週刊文春掲載の記事について

【はじめに】

ご理解いただきたいのですが、私は既に女優を引退しております。
二度と女優に復帰するつもりはありませんし、このようなことで注目を集めて名を売りたいなどとは考えていません。
記事の内容から、私が誰であるか容易に特定されることは承知しておりますが、私の名前や画像を拡散することはおやめください。
映画公開時、私の家族はとても傷付きました。
私自身はこの事件の後精神のバランスを崩し、今もフラッシュバックに苦しんでいます。
私は女優ではなく家庭を持つ一人の女性であるということをご理解いただき、家族の人生を守るためにご配慮頂きたくお願い申し上げます。


また該当シーンに出演されていた俳優さんのお名前を挙げることもおやめください。
その方は事件当時控え室に居られましたので何も見ておられません。


その上で、私がなぜ週刊文春の取材を受けたのかということですが、相次ぐ性被害の告発報道を受け、先に声を上げられた女優さんたちを孤立させずに後に続いていくことが、こういった告発を個人の出来事として終わらせず、社会問題として発展させる上で重要だと考えるからです。


これまでにも被害を告発した女優(女優に限らず全ての男性・女性)はいましたが、ひとりが勇気を出して被害を訴えても、個人の問題として有耶無耶にされ、 握りつぶされ、告発した被害者だけが傷つき終わってしまうということが続いてきました。


それが今、被害者からの告発が続いていることにより、数の力によって、無視できない大きな社会問題へとなりつつあるところです。


私は加害者を糾弾して私怨を晴らしたいのではありません。
一加害者を糾弾し、それで終わってしまうのではなく、事件が起きた背景、加害者が生まれた背景について理解し、二度と同じ過ちを繰り返さないこと、新たな加害者、被害者を生み出さないことが重要である、その為には「性加害」「ハラスメント」について世の中に広く関心を持ってもらうことが大切である、との思いから、私自身の告発を決めました。


映画業界だけでなく、社会の風潮、時代の空気が変わり、このような被害が世の中からなくなることを心から望んでいます。





【なぜ事件が起きたのか】

まず、オーディションより前に事務所との間に「バストトップが露出されるヌード」のある作品には出演しないという契約があり、その前提の上でオーディションに参加していました。

※この文章中での「ヌード」というのは、「バストトップが露出されるヌード」を意味します。


この時点では、事務所と制作サイドの間で、露出に関する明確な取り決めはなされていませんでした。


マネージャーはクランクインより前にXプロデューサー(記事に登場するプロデューサーとは別の方)にNG事項について伝えており、このことは、マネージャー・Sプロデューサー(記事に登場するプロデューサー)との話し合いの席で、Xプロデューサー本人が認めています。


オーディション時も含めて、撮影の瞬間まで一度も監督からもプロデューサーからも「ヌード」に関する明確な説明はありませんでした。


該当シーン撮影当日、スタッフには絵コンテが配られていましたが、私とマネージャーには配られず、カメラが回る瞬間まで私は「ヌード」になることを知らされていませんでした。


撮影直前に、スタッフが絵コンテを持っていることに気づき、コンテを見せてもらうと、下着を外すという表現があり、マネージャーがXプロデューサーに確認するために現場を離れました。


マネージャーが席を外している間にリハーサルが始まり、ニップレスを付けたまま簡単な動きの確認をした後に、本番の声がかかり、マネージャー不在、露出に関する不明点が解決されないまま、衣装係に「ニップレスを外すように」要求されたので、「とにかくマネージャーを呼んでほしい」と要求しました。


この時点ですでに本番体勢に入っていてカメラを回すところだったので、それを止めたことにより、現場は混乱し、パニック状態に陥りました。


Sプロデューサーの指示でその日の撮影は解散になり、Sプロデューサー・Xプロデューサー・マネージャーの三名で話し合いが持たれました。


話し合いは夜遅くまで続き、監督が参加し、「編集時に、事務所とA子さん本人にも参加してもらい、不都合なシーンは申し出てくれればカットするので、明日は絵コンテ通りに撮影させてほしい」との発言がありました。


