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黄金の荊棘(いばら) 第3話 #絵画ミステリー小説

盛夏を告げる蝉の声が、東京の喧騒に溶け込んでいく。夕暮れ時の文化庁。古びた建物の窓から漏れる光が、徐々に暗さを増す空と対照的だった。

午後8時。業務が終わり文化庁を後にした倉橋慎太郎のスマホが鳴った。着信音はヴィヴァルディの四季《冬》。ヴァイオリニストである妻が演奏した曲そのものを着信音にしている時点で愛妻家ぶりがうかがえる。薄暮の中、画面を見ると桐嶋からだった。

「お久しぶりです!飲みのお誘いですか!いいですよ!」

桐嶋の苦笑が聞こえる。その声には、普段とは違う緊張感が滲んでいた。

「相変わらずだな倉橋。あいにく飲みの誘いではないが話があってね。あ、いや、酒とつまみ買ってきてもらおうかな」
「お、それでもいいですよ。妻は公演でイギリスに行っているので10日くらいは独身生活ですから!悠彩堂に行けばいいですか?」
「ニコタマ(二子玉川)で」

唇の端が悪そうにあがった。倉橋の直感が、何か普通ではない事態が起きていることを告げていた。

「あらら、楽しそうなお話になりそうで。ちょっと待ってくださいね」

通話を保留にした倉橋は足早に駐車場に向かい、アルファロメオジュリアに乗り込んだ。ドアを閉める時の音がいかにもイタリア車であることを感じさせる。倉橋はそこも気に入っていた。荷物を助手席に乗せシートに落ち着くと保留を解除した。夜の帳が降りる東京の街並みが、車窓に映り込んでいた。

「お待たせしました。危ない話になりそうだったので車に乗りました」

楽しさを隠そうともしない倉橋の声は、桐嶋の気分をいくらか楽にした。

「助かる。おまえのそういう気の使い方、好きだよ」
「やめてくださいよ、おっさん同士のイチャラブは需要ないですよ?」
「少なくてもおれは見たくないな」
「でしょ?」

二人の笑い声が響くが車外に漏れるほどではない。その笑いの中にも、何か重大な事態への予感が潜んでいた。

「ちなみに、明日から有給含めて4日間の休みなんですよ。タイミングがいいとはこのことですね」
「ホントか。じゃあ自由に動いてもらえるな。助かる」
「桐嶋さんには世話になりっぱなしですから恩返しの良い機会です。当初は妻の公演に併せて渡英しようと思ってたんですけどね、母校がらみらしく集中したいからとすげなくあしらわれてしまいました」
「相変わらず奥さん一番なヤツだな」
「それはもう当然ですよ!妻の良いとこだったら・・・いやいや、この話すると長くなるので本題に入りましょう。藤堂先輩もご一緒で?」
「いや、あいつはもう帰った」
「相変わらずの家族大好きパパですね」
「おまえら二人とも似たようなもんだよ」

倉橋はなにか反論したそうだったがそれを察した桐嶋が強引に本題に戻した。夜の街にたたずむ車の中で、二人の会話は次第に緊迫感を帯びていく。

「できればでいいんだが、ここに来る前に団子坂の方をちらっと見てから来てくれないか」
「現状がわかるようなご依頼ですね」

倉橋の瞬時の想像は、リアルよりも5段階ほど悪い想像だったかもしれない。街灯の光が車内に差し込み、その表情を一瞬照らし出した。

「どこまで想像しているかわからんが、たぶんまだおまえが考えているほどじゃないとは思っている。念のための偵察だよ」
「わかりました。では、悠彩堂を見張っている怪しいヤツがいないか確認してから買い出しして向かいます」
「頼む」
「秘密基地でいいんですよね?」
「秘密基地ってなんだよ。セーフハウスだよ」
「えー、秘密基地の方がわくわくするじゃないですか。絶対そっちの方がいいですって」
「わかったわかった、じゃあ秘密基地で。では、後ほど」
「はいな」

倉橋は電話を切ると、ナビで到着予想時間を確認してから車をだした。夜の東京を縫うように走る車の中で、倉橋の頭の中は次々と浮かぶ想像で満ちていた。

ニコタマ(二子玉川)のセーフハウス。もとい秘密基地は藤堂のセカンドハウスだった。元々の所有者は違う。藤堂の親戚の知人らしいのだが、どこをどう巡ったかいつのまにか藤堂のものになっていた。その経緯は、まるで迷宮のように複雑で不透明だった。

