最後の琥珀色の雫

1 恩赦

その日は突如やってきた。

灰色の壁と鉄格子に囲まれた生活が破られたのは、よく晴れた日曜日の朝のことだった。

いつもの号令と整列が朝6時から始まるはずだったがいつまでたっても看守はやってこない。まさか忘れたのでは?絶対にありえないことだが事実彼等は姿を見せなかった。何が起こったのか。厳格な制服のしもべたちがこの世から忽然と消え去ってしまったのか。とすると最大の懸念は、私たちの食事を運んでくれる者がいなくなってしまったということであり、それはすなわち自分が餓死することを意味した。ある意味パニックになってもいいはずだ。

だが朝の空気は澄み渡り冷え冷えと張り詰めた微風がどこからかそよいでいたし、いつもの退屈な一日の始まりとしては何ら変わるところのない、「いつもの一日」だった。

朝9時を、時計の針が指した。

彼等看守たちは整列して自分たちの前に姿を見せた。どの顔も厳粛な表情であり普段の無表情とはまるで異質な感情を見せている。そこには明らかに複雑な感情が刻まれていた。まるで自分たちの最後が訪れたかのような顔だ。

やってきた看守たちの一人がこう告げた。

「あなた達は本日から、自分の氏名を名乗ってもよいことになりました。そして本日からあなた達は一般市民として生活することになります」

言っている意味が分からなかった。

全員が講堂に集められ、映画鑑賞の直前のように刑務所所長が壇上に現れた。

「あなた方には恩赦が与えられました。これはあなた方が犯した罪を赦したわけではありません。がしかし、我が国の社会にとても祝福すべき出来事があり……」

無味乾燥な講話が続き、いい加減あくびも出なくなった頃、喋るネタが切れたのか、所長は壇上から姿を消した。

それから私を含めた全員が、整列もさせられずに別室へ順番に呼び出された。のんびりとした雰囲気の中で、テーブル上に置かれた折コンボックスの中に収まった懐かしい自分の私物と対面することになる。

私の私物は大したものはなく、財布、腕時計、自宅のカギのついたキーホルダー、入所当時使っていた携帯電話、そして衣類ーー古びたジャンパー、シワだらけのシャツ、セーター、下着類、靴下、スニーカー。それ以外のボロ布と化した着替えはボックスの中に残しておいた。

周囲を見ると居心地の悪い、慣れない穏やかさで満ちた室内の雰囲気に馴染めていない面々が挙動不審な様子でお互いを見比べあっている。無理もない。我々は一体どうすればよいのか。説明された内容など誰一人理解できていないのだから。

しかし否応もなく我々は祝福の嵐に包まれて、やがて一般社会に放り出されることとなる、らしい。

「祝福すべきことって何だ」

そんなつぶやきを漏らす者がいた。誰もが答えを待っていたが、とうとう誰一人応答してくれる者はいなかった。顔なじみの看守達はここにはおらず、室内にいる担当者はどれも初めて見る顔ばかりだ。

刑務所の居心地が良すぎるあまり、出所してすぐに罪を犯して再び塀の中へ逆戻りする者がいるという話を聞く。このままでは外の世界に出て行っても馴染めず、また古巣に戻りたくなる連中が出てくるのは間違いない。我々が感じていた居心地の悪さの正体は、まさにその成りゆきの不透明さによるものだ。

一人だけ、馴染みの顔がいた。いつも態度の悪い刑務官の一人だ。我々の応対はせずに壁際に背中をつけて見学していたため、いることに気づかなかったのだ。

刑務官は私の顔を見つけると、ぎりぎり聞こえる程度の小声で吐き捨てた。
「……まさかお前が釈放されるとはな。娑婆もおちおち安眠できないぜ」
心底毛嫌いしている表情だ。
「祝福はされていないようだな」
私は、さらに小さな声でささやき返す。
刑務官はただ奇妙なためらいを見せただけで、二度と私の顔を見ようとはしなかった。


