そんな考えを自分の甘さとして脇に追いやり、私は刀を振るい人を斬り殺しました。
 その後、米軍と連携するチャンスに恵まれ、渋谷の民主政治の成功例を知り、地域の皆さんが引き受けて下さったお陰でここまで来ることができました。私は今日、剣を私が最も敬愛する武人にお預けしたいと思います。ご紹介します、渋谷市の南補佐官です。」

 段取りも何も無い、紹介された俺は、来賓席から壇上に上がった。

 「ただいま、ご紹介いただきました、渋谷で市長の補佐官をやっております南です。皆さん、初めまして。この趣向には驚きました。私は気の利かない野暮な男ですので、思いがけないことに戸惑っております。・・・渋谷が、渋谷一地域のことだけで手いっぱいだった頃から、湾岸に住む皆さんは、ある意味東京全体の盾となり、東京全体に暴力が広がるのを防いでいてくれていたのだと、その象徴がこの刀なのだと思うと身の引き締まる思いです。本来なら湾岸の皆様の共有財産となるべきものなのでしょうが、水沢総長はそれを敢えて渋谷の私に預けると言う。私なりの解釈として、新しい時代、英雄の時代のケジメとして、この刀は、湾岸地域とは別の場所にあるべきだということなのだと受け取っておきたいと思います。水沢さんにはその代わりじゃありませんが、私がずっと愛用してきたこの私物のハンドガン、SIG SAUER P226をお預けしたいと思います。水沢さん、あなたの時代が終わるなら、私の時代もそう長くはない。水沢さんが銃をお使いにならないのは知ってる。私も剣は使わない。丁度いいと思いませんか?懐中電灯がわりにでも使ってください。」
 俺はガンベルトからホルスターごと銃とマガジンポーチを外し、銃を抜いてライトをチカチカ点灯させた。会場から笑い声が起こった。
 俺は剣を受け取り、水沢は銃を受け取り、固く握手し、会場は拍手に包まれた。
 アナウンサーがプログラム最後の項目を読み上げた。「隊歌斉唱!」
 貨物船の上からピアノが鳴り、海援隊制式の紺のピーコートを着た若い女性隊員が歌い始めた。
 「水沢さん、これ、ワ●ピースの?」
 「ビ●クスの酒・・・ジャンル的に私たちって海賊だしね。あ、南さん、これ大事にするわ。」と早速ベルトに下げたP226を水沢は俺に見せた。
 「ああ、俺もな。」刀を握り締めた。

 俺は式の後、森山保安官と林鉄平隊員をピックアップして、帰り仕度を促した。そこでカレン・ウッズ少佐とトーレス博士に再会した。
 「南、随分顔色が悪いぞ」と言うトーレス博士に、「いや寝不足でね」と誤魔化す俺だったが、しつこく精密検査をしろと言ってくるトーレス博士に、カレンが「新しい銃欲しくない?」とダメ押しをした。ライトとベルトクリップ付きのホルスター、マグポーチに予備マグ1本必須だからな!と言うと、嬉々としてカレンは「すぐ揃えさせるわ!」と出て行った。
 自覚は少しあった。ノリで受けた骨密度測定では頑丈な体であることが証明されたし、同年の男性に比べればはるかに筋力も強い。だが時々心臓に違和感を感じたり、息苦しさを感じることがあった。
 検査には3時間もかかった。精子まで取られたのには閉口したが、少佐がくれると言う新しい銃のことを考えて気を逸らした。
 「南、今日から禁酒禁煙だ!」開口一番トーレス博士は言った。「肺、胃、肝臓、腎臓、膵臓その他内臓全般は綺麗なのに、心臓の冠動脈の石灰化がかなり進んでいる。血圧も高い。本当は君には年単位での休養が必要なんだが。」
 「参ったな。どのくらい危険なんだ。」
 「普通に風邪をひくのも命に関わる、covid-19にかかるようだと極めて高いリスクになる。職務中に心疾患で突然倒れても不思議ではない。」
 「分かった、用心するよ。」