今も新しいマンションや住宅が建ち続ける二子玉川だが、30年ほど前にその所有者が隠れ家的に造った地下室だ。広大な土地に5棟のマンションがあり、そのどれからも行くことができる。当然、地下室に行くための扉や通路も一般人やマンション居住者は知る由もなく、地下室の存在を知っている人物だけに限られる。都市の喧騒から隔絶された、まるで別世界のような空間だった。

車で現地まで来た場合でも屋内駐車場から外にでることなくたどり着けるので利便性は高い。10人がストレスなく居住できるほどの広さと設備があり、地下であるために防音性が高いのは言うまでもない。もしかしたら元の所有者は核シェルターのつもりで建設した地下室だったのかもしれなかった。

秘密基地の電子キーが開錠された音とともに扉が開かれた。その瞬間、地上とは全く異なる空気が倉橋を包み込んだ。

「大変お待たせしました。買い出し部隊隊長、倉橋!参上いたしました!」
「お疲れさん。ありがとな」
「いえいえ、桐嶋さんと藤堂さんのお二人のユニットに混ぜてもらえるだけで光栄です!こちらこそありがとうございます!」
「しっかし大荷物だな」

敬礼した倉橋の足元には、大型のスーツケース1つ、ボストンバッグ1つ、酒とつまみが入っているであろう買い物袋1つ、腰にはシザーバッグ、背中にはバックパックを背負っていた。まるで長期の探検に出かけるかのような装備だった。

「家に帰ってお泊りセットも持ってきたので準備万端ですよ。良いタイミングすぎて笑いがこみあげてきますよ」

勝手知ったるなんとやらで、倉橋は冷蔵庫を開け、持ってきた備蓄品をいそいそと入れ始めた。その動きには、長年の独身生活で培われた手際の良さが感じられた。

「そういえば悠彩堂ですが、いましたよ怪しいのが一人」
「やっぱりいたか」
「20代後半くらいですかね、この暑いのにしっかりスーツを着込んだ男でした。店の前を通ったあと、ぐるっと回って坂下からも確認したので間違いないです。一か所にいて見張っている感じではなく、歩きながらチラチラ見ている感じですね。おれが言うのもなんですが、動きが素人ですね」
「そいつに見つかりはしなかっただろうな」
「おそらく大丈夫です。目線の先には悠彩堂しか写ってなさそうでしたから」
「それならたぶん赤坂署の刑事だよ。白井さんだったかな」
「え?あれで?んー、いろいろやり直した方がいいですね。さて、まずは飲みましょうか」

言葉の最後にはプシュっという音が重なった。倉橋は自分の分も開けながら桐嶋に缶ビールを渡す。冷えたビールの缶から立ち上る霧が、地下室の空気に消えていく。

「再会を祝して」

お互いに掲げた缶ビールを軽く合わせると、桐嶋は半分、倉橋は一気に飲みほし2本目を開け始めた。その仕草には、長年の付き合いから生まれる気安さが感じられた。

「さっそくですが、ここまでの状況をお聞かせください」
「ああ」

桐嶋はここまでの状況と経緯を詳しく説明した。憶測を交えず事実のみを伝えことは情報共有の基本と言える。初動でいらない情報を他者に与えると後々齟齬が大きくなることを桐嶋は知っていた。彼の言葉一つ一つには、長年の経験から培われた慎重さが滲んでいた。

桐嶋が話し終えると倉橋が周囲を見渡しながら確認した。その目は、まるで部屋のどこかに隠された真実を探しているかのようだった。

「で、ブツはどちらに。あ、これがその写真ですね」

倉橋の目線はテーブルの上に無造作に置かれた写真にとまり、そして手にとった。彼の指が写真の表面を軽くなぞる。その動きには、美術品を扱う専門家特有の繊細さがあった。

「確かに。前情報がなければこの傷は剥落に見えなくもないですね」

倉橋は考え込むように眉をひそめながら、写真の隅々まで確認している。その姿は、まるで謎解きに挑む探偵のようだった。

「現物は保管庫ですか?」
「ああ、そうだ」

4年前、桐嶋は藤堂に頼み込んで、ここの一室を絵画の保管庫にさせてもらっていた。空調が完璧で太陽光が入り込まない地下室は絵画の保管に最適と言える。現在はクリムトの肖像画を含めて13枚の絵が保管されていた。その事実を思い出し、桐嶋は改めてこの場所の重要性を実感した。

「さっそく見せてもらっても」
「そうしよう」

二人は足早に保管庫へ向かった。その足取りには、これから重要な発見があるかもしれないという期待感が表れていた。

保管庫は一番奥の部屋になっている。桐嶋が照明をつけると様々な絵画が壁一面に立てかけられている光景が視界に入った。そして一番手前のイーゼルにクリムトは乗せられていた。LEDの冷たい光の下で、金箔が施された背景が鈍く輝く。