2 カンパニー・インカムの破壊力

それから私は別室に通された。

静かで明るい光に満ちた室内は、小さな机と向かい合う椅子が置かれ、余計な調度類のないシンプルな会議室のようだった。

指し示された椅子に腰掛け待っていると、やがてドアが開き、一人のスーツ姿の男性が入ってくる。

顔つきからして温厚で慈愛に溢れた、世界中の言語の『平和』の文字を顔面になすりつけた童話作家のような男が出迎えてくれた。

「はじめまして。相楽圭一と申します」
男は名刺を差し出した。
「どうも」
名刺をろくに見もせずに、私は机の上に置いた。
「是永恭輔先生、お務めご苦労様でした。そして恩赦、おめでとうございます」
「実感沸かないね」
「そうでしょうね。でもこれはこの国が決めたことです」
「いいのか、俺がシャバに出ても」
「一部には不満を漏らす連中もいるでしょうが、無視すればいいことです」
「妻を殺した男を赦すとは、随分この国も慈悲深くなったものだ」
「私はあなたが潔白だと信じていますよ」
「……君は弁護士か?」
「残念ながら違います」
「まあいいさ。俺はこれからどうなるんだ」
「自己紹介が途中になりました。私は社会復帰アドバイザーという仕事をしています。主にあなたのような、重犯罪により服役していた方々を社会復帰させるためのお手伝いをしています。一緒に頑張りましょう」
「新手の詐欺師かな」
「惜しい。でも残念ながら正解ではありません」
「俺も、社会復帰できるのか」
「あなたが収監されてから約19年の月日が流れました。その間、社会は随分変化しています。かつてあなたが生活していた世間とはかなり異なる社会に、これから出ていかなければなりません」
「ふん、俺は新聞もテレビも見ていたんだ。シャバのこともある程度は知ってるぞ」
「認めたくないでしょうが、あなた方は制限された情報だけを与えられていたんです」
「だとしてもおおよその見当はつくさ。よりテクノロジーが進歩して便利になった。パソコンもスマホも知ってるし、あと外国人がやたらと増えたのも知ってる。まあムショの中も外国人だらけだから当然か」
「そうですね、確かに。でも私が言いたいのは社会復帰を前に、学ばなければならないことが山ほどあるという事です」
「ふーん。分かった。教えてくれ」
「はい。喜んで」

  *

それから私は教育用のビデオを視聴させられた。
映像の冒頭で、『一般社会での生活の仕方』とテロップが出た瞬間、私は吹き出してしまった。
振り向いて相楽に、
「俺は子供扱いか」
「我慢して下さい」
相楽はディスプレイを見るよう促す。
我慢して、私は首を戻す。
『ーーみなさんが服役している間に、日本社会は大きく変貌を遂げましたーー』
ナレーションが語り始める。