 帰り際、カレンが俺に銃を持って来た。HK45にX300U-A型のライトを付け、サファリランドのホルスターに収まったものだ。そして45口径のダブルスタックマガジン対応のカイデックスマグポーチにマガジン2本。俺の装備の好みを良く知ってくれている。ただ、45口径、俺に使いこなせるものだろうか。
 「大丈夫よ、あなたなら使いこなせる。私だって45口径だからお揃い!」と自分の腰のFNX45を嬉しそうにポンポン叩くカレン・ウッズ少佐であった。

 渋谷で視察団は解散、涼子を伴って俺は斎藤市長に復命し、水沢から預かった日本刀を市長に預けた。この日本刀と、この日俺が貰ったHK45は、俺の愛銃として今厄災資料館で展示されている。ちなみに俺は、この銃をついぞ一度も撃つことが無かった。
 
 勤務時間が終了、マークシティ市長室で森山保安官と林隊員の小じんまりとした復帰パーティが開かれた。
 市長室には、斉藤隊の非番の隊員他、久しぶりに里帰りしたはるかと部下になった小宮ナナ、今日俺に随行した涼子と高橋隊メンバーが数人。
 「森山先生、休養は十分ですね。明日からは議員と兼任の保安官業務への復帰、とても心強く思っています。」斉藤市長は挨拶が板についてる。「林隊員はしばらく現場に出ないで内勤と聞いています。個人的なことで申し訳無いけど、私の娘を守っていただけたこと、一人の母としてお礼を言います、ありがとう。」
 林はとても恐縮した。
 「僭越ながら病み上がりの森山保安官に代わり、危機管理課長の私が乾杯の音頭を取らせていただきます。」スーツの中に目立たない薄手のプレートを着たはるかがコップを上げて「乾杯!」と言った。
 「はるか、管理職が随分板について来たな、立派だぞ!さすが俺の娘!」と少し酒が回って上機嫌な森山保安官、はるかは苦笑いだ。
 笑い声の上がる市長室に、ごめんよ・・・と言って入って来た人物に場が凍りついた。
 「馴柴先生・・・随分急なご訪問で・・・言ってくだされば何か準備も出来ましたのに。」と斉藤市長は笑顔で応対した。
 渋谷では数少ない野党議員、馴柴輝夫、ごく最近、どのルートから毒饅頭を食わされたのか、鋭い舌鋒で、田端でのアメリア・バターンの取り逃がしと目白の御前、川村重徳氏殺害の関連を追及していたが、市長との激しいやり取りの最中、突然彼は矛先を収めた。俺は予算委員会でその様子を見ていたが、違和感を拭えなかった。
 「ウチから取っておきを持って来たんだよ。」と、彼が涼子に手渡したのはヘネシーが作っているナジェーナという珍しいウイスキーだ。「ちょっと、市長と南さん、あなたたちと話がしたかったんだ。」
 「俺の分も残しといてくれよ!」と言って俺と市長は馴柴議員を伴い別室へ。
 馴柴が我々に見せたのは、ハワイで弟妹と暮らすアメリアの写真であった。
 「ここからは私の独り言だ。何も答えなくて良い。アメリア・バターン元フィリピン陸軍特務曹長は、旧北区を拠点とする流しの傭兵だった。それが川村家に雇われ、ムン・ミョンジン暗殺のような川村家の汚れ仕事を引き受けることになった。状況から考えれば川村に、川口市に住んでる弟と妹を押さえられてどうしようも無くなったというところだ。それが突如アメリカ人の傭兵らしき特殊部隊に襲われて弟と妹を奪われた。バターンは恐らく雇い主を変えたのだろう。その雇い主は川村の死を願っていた。その成功報酬はハワイでの暮らしというわけだ。一体誰が?私は、君らが新しい雇い主だったのだと思ってる。4人の副保安官たちと接触した直後に、彼女はそれまでの行動を180°変えたのだから。何せ君たちは米軍とも繋がりがあるしな。いや、答える必要は無いよ。この件は私には最早どうでも良い。」
 驚くほど正確な状況認識だ。俺は馴柴の頭脳の鋭さに舌を巻いた。
 「傭兵で旧豊島区を掌握し、契約終了で離れようとした傭兵を、別の傭兵を使って始末するような御仁はこの東京には相応しくない。言葉は悪いが、くたばってくれて正解だ。奴は墓穴を掘ったのだ、そして私はそんな連中のために道化をやるつもりは無い。私とあなた方は色々あった、今すぐに仲間になろうとは言わない。だが今後渋谷には財産権問題、徴税問題等問題が山積みだ。ここで地獄を見て渋谷を立て直した私たちと、戻って来た新住民という具合に政治の対立軸は大きく変わって行くだろう。意見は言わせて貰うが、そういう括りでは、私は、あなたたちの側だ。今日はそれを言いに来た。」
 斉藤市長は馴柴に右手を差し出し、馴柴は固く握り返した。