この発言を受けて、翌日に該当シーンの再撮影に応じました。


撮影後、編集に関して連絡がないまま試写会当日となり、約束に反して「ヌード」シーンがそのまま公開され、編集を求める交渉には応じられませんでした。



私はこの件について、

・「ヌード」シーンの撮影はNGであるという明確な契約がありながら、制作会社に対して確認を怠った所属事務所

・事務所からNG事項を聞いておきながら対処しなかったプロデューサー

・後日、私も立ち会いのもとで編集すると約束したのにそれを反故した監督、制作会社

・一連の流れを知っていながら対処せず公開に踏み切った配給会社のプロデューサー

全てが加害者だと思っています。


そして、「ヌード」という人間の尊厳にも関わる重要な事柄が、事務所と制作サイドの間で契約書が交わされることもなく、明確な取り決めもないまま口約束で進められる、業界の慣習に問題の根があると考えています。


俳優は通常、今後の仕事に影響することを恐れて事務所や制作会社を訴えたりしません。
何か問題が起きても泣き寝入りするしかなく、事務所も制作会社もそう考えているので、脅せばなんとかなるという空気が漂っています。
そのため、一般社会の常識から逸脱した劣悪な労働環境の中で、ハラスメントが蔓延しています。


また、俳優(俳優に関わらず立場の弱いスタッフ)を守る中立的立場の第三者機関なども存在しなかったため、立場の弱い者が一方的に搾取される図式が成立してしまい、それを咎める者がおらず、問題を訴え出ようにも訴えるところがないという状況が続いていました。


私のケースでは、事務所も制作会社も、私が弁護士を立てるまで、本気で取り合ってくれませんでした。
制作会社に至っては、未だに自分たちに落ち度はないと主張しています。
彼らは自分が「加害者」であるとは認識していないのでしょう。
しかし、撮影現場という閉鎖的な空間で、立場の弱い者に対し、複数の人間が長時間に渡り撮影に応じるよう、威圧して説得するという状況は明らかなパワーハラスメントであり、脅し、強要です。


この時の心境は映画の撮影現場を知らない方には伝わりづらいかとは思いますが、映画の制作には莫大な資金がかかっており、撮影というのは時間との戦いで、日照時間、撮影場所の使用許可時間、スタッフ、キャストのスケジュール等が絡み、時間の損失はイコール金銭の損失で、実際にプロデューサーから「1日撮影を止めるのは300万円の損失」という言葉が出ています。


こういった事情の上で、通常、一俳優が撮影を止めるというのは有り得ないことで、私が撮影を止めた時には、現場は騒然とし、怒声が飛び交い、緊迫した異様な空気になりました。
現場には数十名のスタッフがいましたが、誰も私を庇うようなことはなく、誰も私と目を合わせませんでした。


事務所と制作サイドの行き違いで起きたことですが、両者とも責任を取ることはなく、「A子を説得する」ということに終始していました。
私は脅しに屈すると思われたくないので、毅然としていられるよう努めましたが、手足の震えが止まらず、歯がカチカチ鳴るのが止められなくて、過呼吸を起こしました。涙が止まらなくて悔しかったです。


話が違うので役を降りたいと申し出たかったのですが、この時点ですでにあらかたのシーンを撮り終えており、今更降板すれば何千万という損害が出るので、それが不可能なことはわかっていましたし、私が撮影に応じると言うまで帰れないこともわかっていました。


こうした状況の中、監督の「後日、編集時にA子本人立ち会いのもと不都合なシーンはカットする」という言質を取った上で、これ以上撮影をストップすることはできないという職業上の責任感から撮影に応じただけであって、断じて「ヌードの公開」には応じていません。