  *

それから私は、驚愕せざるを得ない現実に直面する。
「……これは本当なのか」
「はい」
「信じられない。いや、ありえない」
「現実です。あなたはこの社会へ出て行って、日常生活を送ることになります」
「……いや、まさか」
「信じられないのも無理はないです。でもこれが現実です」
「ええと、何と言ったか、シン……」
「シンギュラリティ社会です」
「そう、それだ。本当に実現したのか、そんな世の中が」
「ええ。今や我々は、働かなくても生活ができるようになったんです」
「信じられない」
「数時間後には、もう出て行って新生活を始めるんですよ」
相楽は、希望に満ちた表情をしていたが、私はまだ疑惑を抱いたまま、顔をしかめていた。
「早速手続きを始めましょう」
相楽は立ち上がり、壁際の書棚に積まれた箱を手に取り、戻ってくる。
机に置いたパッケージを開封すると、中から分厚い書類と白い救急箱のようなプラスティックのケースが出てきた。
書類の一番上の束を手にし、向きを変えて私に差し出す。
「まずは社会へ参加する手続きを行います」
書類の表紙には『ベーシックインカムをはじめよう』とある。
「何だこれは」
「あなたが受ける毎月の支給の手続きを行う書類です。本来は電子手続きで済ますんですが、社会復帰への準備ということで、紙で用意しました」
「親切なこった」
「まず政府から、あなたに毎月15万円が口座に振り込まれます。人によりますが、あなたの場合は初回支給が本日すでに処理済です。ただし次回からは毎月25日に行われますので、もう来週には次の振込みがされます。まあ初回は祝い金ですね」
「毎月? 期限はないのか」
「政府が続く限り。期限などありません」
「太っ腹だな」
「国民の権利です」
相楽はタブレットとペンを差し出した。画面には署名する欄がある。
「お名前を」
私はペンを持ち、画面に署名した。鮮やかな筆跡が残り、自署が記録された。
画面はぱっと切り替わり、中央に数字『15万円』の数字が映し出された。
「ご確認下さい」
「どうやって金を下ろすんだ?」
「下ろす必要はありません。と言うより下ろせません」
「は? どういうことだ」
「生活を始めると分かりますが、現金は使いません」
「カードで支払うのか。苦手だな」
「カードも使いません」
「何だと、どういうことだ」
「そんなもの、いらないからです」
「……やっぱりインチキだな。意味が分からん。さっきのビデオもそうだ。買い物の仕方がさっぱり分からなかったぞ」
ビデオに出てきた人々が笑いながら、レストランで無銭飲食をしていた映像を見た。仕組みを説明せずに理解しろとは無茶にも程がある、と思ったばかりだ。
「あの映像は出来が悪いですね。体験してみれば分かる、としか言わないし」
相楽は苦笑した。
「カードは使っていなかったな。金を払わないで済むんじゃなかったのか」
「いえ、お金は支払います。ただし財布もカードも出しません。人々はただ動くだけで、自動で支払うのです」
「だからそれが分からないんだ」
「あとで一緒に体験しましょう。続けます」
私は書類を薄気味悪そうに脇へのけた。
「次に、公益法人の服役者支援援助会から、社会復帰応援金として今後三年間に渡り毎月4万円が支給されます」
タブレットが戻され、サインする。
画面に金額が表示された。
「あなたには特別扶助支援団体から教育補助支援金の支給対象になると連絡が来ています。今後60ヶ月間分の分割応援金が支払われます、これは毎月7万円ですね」
「大丈夫なのか、そんなに貰っても」
「はい。続けます。さらに服役者名誉回復互助会からは、是永さんが文化芸術普及に尽力する活動をする条件付きで、十年間に月々12万円の報奨金が支払われます。条件は書類にもある通り、一定の文化活動をすればクリアできます。子供たちに絵を教える程度で十分に」
「おいおい……。本気か」
タブレットに12万円の数字。
「さて、ここまでは公的支援金の支給についてです。ここからは民間のサービスについて説明します」
「まだあるのか」
私は少々うんざりしていた。現金を手にしたわけではなく、数字を見せられているだけで実感がないため、あからさまな詐欺の手口を見せられている気分が拭えなかったせいでもある。
「米国企業のグーグルが『グーグル・ベーシックインカム』を始めたのはつい2年前のことです。個人情報と基礎生活データの提供を条件に、日本円で毎月3万円を支給するサービスを開始しました。氏名や住所、メールアドレス、と言ってもGメールアドレスですが、登録すれば毎月」
「まさか。民間企業だろう」
「そのまさかです」
どんどん書類が差し出される。
「これはAmazonインカムで毎月2万円と書籍完全無料。こちらはテスラインカムで、毎月2万円プラス電気代が無料。それと希望者は火星での長期滞在費用が無料。約15年間は向こうへ行きっぱなしですが興味があるならどうぞ。中国企業からはファーウェイインカム、毎月1万6千円。シャオミインカム、2万5千円。インド企業タタインカム、毎月1万円……」
「日本企業もあるのか」
「楽天インカムは通販商品が毎月3万円分が無料。ソフトバンクインカムは毎月4千円と携帯端末通信料が無料。東京電力インカムやアルコールインカム、それから……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。無料無料って、それじゃ金を使う機会がないじゃないか……」
「ありますよ。贅沢品や嗜好品は実費がかかります」
「たとえば旅行へ行けば旅費がかかるだろうな」
「残念。旅行会社連合グループの総合旅行インカムがあります。距離にして毎月150キロ分の費用が無料ですよ」
「それなら洋服代はどうだ」
「残念。ZOZOインカムが。毎月20着または2度の盛装代が無料」
「宝石なら高いだろう?」
「ジュエリー協会インカムがレンタル限定ですが、月に100万円相当の宝飾費用を」
「なんてこった、訳が分からん」
どんどん書類を渡され、私は開くこともせず脇へ積み上げていき、その高さは15センチほどだ。
タブレットが最終的に表示した合計金額は、68万円を超えていた。
「現物支給を除いて、3年間はこの金額が毎月あなたの口座へ入ります」
「嘘だろ。騙すのもいい加減にしてくれ」
「すぐに分かります。今の世の中でお金を使うことは、死ぬことの次に難しいということを」
「……ありえない。絶対ありえない」
私はすぐバレる下らない冗談を聞かされているのだと確信していた。少なくともこの時までは。

