【聖書を読み解く その3:旧約聖書とは何か】


ISILの話を聞くと、惨憺たる思いを抱く。
彼らは何百、何千人もの人々をその手で虐殺し、神の国を造っているのだとのたまう。
国境の概念や盲目的な律法への服従の概念を超えたところにイスラム教のイノベーションがあるにも関わらず、彼らは、自らのクビを自らの手で締め続けている。
それは、パレスチナを占領しているイスラエルにも言えることだ。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つは「アブラハムの宗教」と呼ばれ、現代ではインド、アジア地方の少数の信者も含め、世界中のほぼ全ての国で、アブラハムの宗教のいずれかが信仰を集めている。
このうち、キリスト教はユダヤ教から生まれた兄弟のようなものだ。
そして「身内こそ最も憎しみ合う」という言葉通り、この三つの宗教は、聖書に書かれた言葉をどのように解釈するかをめぐって、文字通り血で血を洗う骨肉の争いを続けてきた。

ところで、イエスは死ぬまで、自分はユダヤ教徒だと考えていた。
従って、イエスとその弟子たちは、いわゆる「旧約聖書」を聖典とみなしていた。
もちろんユダヤ教徒は「旧約」とはつけず、単に聖書、トーラー(律法)、タナハ、もしくはミクラー(朗誦するものという意味。イスラム教のコーランと同じ語源)と呼ぶ。

ユダヤ教聖書の原型が成立したのは、いまから2,500年ほど前のこと。
使われている言葉や語句などの研究結果によれば、すでに紀元前10世紀頃には「神(ヤハウェ)」について書かれた書物が存在していたところへ、紀元前5世紀頃に書かれたモーゼ五書を中心として聖書の形にまとめたものである。

天地創造と部族長の歴史が記された創世記、モーセと神との契約について記された出エジプト記、律法について細かく記されたレビ記と民数記、神との契約の再確認について記されている申命記、そしてイスラエル人と呼ばれるようになった彼らがカナンの地パレスチナに攻め込んでこれを攻略するヨシュア記があり、士師記、サムエル記・・・と、ユダヤの建国と歴史が綴られていく。

これらの中でユダヤ教が最も重視しているのは、イスラエル人としてのアイデンティティが描かれている、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の、いわゆるモーセ五書である。
それぞれの書を誰がいつ記したのかについては諸説あるが、最初にこれらの五書を一つにまとめたのは、アケメネス朝ペルシア帝国の官僚エズラであったとされる。
当時ユダヤ人たちが住んでいたエルサレムは、新バビロニア王国ネブカドネザル2世による侵略を受け、そのほとんどがバビロンへ連行された。史上有名な「バビロン捕囚」である。
その後、アケメネス朝ペルシア帝国の王キュロス2世が新バビロニア王国を滅ぼすと、バビロンに囚われていたユダヤ人達を解放し、エルサレムへの帰還が許された。
この時、自分自身もユダヤ人であったエズラは、キュロス2世の勅命を受け、エルサレムに住むユダヤ人が守るべき法律としてそれまで口伝で伝わっていたモーセとヤハウェの契約を再構成した。これが、モーセ五書の原型である。
その後ユダヤ教のラビ(司祭)によっていくつかの修正と書物の追加がなされ、現在のユダヤ教聖書が形作られることになった。

こうして成立したユダヤ教聖書は、イスラエル人が辿った歴史と複雑に絡み合い、分量も多く、さらに悪いことには日本語訳が拙い事もあって、なかなか内容を理解するのが難しい。
しかし、実は、聖書が伝えようとしているメッセージはとてもシンプルなのである。

それは、「もっとも虐げられている人こそが神の救いを得る」ということだ。

最初に神と契約を交わしたアブラハムは、一族を連れて流浪の旅にあった。今で言えばジプシーである。アブラハムが生きた古代メソポタミア時代は、牧畜狩猟から農耕民族へと変貌を遂げつつあった時代であり、固有の土地を持って農耕を行なっていた人々からは、最も嫌われ、疎まれていた存在だった。
モーゼは、王族として育てられた自分がヘブライ人の出自であることを知り、ヘブライ人の奴隷に虐待を与えていたエジプト人を殺害して追われる身となった。そして、追われる身となってはじめて、神からの救いを得ることになった。
反対にダビデは、羊飼いとして、流浪の民として生まれたときには神からの庇護を得られたが、後に王となり、権勢を誇るようになると神の寵愛を失った。

そう、旧約聖書で一貫して描かれていることは、「神は、社会から虐げられた人を救う」ということ。ユダヤ教における選民思想の原点はここにあるのだ。
そしてイエス自身もまた、ユダヤ社会においては虐げられ、最も貧しい人たちの一員だった。
彼は、その困窮した人生を送りながら、同じように虐げられている人たちに涙し、共感し、このようなことを放置している社会に対して怒りをぶつけ、最期は反逆者として処刑される。

ここに、ユダがイエスを裏切った哀しい理由と、その後に語られるイエスの復活の真実が隠されていた。