撮影に応じる以外に選択肢がないのでやむを得ず了承しましたが、数十名のスタッフの前で脱がされ、撮影されることには耐え難い苦痛を感じました。




所属事務所社長には、制作会社との交渉が拗れると、「後で騒ぐくらいならヌード撮影をさせなければよかった」「そういう作品に出なければいいのに」と言われました。
私が弁護士を通して内容証明を送った後で、「A子と所属事務所の間にはヌードにならないという明確な契約があったにも関わらず、制作サイドに対して確認を怠った結果、A子が契約に反する撮影を強いられることとなり、精神的苦痛を与えたこと」に対する謝罪の言葉があったので、私はこれを受け入れましたが、私が弁護士を通じたアクションを起こさなければ有耶無耶にされるところでした。


制作会社は当時から一貫してこの件は所属事務所側の落ち度であると主張し、「撮影開始前にA子の担当マネージャーからプロデューサーに対してNG事項の申し入れがあったにも関わらずこの確認を怠ったこと、監督が『撮影後にA子本人立ち会いのもと、該当シーンを修正する』という約束を破り、試写会でヌードシーンを公開し、精神的苦痛を与えたこと」に対する謝罪は、今日まで一切ありません。
また、 私がここまで「ヌード」シーンの削除に拘った理由は、一番は家族を傷つけたくないということでしたが、「俺たちはA子の家族と仕事をしてるんじゃない」と吐き捨てられたことは一生忘れません。


監督に対しては、私がどれだけ傷ついているかきちんと伝われば心情を汲んでくれるのではないかと思い、直接話したいと何度も申し入れ、演出上ヌードになることが不可欠だというのならその演出意図を本人から説明してほしい、該当シーンを編集するという約束を反故したことに対する説明をしてほしいと求めましたが、今日まで返答はありません。


現場にいたスタッフは、私が怯えて泣きながら過呼吸を起こしているのを見ていましたが、誰一人助けてくれる人はいませんでした。
彼らが立場上何もできないことはわかっているので責めることはできませんが、この時の恐怖と絶望感は言葉では言い尽くせません。


彼らは自分たちがしたことの重大さ、こんなことがまかり通ることの異常さに気づいていないでしょう。
これが異常な事だと気づいていないこと、それこそが認知の歪みであり、問題の本質なのです。
彼らにとってこの件は「この業界ではよくあること」であり、自分たちは「作品のためにベストを尽くした」「自分の仕事を遂行した」という認識なのでしょう。


そしてこの業界に関わる多くの人が彼らと同じように考えているからこそ、歪んだ集団心理によって、このような事件を起こし、そのことに誰も疑問を抱かず、隠蔽し、加害者をのさばらせ、被害者が闇に葬られてきたのです。



なぜ当時黙っていたのに今になって言い出すのか、ということについてですが、当時事件が公になれば、興味本位で該当シーンを見ようとする人、拡散する人が出てきて、被害が大きくなることが予想出来たからです。
監督、制作会社、配給会社は作品を一人でも多くの人に観てもらいたいでしょう。
それがどんな動機であってもです。
強制的に映像を差し止める法律がない以上、騒げば騒ぐほど、観られたくないものを宣伝し、加害者は得をし、私は二次被害を受けることになるのが明らかだったからです。





【事件の後】

事務所も制作サイドも信用できないので、映像を差し止めるため、個人的に、業界の先輩に助言を求めたり、弁護士や病院を紹介して頂ける方に相談したりしました。
この時にお世話になった方々には本当に感謝しています。


ただ、辛かったのは、一部の人に「なぜ撮らせたの?」と言われることでした。
「撮らせなければよかったのに」「自分が撮らせちゃったんだからもう仕方ない、気持ちを切り替えなさい」「女優なんだから」「意外とメンタル弱いんだね」「まだ言ってるの?しつこいね」と笑われたこともありました。
悪意なく発せられた言葉であり、私を元気づけるために言ってくれたのかもしれません。