3 ドライブと市場と祝福と

「今日は初日ですから」
 相楽は腕時計を見て言った。
「まずは街にくり出しましょう」
「田舎の若者みたいだな」
「言えてるかもしれません。あなたは都会に出てきたばっかりのお上りさんというわけで」
 相楽は含み笑いする。
「見るもの全てが夢まぼろしだと感じるでしょうね」
「外に出られること自体がまぼろしだ」
「まあいいでしょう」
 相楽は私の少ない所有物であるカバンを見た。
「私の全財産はこれっぽっちだ」と皮肉っぽく言ってみる。
 相楽は、
「ちょうどいい。どうせあなたの所有物はこれ以上増えないですから」
「たったこれだけだ。家もないしな」
「最も不要な物ですね」
「ん、家がなければどこに帰るんだ」
「帰るとは? どこへ?」
「だから。家へだよ」
「まあその話は後にしましょう。今はここを離れることが先決です」
 相楽は私のカバンを取り上げ、
「さあ、あなたはもう自由の身だ。いつまでもここにいるべきではありません」
 彼は入口のドアへ向かっていった。
 私もついていく。

 廊下を歩く間、彼は特に何か手配をしているような素振りは見せなかった。

「車で巡りましょうか」
「ドライブか。面白そうだな」
「ええ。あなたの車で」
「私の車? 持ってるわけないじゃないか、私は長年ここに……」
「はい。これから手に入れます」
「そいつはありがたいが、一つ問題がある。私は免許を持っていないんだ」
 ちょうど私達は建物の外に出た。日差しが強く照りつけている。
 玄関を出ると、車寄せにちょうど1台の車が滑り込んでくるところだった。車両はちょうど私達の前でなめらかに停車し、後部ドアが音もなく開く。
 相楽が振り返る。
「さすがにテレビで見たことがあるでしょう?」
「自動か。便利な世の中だ。この時代は誰も運転しないのか」
 相楽が先に後部座席に乗り込んだ。私もあとに続く。
「中には物好きもいますけどね。お金を払って運転の権利を買うんです。周囲に危険をばら撒く代償として、ね」
「でもその金も、あれか」
「まあ、お金がない人はもう世界中探してもいませんけどね。もしそんな人を発見したら、メディア注目料がたんまり転がり込んできます。もちろんその当人に、ですけど。だから結局資産が発生してしまうわけで」
「困った世の中だ」
「そう、みんなお金が余って困っています。何か使い道がないか、一日中探しているんです」

 運転席には誰も乗っていない。ハンドルらしきものも付いておらず、まるで車が意思を持って動いているかのようだ。
 車は発進し、ゆっくりと加速していった。
 建物の門を通り抜けると、角を曲がり迷うことなく車道の中央を安定した動きで一気に加速をつけていく。広い道は空いていた。
「どこへ行くんだ」
「どこへ行きましょう」
 相楽は目的地を車に指示したようには見えなかった。いつ指示を与えたのだろう?
「気になることだらけだよ」
「たとえば、行き先ですか」
 私は頷いた。
「実は私も知りません」

「この車の運転手は誰にいつ行き先を聞いたんだ?」
「聞いていませんね。少なくとも私は教えてないですよ」
 彼は何となく面白がっているように見える。むしろ私にクイズを出している気分なのだろう。
「……あらかじめ指示を与えておいたのかな」
「いいえ」
「じゃあ、途中で別の誰かが指示したか」
「私以外にあなたと関わっている人物はいません」
「適当か」
「当たり。行き当たりばったりです」
「からかってるのか?」
「いいえ、事実ですよ」
 相楽は楽しそうに笑った。
「おいおい、こっちは久しぶりの娑婆なんだ、丁寧に説明してくれ」
 私は苛立つ。
「すみません。説明しますと、あなたの気分を読み取って最も相応しい場所へ向かっています」
「私の気分が分かるのか」
「はい。仕組みは専門家でないと解説できませんが、なかなかのものですよ」
「着いた時に私の気に食わないかもしれんぞ」
「それが案外ピタッと来るんです」
「どうだかな」

