2022/6/5 memo

鶴見さんは芸術を『純粋芸術』『大衆芸術』『限界芸術』に分けて論じているんですけど、プロによって作られてプロに受け入れられる芸術を『純粋芸術』、プロによって作られて大衆に楽しまれる芸術を『大衆芸術』、そしてプロじゃない人たち、つまり庶民によって作られて庶民に楽しまれる芸術を『限界芸術』と呼んでいて。いわゆる、民謡とか盆踊りとか年賀状とか、そういうものの中に本当の芸術がある、と言っていたんですね

僕らって何か行動する時、すでに選択肢がいくつもあるから、頭で選択してから動くじゃないですか。ばあちゃんたちは選択するっていうよりも、今目の前にあるものとか環境でどうにかするしかないって状態でずっと生きてきたから、動きに、僕らみたいな『選択する』っていうラグのようなものがないように感じるんですよね。一つ一つの動きが自然というか、のびのびしてるというか

今自分のこととか、ほんとどうでもいいんですよね。僕はその土地の在来種みたいに、環境の一部になれたらそれでいいんです。それこそ、じいちゃんばあちゃんたちはそんな感じに見えますね。めちゃくちゃ広い視点で見たら、うちらなんてデカい地球の中の一部分の一瞬でしかないじゃないですか。もう、それでいいかなって。特別でも何でもない、ただの全体の一部だっていう感覚

除雪をしていると、やってもやっても終わらなくて『これって一体何になるんだろう』って思うんだけど、多分そこには意味はないんです。まるで玉ねぎの皮をむくみたいに、最終的には何もないのにそこに向かって繰り返し動き続けている。でも、動きを止めないで、ずっと除雪し続けていけば、勝手に時間が過ぎて勝手に春になって、すごくそれが気持ちいいんですよ。どんどん季節が過ぎていく中、気づいたら死んでる、っていうのが理想ですね



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