倉橋はルーペを取り出し丹念に確認し始めた。時折写真と見比べながら小一時間ほども見続けていた。その集中力は、まるで時間が止まったかのようだった。部屋の空気は次第に緊張感に満ちていき、桐嶋でさえ、その場の雰囲気に飲み込まれそうになった。

桐嶋は椅子をたぐりよせ、背もたれを前にして腕と顎を乗せた状態で倉橋の姿をぼんやりと見ていた。時計の針が静かに動き、夜が深まっていくのを感じる。

倉橋の目がキャンバスの角を調べている時に桐嶋は口を開いた。その声は、静寂を破るかのように響いた。

「リパーパシングしたと見ているがね、おまえの意見を聞きたい」

倉橋は首だけ動かして桐嶋を見た。その目には、専門家としての鋭い光が宿っていた。

「間違いなくリパーパシングしてますね。ただ、相当古い時期にやってますよ」

「そこまでわかるのか」

「桐嶋さん、また悪いクセを発動させましたね?食う寝る忘れて作品に見とれてたんでしょう?」

桐嶋は首をかしげながら笑みをうかべ、ご明察とばかりに両手を広げた。

「先ほど聞いた情報でも絵そのものに対する情報が妙に少なかったのでだいたいわかりましたよ。最初は先入観を植え付けないようにかなと思いましたが、途中からいやこれは違うなと」

倉橋はシザーバッグからタブレットをとりだしクリムトの写真をとりつつ、気になったことをスタイラスペンで都度記入していく。スタイラスペンがスクリーンをなぞる音が、静かな部屋に響く。

「だいたいわかりましたので、飲みながら話しましょうか」
「ああ」

二人はさきほどのテーブルに戻っていった。

なにか腹にたまるものを作ろうかと思った倉橋だったが、大量に買いこんできたつまみ類を思い出し、冷蔵庫からチーズとスモークナッツと袋に入ったベビーリーフと缶ハイボールを二つとりだした。

食器棚から皿をだし、キッチンペーパーで軽くふいた後にベビーリーフを敷き、そこにつまみをバラバラっとだした。手慣れたものである。

「あ、ビールの方が良かったですか?」
「いや、それでかまわんよ」

桐嶋はハイボールを受け取りながら答えた。缶を開ける音が、静寂を破る。

「いろいろ自説を言いたいですけど、その前に準備したいので、これでもつまみながらちょっと待っててくださいね」

倉橋はテーブルにサラミの袋とクラッカーを置いた。

「それはいいが、もう午前2時だぞ?仕事で疲れているだろうし大丈夫か?」
「全然大丈夫ですね!好奇心が渦巻いてまだまだ眠れそうにないですよ!」
「まぁ、明日休みならいいか」
「そうです!この4日間はこのことに没頭することに決めましたので時間がもったいないです!」
「おまえが問題ないならいいさ」

バックパックからノートパソコンを取り出し起動しWifiでの接続を確認する倉橋の手は会話の間も止まらない。次々と必要と思うものを表示させ、タブレットから転送したデータを独自データベースで照合していく。質感、絵具の色と材料、作者のタッチや筆の流れなど。現物を至近撮影した写真から得られる情報は膨大だ。

右手でキーボードとマウスを操作し、左手でつまみをむさぼりながらハイボールで流し込んでいく。桐嶋はその姿を見ながら器用なもんだと感心していたが、倉橋の左手についた油分や食いカスが気になりウェットティッシュを傍においた。

「ありがとうございます!ちょうど欲しいとこでした!」

指を丹念に拭いてから両手で作業を再開する。作業しながら飲んでいたハイボールは瞬く間になくなり、スクリューキャップの白ワインをラッパ飲みし始めた。その頃、桐嶋も日本酒とさきいかに移行した。お猪口を探したがなかったので湯飲み茶わんに並々と注ぐ。日本酒の香りが、地下室の空気に広がる。

倉橋は画面をチェックしてから桐嶋に顏を向けた。その表情には、何か重要な発見をしたような興奮が滲んでいた。

「準備完了しました。まずはいろいろのたまってもよろしいですか」
「拝聴しよう」
「まずは作品の真贋に関してです。これに関しては科学的検証をおこなっていないためエビデンスは存在しませんが、間違いなくクリムトの真作だと確信しています。筆遣い、色使い、構図、すべてがクリムトの作品だと物語っています。ただし、真作だとすると一つの疑念がでてきます」
「レゾネ(総作品目録)にない」

