父の眼鏡

 父が死んだ時、私はまだ中学生だった。その日、私は学校を早退して、母の車で病院へ向かった。隣に座る姉も運転している母も、一言も会話をしなかった。母はいつも身なりに気を使う身綺麗な人だったが、ミラー越しに見る母の顔は化粧っ気がなく憔悴しきっていた。隣に座る姉は、ずっと窓の外を眺めていた。長い髪が姉の横顔を隠す。私たち姉妹は、仲が良かったと思っている。けれど、その日だけは姉が何を考えているか全くわからなかった。


 父は数年前から体調を崩していて、市街地の病院に入院していた。かわいらしい花屋やケーキ屋が近くにある大きな病院だった。耳鼻科、外科、内科、小児科、呼吸器外科、循環器内科、脳神経外科……。エレベーターを待ちながら難しい漢字が並ぶフロアマップを指でなぞっていた。

 二週間に一回、母や姉と一緒にお見舞いにいっていた。父の病室は、真っ白な箱のようだった。真ん中にベッドがあった。枕元には小さな台があって、カードを入れたら見ることができるテレビと、そして眼鏡が置かれていた。

 元気な父を、あまり覚えていない。中肉中背で、細い銀のフレームの眼鏡をかけている、見た目は普通のサラリーマンだった。ただ、性格は神経質な人で、自分の中にある規律を、ぴったりと守る人だった。毎朝同じ時間に起きて、同じ電車の同じ車両に乗る。火曜日には必ず決まったワイシャツを着る。生活の中に規律を作り、神経質に守り続ける父の姿を見て、母はまるで電波時計のようだと笑っていた。けれど、入院をすることになってから、起きる時間も、眠る時間も、不規則になってしまった。母が見舞いに来ても、眠ったままだった。父が母の名前を呼ぶ姿を、もうずっと見ていない。仲が良い夫婦だったはずなのに。病人だから仕方ないと思う反面、どうして母が来ているのに寝てばかりいるのだろう、と理不尽な苛立ちを感じていた。


 父は病気になってから随分と人が変わってしまった。病気になってしまったことに対しての不安や、もともと神経質だった性格も相まって、入院生活が肌に合わなかったのかもしれない。大部屋だったのが個室に変わったのも、同じ部屋の患者とそりがあわなかったからだった。家族が見舞いにきても口を聞かないこともあった。それでも母は、父に寄り添うように病院に通い看病していた。段々と変わっていく父の姿を見るたびに、私は姉や母の反応を伺っていた。いつしか姉が父に向ける目が虫を見るようになっていった。ある日、学校帰りに見舞いに行くと、父が「痛い」と叫んでいた。痛い、痛い、痛い。頭の奥が、冷めていくのを感じた。隣にいた姉が、あの虫を見るような目で、父を見ている。

「お母さんの名前は呼べないのに、痛いは言えるんだね」

 姉の唇をじっと見ていた。

 姉も、私も、それが仕方ないことを知っていた。母がいないことが唯一の救いだった。

 結局、私たちは、父の死に間に合わなかった。車で病院についた時には、父はもう事切れていたらしい。ベッドの上で寝ている父は、母の名前を呼ぶこともなければ、痛いとも言わなかった。父が死んだというのに、どこかほっとしていた。母は憔悴しきった表情で、医者と二人で何かを話している。姉の表情を覗いても、口元まで巻かれたマフラーのせいで、奥にある感情を伺うことはできなかった。

 父の葬式まではめまぐるしい日々だったが、葬式の最中は暇なもので、真っ白なスタッキングチェアに座り、じっと葬式が終わるのを待っていた。お坊さんがあげるお経を聞きながら、祭壇の上に飾られた遺影を見ていた。使われている写真は、父が病気になる前のものだった。銀色の細いフレームの眼鏡をかけていて、気難しそうなシワが、目元や口元に深く刻まれていた。それは、私の記憶の中にいる父だった。病床にいる父は、眼鏡なんてかけていなかったから、なんだか久しぶりにその姿を見た気がする。お焼香の時に白い棺桶の中にいる父の顔を見た。記憶の中の父とは、別の人間のように穏やかだった。姉に目を向けると、姉もじっと父の顔を眺めていた。なぜか、しきりにスカートのポケットを気にしていた。

 そういえば、あの眼鏡はどこにいってしまったのだろうか。

 葬式が終わったあと、私たちは思い思いに副葬品を入れた。花や手紙や写真が、父と一緒に燃やされることになった。そこでも父の眼鏡を目にすることはなかった。斎場で父の火葬を待つ間、控え室に通された。畳の部屋で、机の上に茶菓子が入った小皿が置いてあった。母は必死に僧侶や親戚をもてなしていた。親戚は思い思いに、父のことを話していた。何をしたか、どういう人間で、どんな仕事をしていたか。死に際を見ていない彼らが語る人物は、記憶の中にある病気になる前の父そのものだった。彼らの話しに耳を傾けていると、安心してきた。私が知っている父の姿が、幻ではなかったと言われているようで。

 私の隣にいた姉は、唇を結んでじっと座っていた。父の体調が悪くなってから、姉が何を考えているかわからないことが増えた気がする。姉が茶菓子を取ろうと身を乗り出した時、制服のポケットから、銀のツルがちらりと見えた。

「お父さんの?」

 思わず口を滑らせた。姉はしまった、という顔をしたあと諦めたようにハンカチに包まれた眼鏡を、ポケットから取り出した。銀色のフレームの、細身なデザイン、度がきつくて、レンズがフレームからはみ出している。父のものだった。

「棺に入れなかったの?」

「眼鏡は入れられないの。ドロドロに溶けて、棺や骨にくっついちゃうから」

 華奢なフレームが、蛍光灯の光に反射する。この眼鏡が、棺の中で溶けるのを想像する。花や、写真や父の身体が燃えてゆく中で、眼鏡だけが溶けていく。分厚いレンズが溶け、父の骨や、棺にべたりとくっついていく。

 斎場の職員が、私たちを呼びに来る。姉は父の眼鏡をポケットの中にしまうと、まるでなんでもなかったように立ち上がった。


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