 車は速度を上げていた。気がつくとかなりの高速だ。交通量も激しくなり、前後の車間が恐ろしいほど接近している。
 30センチほどしか空いておらず、なのに高速なため、一瞬車は止まっているのではないかと錯覚するほどだ。
 前後も横もだ。右側の窓の外、隣の車両がピッタリ寄せており、窓を開けて手を伸ばせば互いに握手ができるだろう。
 しかも驚いたことに、隣の車両の乗客は全員子供なのだ。幼児が4人と10歳くらいの女の子が身を寄せ合っていた。窓際の3歳くらいの子が私に手を振っている。
「ほら、あなたに振っていますよ」
「ああ、そうだな。しかし怖くないのかな」
「何がですか?」
「車だよ、こんなに近い」
「むしろ楽しそうに見えませんか」
「見えるよ、だから奇妙なんだ」
「ああ、速いからですね。今は安定して150キロくらいかな」
「子供だけで乗ってるぞ」
「いけませんか?」
「いや、だって……」
「ほら、交差点ですよ」
 車は少しだけ減速し、大きな交差点へ突入していく。すると前後左右の車両が瞬時に離れていき、カードをシャッフルするように、別の車と入れ替わった。
 先程の子供たちの車は瞬時に消えてしまった。
「ほら、振り返す前に別れてしまいましたね。残念」
「え、ああ、急すぎてなんだか訳が」
「もう永久に会えません、……てことはないですがね」
「交差点と言ったな」
「見えませんでしたよね、今の」
「何のことだ?」
「次をお楽しみに」
「何か通り過ぎたように見えたが? 信号が見えなかったな」
「ありませんよ、信号なんて。無駄でしょう」
「言ってる意味が分からんな」
「必要ないです、信号なんて」
「しかし、交通量が多いぞ」
「見えました? あれが今時の交差点です」
「速すぎて全然見えなかったぞ」
「もうすぐ、ほら」
 相楽が前を指差す。

 それまでピッタリだった車間距離が離れ出した。前方を観察していた私は、左右方向に往来する高速の車列に向かって突っ込んでいくのを見ていたーーぶつかる!
 私は思わず叫び声を放ち、後ろにのけぞった。
 だがどこにも激突することなしにすり抜けた。確かに車間距離のほとんどない車列に突っ込んだはずなのに。
「今どきの信号には赤も青もありませんからね」
「間違いなくぶつかっていたのに!」
「ただの曲芸ですよ。自動制御なら何でも可能ですから」
「……心臓に悪いな」
「気の持ちようです。おそらくこれからあなたは、その居心地の悪さを何度も体験するかもしれません。でもそれが今の世の中です。順応しなければなりませんよ」
「そんなに変わっちまったのか」
「はい。あなたの想像以上に」
「……この世が怖くなってきたよ」
「心配いりません、すぐ慣れますから」
「慣れるだろうか」
「はい。それが私の役目ですし」
 彼は一瞬表情をくもらせたが、すぐに上機嫌に戻ったようだ。
「目的地が分かりました」
「どこへ向かってる?」
「まあ、お楽しみに」