倉橋は、桐嶋の言葉に深くうなずいた。その反応には、二人の考えが一致したことへの満足感が表れていた。

「そうです。クリムトの主要なレゾネは1975年と2012年に出版された二つですが、そのどちらにも載っていませんし絵画関係のデータベースにも載っていませんでした。つまり、この作品は、世の中に認知されてきた作品ではないと言えます。加えて、鷺沼氏はこの作品が真作であるという認識でいたという推測もたちます」

桐嶋はいぶかしげな表情をしたが倉橋の言葉を待った。その姿勢には、友人の専門知識への敬意が表れていた。

「後ろ暗いところがなければ、グスタフクリムト財団に修復を依頼するのが一番の手段だからですよ。しかし財団に依頼すれば来歴等を詳細に調査される。真作であればなおさらです。クリムトの真作が発見される!ニュースが世界を駆け巡ると思いますよ。そしてそれは彼の本意ではなかったのでしょう。だからこそ、アメリカで修復家の名声を得た後、遠く離れた日本で、しがないアトリエを運営する人物に白羽の矢をたてたというわけです」

倉橋の分析は鋭く、その言葉には確信が滲んでいた。桐嶋は苦笑するしかなかった。

「確かにな。クリムト財団のことはすっかり忘れていたよ」

2013年に設立されたグスタフクリムト財団の主な使命は、クリムトの作品を収集、調査、展示すること。財団にとって垂涎の的になることは間違いないだろう。

「ついでに言えば、報酬額だけ考えても後ろ暗いものだと表書きしてるに等しいもんなぁ」
「ですね。1億なんて普通出しませんよ。一部前払いをしているのは桐嶋さんの腕を知っていることの証明ですしね」

倉橋は白ワインを飲み干し、次の赤ワインをグラスに注いだ。ワインの深い赤色が、薄暗い部屋の中で異質な輝きを放っていた。

「鷺沼氏関係での疑念をもう一つ。例の送られてきた写真のことについてです」

咀嚼したクラッカーを赤ワインで流した倉橋は、言葉を選びながら続けた。

「あの写真、プリントしたのは最近でしょうが、元の画像は少なくても20年以上前に撮られた写真ですね」
「理由を聞いても?」
「画素数ですよ。さっき撮った写真と比べれば一目瞭然です。しかもピントが甘い。だから、あの傷が剥落に見えたというオチです」

桐嶋は例の写真をつぶさに見つめた。言われてみれば確かに画面が荒いと感じる。

「鷺沼氏はスマホをもっていたんですよね?」
「スマホかはわからんが、電話番号からすれば携帯かスマホのどちらかだ」
「じゃあ、この写真はわざとですね。スマホや携帯があれば現状の写真を撮ったうえでコンビニでプリントすればいい。この写真自体になんらかの意味、もしくはメッセージがあるのではないでしょうか」
「そうなると他の可能性も考えられるな」
「そうですね。鷺沼氏はただのメッセンジャー、ないしは代理人だった可能性と鷺沼氏自身はこの絵を手元にもっていなかった可能性ですね。ああ、でもそこまで考慮すると手紙も本人が書いたものとは断定できないし、メール便をだしたのも別な誰かということだってありえますね。差出人の身分証確認なんてどこの運送会社もやりませんし」
「確実なのは鷺沼を名乗る男性から受け取った鍵と現金、コインロッカーに入っていた絵。物証のみかな」
「一応確認ですが、コインロッカーで追加料金は発生しませんでしたか」
「なかったな」
「ということは、少なくても桐嶋さんが開ける前、24時間以内に入れられたことも間違いないことです」

桐嶋はコインロッカーの詳細を思い出す。

「長期利用のではなかったからな。確かに」
「と、ここまでが現物を見ても感想です」
「いや、そこまで飲んでてよく頭が回るもんだと感心するよ」
「まだまだいけますよ」

倉橋はグラスのワインを飲み干し、新しいボトルを開けた。コルクを抜く音が、静かな部屋に響く。

「そして、実はここからが本題かなと個人的には思っているのですよ」

人の悪い笑みをうかべた倉橋の表情に、桐嶋は身構えた。

「夏の夜、しかも丑三つ時は最適な話かなぁと」
「待った待った!オカルト的な話!?今回の件がらみで!?」
「そうですよ?気が付いた時、背筋がぞわっとしたので是非桐嶋さんにもお裾分けしないといけないなあと」

倉橋は楽しそうに、先ほど撮った写真を拡大したものを印刷し始めた。プリンターの動作音が響く。その音色には、これから明かされる新たな謎への予感が込められているかのようだった。

第3話 終


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