それでも私はこの悪気のない言葉たちに心を抉られました。
図星だからです。誰よりも私自身が一番「なぜ撮らせたのか」と思い続けているからです。


このことについて考えないようにしようとしても、四六時中頭から離れず、自分はどこで何を間違えたのか、何をすべきだったのかと永遠に自分を責め続けました。
考えても意味のないことだとわかっています。
私は然るべき手続きを踏んだ上で映画に出演しており、私に落ち度はなかったことは法律上も証明されています。
しかし、頭ではわかっていても、自分がしなかったこと、選ばなかったことが心から離れないのです。
自分を守れなかったことで自分を信用できなくなり、自分を許せず、恥と自己嫌悪と罪悪感でいっぱいで、そのことが何よりも辛いのです。


映画が公開され、何も知らない人達は「映画観たよ」と言ってくれました。「脱いでたね!」「びっくりした!」と言われることもありました。


何を言われても笑顔で対応しました。
自分の仕事に誇りを持っている、という態度を演じました。
脅されて不本意に脱がされた馬鹿な女優だと思われることは耐え難かったからです。


誰にも心の内を明かすことはできない、誰にも理解されることは無いのだと思うと、被害妄想気味になり、人と距離を置くようになりました。
そのうちに、ひどく無気力になり、処方薬とアルコールに依存するようになり、入退院を繰り返しました。


これ以前に出演が決まっていた作品や公開前の作品もいくつかあり、すぐに仕事を辞められる状況ではなかったので、他の事務所に引き受けてもらい、通院しながらなんとかこなしていました。
並行して、派遣会社に登録して働き始めたり、喫茶店でパートを始めたりして、社会復帰も目指し、少しずつ落ち着いた生活を取り戻していきました。


しかし、今、この事件を蒸し返すこととなり、私は当時の精神状態に逆戻りしました。
当時の記憶が蘇るとともに、この問題が公になることで想定される二次被害のことを考えると恐怖でパニックを起こしました。
夫は非常に怖がって、もうこの問題には関わるな、忘れろ、今更何のために君がリスクを負って告発しなければならないんだ、と言います。
夫の言うことはもっともです。
この問題を蒸し返すことで、一番傷つくのは私自身だからです。
この件を蒸し返すことで、面白半分に私を特定し、該当シーンを見ようとする人が出てくるでしょう。
ネットに画像を拡散する人も出てくるでしょう。
家族も辱められるでしょうし、友人たちは私とどう付き合えばいいのかわからなくなるでしょう。
自分がそういう二次被害に耐えられるのか私にはわかりません。





【考えてほしいこと】

これが性被害を受けるということなのです。
告発すれば、自分自身が傷つくことになるから、告発できない。
だから被害が明るみにならず、世の中に性被害の悲惨さが伝わらない。
あっても無いものとして世の中から無視されているのです。


二十年前には飲酒運転をしている人がたくさんいました。
上司や同僚、友達が飲酒運転をしようとしても止められる人は少なかったのではないでしょうか?
でも今は飲酒運転を止められる、通報できる雰囲気があります。
なぜでしょうか?飲酒運転によって命を落とした被害者のご遺族が声を上げたからです。それによって社会がその悲惨さに気づいたからです。
社会がそれは悪い事だと気づいたからです。
煽り運転も同じです。
被害者が悲惨さを訴えたから社会が動いたのです。


十五年前には家庭内暴力に警察が動きませんでしたし、被害者自身が警察に助けを求めていいことなのだと思えない時代でした。
でも今では配偶者であれ親子であれ身の危険を感じれば通報することができます。
ストーカーや盗撮やリベンジポルノが犯罪だと認知されたこともそうです。
ひとりひとりが声を上げたことによって社会が変わったのです。


現在の日本でデートレイプが犯罪だとどれだけ認知されているでしょうか?
被害者へのセカンドレイプとはどういうことかどれだけの人が認識しているでしょうか?
性被害に合うということの悲惨さは、被害者が声をあげづらいことによって黙殺されてきました。
そのため社会全体における性加害への認識が甘く、加害者が罪を認識していないという問題があります。