 市場は賑わっていた。大勢の人々が狭い通路を行き交っている。両脇には露店が並び、さまざまな食材を見栄え良く配置している。
 私と相楽は車を降り、人混みの中へ紛れ込んだ。
「これが車の選んだ場所というわけか」
「はい。しかし、意外だ」
「今の私は、特に満足も不満も感じていない。外れだ」
「かもしれません」
「過大評価だったか」
 相楽はちょっと考え込んだ。
「まあ、せっかく来たんだから、何か見ていきましょう」
「ちょうどいい。腹が減ってきたよ」
「でしょうね。外の食事は久しぶりでしょう。お店に入りますか」
「いや、それより……」
 私は露店の中に、お好み焼きを鉄板で焼いている店を見つけた。
「ここで十分だ」
「いいですね。じゃあ私も」
 相楽は鉄板の上でヘラを動かす男に声をかけた。
「二ついただくよ」
「まいどあり!」
 相楽が手前に置かれたパックを二つ取ると、一つを私によこした。
「支払いは?」
「もう済ませました」
「何もしていないが?」
「見えませんが、済んでます」
 相楽はそのまま歩き出す。その動きを全て追っていたが、どこで支払ったのか全く分からなかった。指先一つ、それらしき動きはしていない。
「もう勘弁してくれ。謎だらけだよ」
「今のは私のおごりです。支払いはですね、そう、これです」
 相楽の見せたものは、ただの手のひらだ。何も持っていない。
「さっきの店の商品を置いた台に、手をかざすと支払いが実行されます。私の手のひらの微弱電流で識別して、支払いが完了します」
「間違ったりしないのか」
「間違ってもあまり気にしません。なぜって、お金は誰もが有り余っているからです」
「けっこうな身分だな」
「私が貴族だってわけじゃありませんよ。あなただって、もう同じです」
「私が? そんなマジックみたいな支払いができるって?」
「やってみますか」
 相楽は近くの店先を指した。目の前に、コーヒーマシンを置いた露店がある。
「私にコーヒーを一杯おごってください」
「どうやって……」
 相楽は、首を振って促す。
 私は何が何だか分からず、さきほどの相楽がやったように、コーヒーマシンに近づいた。
 店先には誰もいない。
「勝手に買えるのか?」
「やってみればいいんです」
「やってみろって言われても」
 コーヒーマシンは電源が入っているようだ。正面のランプがついている。隣にコーヒーカップを置いたトレイがある。私は当てずっぽうに、カップを手に取り、マシンの手前に置いてみた。
 何も起きない。
「おい、どうなってんだ」
 相楽が笑っている。「惜しいですね」
「何か間違ってたのか」
「支払いが済んでいないようですよ」
「は? 済んでるか済んでないか、どうやって……」
「ほら」
 相楽がマシンのランプを示す。点滅を始めるランプ。
 たちまちマシンがうなり、黒い液体がカップに注がれた。
「全く分からんよ」
「機械の調子が悪かっただけのようですね」
 相楽が続けて笑い出す。
「何だと、そんなのどうすりゃ分かるんだ」
「慣れです、慣れ」
 相楽はコーヒーカップを取り上げ、一口飲んだ。
「ごちそうさまです」
 二つ目のカップにコーヒーが注がれたのを見て、私はカップを取り、飲んでみる。
「ん、これは……」
 私は一口飲んで、驚いた。
「甘いぞ」
「砂糖入りがお好みですか。私はブラックですね」
「これは、丁度いい甘さだ……」
「調子が悪いわりにはきちんと調整したみたいで、よかったです」
「まさか、こいつ……私の好みを知っていた?」
 私はコーヒーをさらに飲んで、ようやく気づいた。このコーヒーには最初から砂糖が入っていた。しかも、私の好みにちょうどいい甘さだ。
「いや、そんな馬鹿な。偶然だろう」
「偶然じゃありませんよ。あなたの好みを知っていたんです」
 相楽はマシンに触れた。
「なぜそんなことができる」
「それが、今の世の中ですから」
 相楽は楽しそうに答えた。
「お好み焼だって、きっとあなたの好みに合わせているはずですが」
 私は手に持っていたパックの中身を出して食べてみる。確かに、ちょうどいい味に感じる。濃すぎもせず、薄すぎもしない、ちょうどいい味だ。
「だが、私らが通りかかっただけで、しかも君はたまたま完成した品を取っただけじゃないか。そんな芸当ができるはずが」
「この焼き加減だと、最短で1分あれば作れますよ。あなたが店先にやって来る1分前に始めれば可能ですけどね」
「まさか……ありえない」
「まあ慣れますよ」
 相楽はさっさとお好み焼きを食べ終え、コーヒーを飲み始めた。
 こんな雑踏の中で、私達が来るのを待ち構えていて、提供しただと?
 ありえない。私は何だか巧妙に仕組まれたマジックショーを見ているような気分だった。
 タネがあるに違いない。そう思っていると、
「おっ、来たな」相楽が告げた。「そろそろ来ると思っていました」
「何のことだ……?」
 突然、前方で大音響が響き渡った。
 周囲の人々が広がり、私達の正面の視界が開けたのだ。まるで”私達に見せようとしている”かのように。
 広場に爆竹らしき破裂音と、派手な衣装に身を包んだ一団がやって来た。
 中の一人の男性が飛び出してきて、叫ぶように語り始めた。
「俺は昨日までの自分じゃない何者かに生まれ変わったのだ。無敵の暗殺者となって再びお前の前に現れたのだ」
 私はすぐに気づいた。
「これは……」
 一団は大げさな身振りで喧嘩を始めた。
「私の小説の中の場面じゃないか!」
「そのようですね」
 相楽も見入っている。
「なぜ私の作品を……」
「あなたを歓迎しているようです」
 集団の演者達は、やがて一斉に私の方を向き並んだ。主役と思われる男性が、
「是永先生、社会復帰おめでとうございます!」
 いつの間にか男性は花束を抱え、私の前に進み出てきた。そして花束を私に差し出した。
「先生のますますのご活躍を!」
「……私に?」
 周囲の観衆もまた私達の周りに取り巻いている。
「ああ……ありがとう」
 私は花束を受け取った。するとその場に居合わせた全員が、私に向けて拍手を送ってくれた。

