2022/6/12 memo

岡本太郎 孤独が君を強くする

自分がどう見られているかじゃなくて、自分はこれをやりたい。やる。

孤独と単独は違う。孤独とは、絶対に社会的だ。孤独者とは肉体的にも精神的にも、他からの制約をだれよりも鋭く感じ、それに傷つきながら、なお絶望的に挑む人間のことだ。

だが信念のためには、たとえ敗れるとわかっていても、あえて行う、己れをつらぬくという、そういう精神の高貴さがなくて、なにが人間か、とぼくは言いたい。

この世の中には、いい加減なことがいっぱいある。不純なものと純粋なもののふたつの対立で成り立っているんだ。世の中の不潔なもの、不純なものと、よほどの精神力をもって対応しないと、自分の純粋さは保てない。不純のなかでどう自分の純粋さをコントロールしていくか。

問題をぶつけあうとき、大人とこどもは対等なのだ。こどもは当然、未熟だ。しかしまともに精神がつかみあわなければならない。だが多くの場合、大人の態度はいやったらしい。そして、にぶい。こどもにインタビューしたり、話しかける時の先生やアナウンサーの口調など、典型的だ。おっかぶせたような、のみこんだような。いつでも一定の距離を置いている。保護者のような顔つき。けっして、ムキになったり、本質論をぶつける、まともに言い争う、というように踏みこむことはしない。一線を引いた向こう側から、いやに寛大な調子で口をきくのだ。

世界をこの眼で見ぬきたい。眼にふれ、手にさわる、すべてに猛烈に働きかけ、体当りする。ひろく、積極的な人間像を自分自身につかむために。純粋な衝動である。そんな情熱が激しく噴出するとき、それは憤りの相を呈する。だから、私は怒る。

現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものなら、かならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。

現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものなら、かならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。

日本ではこれをとり違えて、謙虚というのは他人に対しての身だしなみくらいに思っている。だから、「いいえ、私なんか、とても……」などと言って安心させておいて、けっこう腹の中ではうぬぼれているか、でなければ、とことんまで卑屈になりさがっているかです。自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです。だから猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めてゆくべきです。ただ自分を無にしてヘイヘイするという謙譲の美徳は、すでに美徳ではないし、今日では通用しない卑劣な根性です。すでに無効になった封建時代の道徳意識の型が陰気に根づよくのこっているのです。よかれあしかれ、何ごとにつけても、まず飛び出し、自分の責任において、すべてを引きうける。こういう態度によってしか、社会は進みません。

岸田さん VGTイベント

誰のために何を届けたいんですか?

自分は何のために映像制作をしているのかを問う

自分はどういうスタイルでモノづくりをしていくのか

気づき

イベントに参加して、僕は幾分か暗い気持ちになった。話したいと思っていた人とも話せたし、イベント自体も楽しめたと思う。なんで暗い気持ちになったのか、自分でも少し戸惑うくらいだ。
東京の人の多さに気圧されたのかもしれない。でも、多分一番大きな要因は、周りの空気感だろう。映像制作をどう捉えているのか、そこの根本の部分が違う気がした。言うなれば生計を立てる手段としての映像制作。あるいは自分の承認欲求を満たすためだけの映像制作。クリエイター・ビデオグラファーというかっこいいような横文字に陳腐な自由さを感じているような空気感。でも、自分とてその一人になってしまっているのではないかという疑念を払拭できなかっ。自分は違うと思いながら実はまさに周りと同じであるようにしか見えない自分の存在の薄さに嫌気がさしたのだ。
自分はお金も欲しいのだが、それよりは自分の満足のいくようなドキュメンタリーを作れるようになりたいという思いが勝る。
お金は二の次なのだ。僕と同じような考え方の人もいたけれど、振り切りきれていない作風に自分が求めていたものがない気がした。

僕は映像作家になりたいのかもしれない。映像クリエイターじゃなくて、映像をもっと社会的に意義のあるものとして捉えていたくて、単純にお金稼ぎの手段として見るのではない。それは僕が今まで見てきたものが、作家が本気で作った作品だったからかもしれない。もっと本気のものを見る。そして自分の中にその熱意を感じて、そのバトンを自分の作品の中に繋いでいく。これだ。


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