これまでに被害を告発された方々の件でも、「加害者」は自分が「加害者」であると認識できていない、事の深刻さを受け止めていないような発言が見受けられました。


被害者を貶めるようなことを言う人たちは、その行為が「セカンドレイプ」であり、「性加害」であるということを認識しているでしょうか。


性被害を告発することがどれだけ勇気のいることかを考えてみてほしいのです。
加害者が誰であれ、性被害を告発すれば、その女性はその瞬間から「性被害者」になってしまうのです。
自分自身が「性被害にあった女性」として人の視線に晒されること、家族を「性被害者の家族」にしてしまうことを怖いと思わない女性がいるでしょうか?


これは映画業界という狭い世界だけの話ではありません。
私が自助グループで出逢った女性たちの殆どは学生や一般企業にお勤めしている女性で、上司や同僚やデートの相手から被害を受けていました。
立場を利用した性加害というのは、映画業界という特殊な世界だけで起こることではありません。


私は現在の日本の法律の性犯罪に対する罰則はあまりにも軽すぎると思います。
また、私のようなケースで、該当映像を強制的に差し止める法律がないことにも絶望しています。
私はこの件をハラスメントという軽い言葉で表現したくはないですが、法律上はハラスメントとされ、現在、ハラスメントの時効は五年となっていますが、私はこの事を公表するまでに八年かかりました。
今でも気持ちの整理がついたわけではありませんし、傷が癒えることはありません。
是非法律の改正を望みます。


どんな犯罪も、重罪だとわかっていても罪を犯す人は犯します。
未だに飲酒運転をする人はいるし、性犯罪が完全になくなることもないでしょう。
ただ、世の中の人が関心を持ち、社会の目が厳しくなれば、それが抑止力になります。
被害者が助けを求めやすくなりますし、加害者が自分のしていることが犯罪行為であると認識できるようになります。
少なくとも性犯罪を些細なこととして扱い、被害者をセカンドレイプするような野蛮な時代はもう終わりにしませんか?


嫌な気持ちになるものは見たくない、聞きたくないという人の気持ちもわかります。
しかし、そうやって目を逸らすことによって、間接的に性犯罪を許しているのだと考えて頂けないでしょうか。


周り回って自分自身が、自分の大切な人が被害を受ける可能性を許しているのだと、そして被害を受けた時に適切な支援を受けられない社会を許しているのだと考えてみて頂けないでしょうか。


無意識に自分自身が「セカンドレイプ」の加害者になっている可能性について考えてみては頂けないでしょうか。





【むすび】

夫は私に、君は世界を救えない、君は世界を変えられないし、それは君の役目じゃない、と言います。
それは全く正しいです。私は世界を変えられません。
世界を変えるのは社会に生きるひとりひとりの意識です。
その為に、私は性被害の悲惨さを皆様にお伝えするためにこれを書いています。
私は正義感から世界を変えようとしているのではありません。
世界を救おうとしているのでもありません。
ただ、あの時の自分を救いたいのです。
八年前に、世の中が性加害に対してもっと成熟した考えを持っていたなら、社会全体の空気が性加害に対してもっと厳しい目を持っていたなら、これが犯罪であると認識されていたなら、あの時あの現場で誰かひとりくらい私を助けてくれただろうと思うからです。
そして、二度とこのような思いをする被害者を生みたくないのです。
その被害者はあなたの大切な人であるかもしれないのです。
どうかそのことを考えてほしいのです。


私の声がどれだけの人に届くのかはわかりません。
私の言葉がどう受け止められるのか、私の手を離れてどこに転がっていくのかもわかりません。
転がり始めたらもう私にはコントロールできないし、止めることもできません。
どうか皆さんが社会を成熟させるため声を上げてくださることを願っています。


私はこれ以降、静かに家族と過ごし、自分自身の心身の回復に努めたいと思いますので、どうかそっとしておいて頂けますよう重ねてお願い申し上げます。