【聖書を読み解く:ヨセフとマリアが受けた差別とは】


つい先日、かものはしプロジェクト村田さんから、カンボジアでは人身売買によって売春宿に売り飛ばされた子どもたちには、たとえ助けだされても帰る場所がなかったという話を聞いた。

それは、人身売買であったとしても穢れた事を行なったがゆえ、村人たちから受け入れられないからだそうだ。

その話を聞いた時、マリアがイエスを身篭ったときの話を思い出した。

イエスの母マリアは、夫ヨセフとの婚約期間中に突然子どもを身籠る。
聖書では精霊の仕業と表現されているが、当時の人たちは、そうは見なかった。貞操観念が非常に強かった当時のユダヤ社会にあって、結婚前に子どもを身籠ることは大変なスキャンダルであったのだ。
時代背景からして、マリアが、婚約者ヨセフではない、他の好きな人と子どもをつくったということは考えにくい。マリアもその母親も、最後まで何も言わなかったというから、おそらく、当時パレスチナ一帯に駐留していたローマ帝国の兵士に無理やり襲われたものではないだろうか。

カンボジアで起きたそれと、同じことが、2,000年前、マリアの身にも起きたことは想像に難くない。

ヨセフとマリアは、マリアの生まれ故郷ナザレに住んでいたが、しばらくしてローマによる国勢調査が行わることになった。

人口登録のため、身重のマリアはヨセフと共に、ヨセフの生まれ故郷ベツレヘムへ向かうが、ベツレヘムで産気づく。そして宿屋には泊まれなかったため、馬小屋でイエスが産まれた。

ここで、疑問がわいてくる。

ヨセフの両親が生きていたかどうかは分からないが、折しも国勢調査の人口登録のため、ヨセフの親戚、知人、友人たちも、たくさんベツレヘムにいたはずだ。
だが、彼らの身内でもあるヨセフと身重のマリアのために、誰一人として家に泊めてあげようという者は現れなかった。
マタイの福音書とルカの福音書では「彼らのためには場所がなかった」と書かれているだけだが、宿屋が混んでいたという記述もない。
つまり、マリアのお腹の中の子どもはヨセフの子どもではないという事が、ヨセフの生まれ故郷の人たちの間でも広く知れ渡っていて、彼らはいわゆる村八分にあっていたという事ではないだろうか。

イエスはこうして、差別の中に産まれた。
その後も、極貧とまではいかなくとも、非常に貧しい家庭で育っている。
この観点からあらためて聖書を紐解くと、これまでとは違うイエス像と、新しい聖書のメッセージが浮かび上がってくる。