 お祝いの会場は、森山保安官がギター弾き語りをして大盛り上がりになっていた。
 「しんちゃん、こっち来いよ!」とご機嫌だ。コップに注がれたヘネシー・ナジェーナを渡された。
 「カズやん、もっと大事に飲めよ、これヤフオクとかだと20,000円とかするやつだぜ!ねぇ、馴柴先生!」
 「昔贈答品で頂いたもので、値段までは知らなかったんだが、そんなにするのか?」馴柴議員は笑った。
 出来上がっている森山保安官を除けば、涼子もはるかも馴柴をかなり警戒していた。馴柴対策で部下には詳細な報告を求め、市の治安維持・危機管理特別委員会では彼の鋭い質問に悩まされ続けて来たからだ。
 「それじゃ、俺も歌おうか。」森山保安官からギターを受け取り、1フレにカポをはめ、林の方を向いた。「本日復帰の林隊員のために、歌います!」
 「プレート着てたら、爆弾でも大丈夫だろって、俺はアテにはしてないさ、してないさ♩」
 俺にとっても相当な懐メロの「男た●のメロディー」という歌の変え歌である。
 「シェリフだったら、流れ弾の一つや二つ、いつでも胸に、刺さってる、刺さってる♩・・・」
 ここで馴柴先生が立ち上がり、ピアノの前に座った。ほどんど即興のように俺の歌に合わせてピアノを弾き始めた。座の全員が目を丸くした。
 「運が悪けりゃ死ぬだけさー、死ぬだけさー♩」と俺が歌うと、ひどいっすよ補佐官殿!と林は泣きそうな顔をした。
 「お前が、この街離れて行く気になったら、俺は笑って見送るぜ、見送るぜ♩」
 キッツいなー、もう分かりましたよ、無茶しませんから!と頭を抱える英雄の林隊員、そして俺のギターと馴柴先生のピアノが走る。
 全員がゲラゲラ笑っていた。
 俺が「運が悪けりゃ死ぬだけさー、死ぬだけさー♩」と最後のフレーズを歌うと馴柴先生はピアノの最後を綺麗にまとめた。

 後に昇任して副保安官となった林鉄平は、この歌を、もちろんオリジナルの歌詞でだが、歌い継いでくれた。流石にその頃には著作権の問題で、海援隊のように、正式に隊歌としてパクるるわけにはいかなかったけれど。

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 202X年4月、南補佐官倒れる、との知らせで私は急遽復帰を早めることとなった。私の傍らには後に斉藤家を継ぎ、私の婿となる木下文太郎がいた。
 私たちは、東京フェデレーションが守る中央道を軽トラで渋谷へと向かった。
 何でも新型コロナウイルス感染症で長期の休みに入っていた隊員の代わりに働き通しだった南補佐官は、ようやく取れた休暇で、檜原村から出て来ていた山形吉之助村長と二人きりの目黒川の花見と洒落込んだものの、その最中に倒れたのだという。

