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問いを『立てる』ということ

さいご 何食べたい? を 問う

あの日 私も 小さな嘘をついた。

『もう治らなくていい』
『ここで死ぬから』
『生きていても迷惑がかかるだけだ』

94歳のおじいちゃん。
酒に溺れた娘と軽度知的障害を持つ孫との3人暮らし。キーパーソンである孫は 物事を理解したり判断したりする事がとてもニガテなようで キーパーソンとしてはかなり頼りない。

この病気で倒れるまで この一家の大黒柱として 必要な判断や決断をひとりでしながら 必死に家族を守ってきたんだろう。戦争を経験しているだけあって 忍耐強く ある意味頑固でもある。

脳梗塞で倒れ 左半身に重度の麻痺と 重度の嚥下障害。口からものを食べることができず 栄養は 鼻から胃まで入れられた経鼻カテーテルから 栄養剤を注入。嚥下訓練を経て 昼食の一食だけ 口から食べる訓練が始まっていた。

いつもニコニコと朗らかで 訓練には意欲的。日中は 時間があるなら 車椅子に乗せて欲しいと訴え 全介助で車椅子に乗車すると 拙劣ながらも車椅子を駆動し 窓の外を眺めたり テレビをみたりと できることをする。新聞を読むのに鼻までズレた老眼鏡が めっちゃチャーミング。 前向きで年齢的な衰えを感じさせないスーパーおじいちゃん という印象。そんな彼が 熱を出した。

X線画像から右肺下肺野の透過性低下
CT画像からは 右肺背側に浸潤陰影が集中

誤嚥性肺炎ごえんせいはいえんの診断。

昼食の一食だけ口から食べる という練習が始まって1週間足らず。練習は中止となり 禁食とし点滴管理となった。

抗生剤を投与すれば 割と早くに解熱が図れるはずなのに  なかなかそうはいかなかった。以前にも誤嚥性肺炎を繰り返しているエピソードがあり 抗菌薬に耐性がついてしまっている可能性も考えられる。加えて 94歳という高齢。老い は 病から回復する力を確実に衰えさせる。

治療を始めて4日目。熱は下がりきらず倦怠感がが続く。肺炎のため 普段より痰も多い。痰を出す力も弱く 吸引が必要となり 吸引すれば 苦しい。楽しみにしていた摂食練習が止まってしまったことで この先を悲観したおじいちゃんが 言ったのが冒頭の言葉だ。

『食べる』ということ

私たちの業界では 摂食嚥下せっしょくえんげ と表現する。

食べたものを 誤嚥しないように 安全に 口から喉 食道を経て 胃まで運ぶ一連の運動をいう。健康であれば 意識しなくてもできるこの運動は 実は様々な神経や筋肉が複雑に作用しあって 成り立っている。

特に重要なのは 食べ物を咽頭いんとうから食道へ運ぶ段階で 食べ物を飲み込む時の「ごっくん」という嚥下反射えんげはんしゃ

この嚥下反射が起こる時は 一時的に呼吸が停止し 鼻咽腔びいんくうが閉鎖し 食べものが鼻に抜けないようになっていて 咽頭収縮いんとうしゅうしゅく舌骨ぜっこつ喉頭こうとうの挙上が起こり食道入口部しょくどうにゅうこうぶが開大する。

この約0.5秒かかるかかからないかという一瞬の間に これだけの運動が起こっていて この一連の運動が上手く作用しないと 誤嚥 につながる。


小さな嘘

「今回の肺炎では 死ねないと思いますよ。」

結果が全てであれば 嘘にはならないのかもしれない。けれど こんなこと 医師だって断言しない。

なんでこんなこと言ったんだろう……。

こんなことでは死なない。
いや、こんなことでヒトは死ぬのかもしれない。

いま 目の前のおじいちゃんは
誤嚥性肺炎に苦しみながら
生きている意味を見いだせずにいる。

そうだよね……
なんにも出来なくなっちゃった って
悲しくなるよね……。

そんなモヤモヤを抱えながら
一生懸命生きてきた このおじいちゃんが
この先をどうやって生きていくか考える。

嚥下訓練をしても口腔期~咽頭期に重い障害があり 劇的な回復は見込めない(口から食べることが誤嚥リスクを高める)こと。
実際 何度も誤嚥性肺炎を繰り返していること。

胃瘻いろうの造設がベターだよね。」
医師がポツリと呟いた。

お孫さんと娘さんに 状態の説明がされた。

説明を聞いて 家族から出た言葉は
『胃瘻って……それって……延命処置ですよね?』

叩き売られた『延命処置』という安い言葉。

そうとも言えるし
そうでないとも言える。

今回の胃瘻造設は あくまでも必要な栄養摂取の手段としての提案である。胃瘻を作らなかったとしても 口から必要量の栄養や水分摂取が困難な状況であるから これまでのように 経鼻カテーテルからの栄養注入となる。これ以上良くならないから といって 栄養剤の注入をしない という選択肢は 倫理上、法律上ありえない。管理の面で言うなら 経鼻カテーテルより胃瘻の方が 断然管理しやすいため 退院後の方向性を決める時にも 選択肢が広がる。

一度救われたら 簡単には死ねない。

おじいちゃんは 意識もしっかりしており 意思の疎通ができる。だからこそ。

生きる ってどういうことなんだろう

おじいちゃんに聞いてみた。
何か食べたいものある??