それからほどなくして、宴会が始まった。
何もなかった広場に、てきぱきとテーブルや椅子、食事が並べられた。そして宴会が始まったのだ。
 私たちもそれに加わった。
「そろそろ教えてくれないか、今の世の中を」
私は先に疑問を解いておきたかった。
「体験する方が早いと思ってましたが、やはり説明は必要ですね。この世界はベーシックインカムテクノロジーと、シンギュラリティ社会によって成り立っています」
「最初に聞いた説明の通りだ」
「はい。あなたが不思議に感じることのほとんどは、お金の問題でしょう。でも実は、経済的問題は大した問題ではないのです」
「それがおかしい。歴史を見ろ、人類は豊かになりたくて常に苦労してきたんだ」
「確かに。それは間違いありません」
「人は富のために人を……」
 私は危うく自分の過ちを口にしようとし、留まった。
「……殺めることもある」
 相楽は、淡々と答えた。
「それは事実です。だからそれが克服できるとは、誰も思わなかったんです」
「今でも思わないね」
「なぜできないと考えるのでしょう?」
「決まってるだろう、難しいからだ」
「難しいからできないなら、全てのテストは合格者が出なくなるのでは?」
「屁理屈だな。まず結論を言え」
「分かりました。理解は一旦置いて伝えるべきですね。私達の社会を支える要素は3つ。高い技術、強固で安定した経済力、そして心理的信頼力です。順に説明します。
 まず、テクノロジーです。たとえば、ここに来るまでに体験した移動手段がそうですね。車は原則として自動制御だけが公道走行を許可されています。人間の判断ミスより機械の故障する確率の方が遥かに低いため、今は手動運転は絶滅しました。運転はテストコースでしか楽しめません。
 次に、経済力、いわゆるベーシックインカムです。個人の生活を支える基盤となる収入は完全に保証されています。これはお互いに支え合うことで成立しています。これは最後の要素と密接に絡んでいますので、一緒に説明します。
 最後の要素が、実は最も実現困難だったものです。すでにあなたがその罠にかかっています。そんなことが実現できるわけがないと頑なに信じ込んでいます。無理もありません。人類史を知悉していればこそ、なおさらそう思い込むでしょう。
 純粋に経済的問題に留めるなら、ベーシックインカムはおそらく失敗するでしょう。関係者の思惑が介在しないAIで総点検すればいくらでも非効率な予算配分が見つかります。過酷な予算粛清を経たのち、社会構造は生まれ変わりました。最も困難だと思われていた政策も一旦成立してしまえば人は容易に慣れてしまうものです。しかし問題はそこではありません。
 心理的信頼力が我々に必要でした。これは、人々が理想を自ら実現できるという信念を持つことです。先程車に乗っている時、交差点であなたは危険だと思った。交差する車線の車両と接触しそうになった。人間にはできない芸当を機械が行うことはあなたにも理解できるでしょう。しかし見たことのないテクノロジーは信じられない。人は見たり体験しないと信じることが困難です。
 でも、一度体験すれば人はその恩恵を理解します。一度でいい。理解できさえすれば、です」
 相楽はこの場で繰り広げられているにぎやかな宴会を楽しげに見ていた。
 私は、しばらく無言で考えていた。
「……理解できないな」
「当然です。これから理解していきましょう。さあ、食事の時間ですよ」
 相楽は目の前の料理を私に促した。

(つづく)








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