 「きっちゃん、ここが東京を代表する桜の名所だ、どうだい。」
 「しんちゃんよ、檜原の山桜を忘れたか?こんなシケた桜で満足するたぁ、天下の補佐官殿もヤキが回ったな、おい。」大笑いする吉之助。
 「これじゃ連れて来た甲斐がねぇや。でな、きっちゃん、そろそろ頃合いだと思ってるんだ・・・俺は檜原に戻ろうと思う。」

 はっと息を呑み、次の瞬間笑顔になった山形村長。

 「住むところは心配すんな、俺ん家の隣に新宅作ってやるよ。飲んで騒いで楽しくやろうぜ!そうだ、文太郎が斉藤さんとこの玉緒ちゃんとよぉ・・・」

 興奮してずっと喋り続けていた山形村長、言葉を返さない補佐官殿。電池が切れたように、彼が右手に崩れ落ちるように倒れて初めて、山形村長は異変に気付いたのだという。
 最初の診察をした矢吹先生の指示で、南補佐官は品川の米空軍の病院に移された。幸い命を取り留め、麻痺も出ずに南は生還したが、また発作が来るようなら次は無い、今すぐにでも心臓の移植が必要というのがトーレス博士の診断だった。
 母によると、南さんは「これでおしまいか。」と言ったのだという。

 「何よ、バカ!南慎介、私はあなたが死ぬなんて絶対に許さない!私は絶対認めないんだから!」と母は病室で大声でまくし立て、ナースにつまみ出されたそうだ。

 南さんの病室の訪問者の中で、私にとって忘れられない人物は、彼の父、荒川市長の南大介氏だった。私と涼子がその時は側にいたので鮮明に憶えている。
 「ごめんよ、こんなに頑丈に産んでもらったのに、不摂生でダメにするようなバカ息子でさ。本当にごめん。」
 「なぁ慎介、人が生きるってことは、心のままに生きるってことだろう?お前の身体がダメになったのもそうして生きた結果だろうよ・・・だから、それはなるようになったということなんだ。でもな、俺は・・・寂しい。寂しいよ。」
 南市長の深い嗚咽が私たちの胸に響いた。
 「ごめんよ、父さん、本当にごめん。全部分かってる。全部分かってる。ありがとう。」
 「良いんだ、良いんだよ、慎介、もう良いんだ。」

 顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら抱き合う親子。恐らく、南大介氏は、若い頃は、この肉体的にも頭脳にも恵まれた息子に自分と同じ道を進むことを期待していたに違いない。でも、一人の父としては、息子が自分の才覚で、屈辱や欠乏に苛まれることなく生きていてくれたら、それはそれで良かったのだろう。期待外れの息子に期待するのを止めた・・・というよりは、お前が幸せであればそれで良いと、親とはそういうものだということなのだろう。

 提案された心臓移植を頑と受け付けな買った南さん、不摂生で身体壊した俺が人様の心臓で永らえるなんて許されることではない、と頑張っていた。こういうところ彼はとても倫理的だった。しかし、現在設計段階の、メンテナンス要らずの最新の人工心臓ならどうだ?と右斜め上の提案を持ってきたトーレス博士には、最終的に折れることになった。
 まだ試作品すら存在しない人工心臓が開発されるのを待つため、彼はコールドスリープで時間を稼ぐこととなった。残念ながら私は、とうとう目覚めた南さんと再会することは無かったのだけれど。