『蕎麦がいいな。ズズズーって豪快にすすって。』

蕎麦!! 美味しいよね!!
でもね 蕎麦は難しいな、アレ 汁物だし。もっと 食べやすそうで 美味しいもの……なんか思いつかない?

しばらく考えたあと
『孫はプリンが好きなんだ。プリンがいいかなぁ……。』

それか!

必要量の栄養を 口から食べる ということが叶わなくても 食べるものの形態を工夫すれば 舌で少しずつ 味わうことくらいはできるかもしれない。

ひょっとして最期に食べたいのものは
お孫さんや娘さんの笑顔と一緒に
その空間を味わうことなんじゃないか。

自分が食べたいものではなくても ずっと大切に守ってきた娘と孫の笑顔が手の届くところにあれば まずは小さな目標ができる。

これはあくまでも個人的な想像に過ぎない。
答えを探して見つけては 『それでいいのか?』 ということを 問い続けていく必要がある。

対人支援の想像力。
対象をより深く理解して 支援に繋げていくこと。
より想像力を働かせて その人のこれからを考える。


こちらの想像を 押しつけてはいないか。


だからこそ 問う。
問う という作業を ひたすら繰り返す。

専門職として 何ができるのか


私たちの仕事は 24時間止まることなく流れる仕事であり それは ひとつのチームで行う仕事である。だからこそ 誰も答えを知らないなかで 対話を通して向かうべきゴールを探りあてていく必要がある。

回復に向かう患者さんなら
ゴールは設定しやすい

けれど 
終わりが近づく患者さんのゴールは何なんだろう。

ここで『私たちに 何ができるか、何をすべきか』ということを 問う。その作業を通して 丁寧に生活史を振り返ったり ひととなりから感じるものから 何か大切なものを見つけ出すことができるのではないか。そしてそれを様々な角度からみつめる。終わりが近いからこそ 何かしらできることはあるのではないか。

それは資格を与えられた者だからこそ 考えられること。私たちの仕事は リハビリ職とは違い 専門性が分かりにくい。医師の指示のもと療養上の世話をする。その中で 医学的知識に基づくアセスメントができるはずで 注射や吸引 といった テクニックを使う ことだけではないはずなのだ。

そもそも
問いを『立てる』とは
どういうことなのか。


私が調べた
問いを『立てる』ということについて。

ある人は
「理想と現実のギャップを定義する作業」

ある人は
現状を理解し あるべき姿(目標)を明確にして その差(ギャップ=問題)を埋めるための道筋を組み立てて提示する という「プロセス

ある人は
認識の固定化と関係性の固定化。この固定化された認識と関係性を「揺さぶり 編みなおす

ただ『問う』というだけではなさそう。
……なんか難しいよ (汗)。


とりあえず いま できること。

患者さんに話を聞くこと
そのご家族に話を聞くこと
何かに気づくこと。仮説を立てること。
なにかアクションを起こすこと。
結果を確認すること。
それらをまた チームの中で 対話を繰り返しながら熟成させること。

失った希望を 新しく見つけ出すこと。大切にしているものを失わないこと。その人らしく生きること。それらを考えながら 次に繋げること。

これらは きっと 私たち医療・福祉に携わる職人にこそ できる仕事なんじゃないか。 

この先 そう遠くない未来に AI が ある程度の知的な単純作業を担うようになるだろう。ある程度の問いの答えも ある意味簡単に導いてくれるのかもしれない。けれど 気づく問う という作業は 心を持つ人間だからこそ できることなのではないか…なんて思うんだよね。

生きる とはどういうことなんだろう。

問いを立てる というには
まだまだ未熟な私の
問い探しは 今日も続いている。


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今日は
私の大好きな
みなさんも大好きな
あの人の誕生日。

先日 拝読した彼女の記事に心を打たれた記念
私も なにか書いてみたくなって
いま書けることを 書いてみました。

エピソードの部分は
書いててなんか涙出ちゃってさ。
最近 涙腺弱いの、あかんよね。歳だな(笑)

お読みくださり ありがとうございました。