 恵比寿ガーデンプレイスで大々的に開催された彼の葬儀は、大勢の弔問者をビール飲み放題で酔っ払いに変えた賑やかなものだった。故人の思い出を語ると言い、例の歌を歌った林鉄平、平和な東京に相応しい新しい渋谷保安官事務所の制服は、イタリアのカリビニエリを模した大層美しいものだったが、私には堅苦しく、普段着の上にプレートキャリアの気楽さを懐かしく思った。
 式の最後、美しい制服に身を包み、センター街の戦いを戦い抜いた愛用のM14ライフルを持って登場した涼子は信じられないほど美しかった。恵比寿の澄み切った青い空に向けて撃たれたM14ライフルの空砲は、永遠に響くかと思えた。
 
エピローグ
 Tシャツの上から、ODのプレートキャリアを着込み、サブマシンガンのマガジンを2本、胸にはゆりかもめを中心に据えた丸パッチを付け、腰にはライト付きのグロック17を挿して俺は現場に向かった。
 渋谷保安官事務所は俺がいた頃から、厄介な刑法犯の検挙に報奨金を出し、電子令状を発行して逮捕に向かわせるエージェント制度を採用していたが、長い眠りから覚めた俺は、まず、老いたはるか婆さんからエージェントとしての身分証明書と銃を貰った。武器のメンテナンスは愛梨さんが理事長を務める斉藤財団で請け負うことになっている。
 はるかは俺のために、楽でとても立派な仕事を見繕ってくれたが、俺は賞金稼ぎと私立探偵をしながら、ライターとして生きる道を選んだ。
 渋谷は銃犯罪多発地域ではあるが、俺に言わせればあの頃の渋谷に比べたら・・・おっと年寄りは黙るに限る。
 髪と髭を伸ばし、白髪頭を後ろに一つに束ねた俺は、今は三浦良太と名乗り、「ゴリマッチョの良(りょう)ジイさん」と保安官補たちに呼ばれている。空白の80年を差し引けば、俺は50そこそこの年齢なんだけどな。
 夕方には、マークシティの近所にあるオープンテラスで、渋谷名物檜原豚のホットドックを豆乳で流し込み、松濤地区にあるマンションに帰る気ままな一人暮らしだ。
 その日、非番の保安官補たちがどやどやと入って来てビールを飲み始めた。
 「良さん、こっちで一緒にやろうぜ!」と奥の方から呼ぶ声が聞こえるが、「俺は良いよ・・・」と遠慮した。若い奴らと飲んでたら人工心臓がいくつあっても足りはしない。
 賑わう店内に一人の女が入って来ると、騒いでいた保安官補たちは立ち上がり、敬礼した。呆気にとられる俺を、保安官補の一人が「荒川市長の秘書さんですよ、良さんも敬礼、敬礼っす!」と促す。俺は隊員じゃぁねえんだが・・・と渋々敬礼する俺。
 艶やかな黒髪の、スラリと細身のものスゴイ美女は笑顔で言った。
 「皆さん、お構いなく。今日は曽祖母の思い出の味を食べに来たの。代々木のジェノベーゼって言うらしいのだけど。」
 「おやっさん、代々木のジェノベーゼ大至急!」と保安官補の一人が叫んだ。
 「淳子さんの曽祖母って、センター街のホークアイこと高橋涼子隊長のことですね。」
 「俺たちお写真で見たことあります、すごくお綺麗な方で・・・。」
 「私たち荒川市民にとっては、南涼子市長の印象の方が強いのだけれど。」
 
 (ちょっと待て、涼子が荒川の南市長ってどういうことだ。)

 「ああ~すげ~良い匂い、ジェノベーゼも淳子さんも・・・」
 「もう、嫌だわ・・・」と笑みを浮かべ、「この味は私の曽祖父が曽祖母にレシピを教えて・・・・」

 「お嬢さん、その話・・・ちょっと、南ってことは初代荒川市長の一族ってことで、曽祖母が南涼子さん、センター街のホークアイ・・・で、曽祖父は・・・」
 「南慎介ですが?」と淳子は満面の笑みを浮かべた。
 
 いや、俺、全然覚えが無いんだが。

                  完

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