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思い切りと迂闊さがつないだ二つの旅

受験シーズンを間近に控えた中学2年の2月。
雪が降りしきる中、ゴム長靴を履いた私は駅前の旅行代理店を訪ねた。
約40年前の出来事。
店内にはたくさんの大人たちが行きかい、子供だけでいるのは私一人。旅行代理店を訪れるのは初めての経験だけに何をしてよいのかわからず、受付カウンターに向かう列の最後尾に並んでみた。
おそらく40分ほども待っただろうか。ようやくカウンターにたどりついた。
お年玉をたしてなんとか貯まった六千円を近くにあったカルトンに置き、受付のお姉さんに聞いた。

「これで筑波万博に行きたいんです」

心臓がバクバクしていたことを思い出す。
当時、他県に行くには父親の運転する車でしか行ったことがなく、適正な料金すらもよくわかっていなかった。インターネットもない時代ではあったが、新聞に入ってくる広告すらも調べずによく言ったものだと、今考えると恥ずかしくなる。周りを見るといつのまにか客は私一人になっていた。他の客がいれば失笑ものだったかもしれない。

「うーん、ちょっと待ってね」

時計の針が午後4時50分を指していたことを覚えている。閉店間際の店内はこれまでとは違う忙しさになっていた。
奥にいるえらそうな感じの人にお姉さんが聞いてくれている。難しい顔をしているからダメなのかもしれない。と思った矢先、天パな感じのおじさん(お兄さん?)が声をかけてきた。

「なんだ坊主。筑波万博に行きたいのか?」
「そうです。お金がたりるかわからないですけど」
「どうしても行きたいのか」
「行きたいです!本で万博のことを知ってからずっと行きたくているんです!」
「そうかそうか。じゃあちょっと待ってろ。お兄さんがなんとかしてやるから」

最大限の驚きが表情にでていたのかもしれない。私を見て笑いながらお兄さんがさっきのえらそうな人のところに歩いて行った。
お兄さんの声は大きかった。

「支店長、3月の筑波に行く店内旅行にあの坊主混ぜてあげましょうよ」
「いや、それは・・・」
「いいじゃないですか。金もないのに万博に行きたいとここまできた心意気を買うのも大人の仕事ですよ。ほら、渡辺主任の息子も庄司さんの子供も一緒に行くわけですし、バスにもまだ余裕あるんだから一人くらい増えたってどうってことないですよ」

えらそうな人は考えこんでいたが、私の顏をちらっと見て笑顔になった。

「特別だぞ。旅行代金をいくらにするかも任せるが君がちゃんと面倒みろよ」
「わかりました!不肖、相馬、任されました!」

そうか、お兄さんは相馬さんというのか。40年たっても忘れない名前が刻まれた瞬間だった。

「坊主良かったな!行けるぞ!筑波万博!」
「本当ですか!?え、本当に!?」
「本当だ!だからな、ここに名前と住所と電話番号を書いてくれ」
「わかりました」
「代金は」

相馬さんは、カルトンの上にのっていた一番上の千円を私の手元にもってきた。

「この千円は当日のメシ代にしな。こっちの五千円で連れて行ってやる」

茶目っ気たっぷりの笑顔でそう言われた。ヘタクソなウインクが忘れられない。
私はうれしさのあまり家まで走って帰った。もさもさの雪が降っている中だし、氷化している雪が路上にたくさんあるしで途中なんども転んだけど痛くはなかった。

家の玄関前についた時、重大なことに気が付いた。
親にまだなにも話していない。
今日の出来事が奇跡的にスムーズに決まったおかげで順番が逆になってしまった。秩序を重んじる両親はこういうことをすごく嫌う。
おそるおそる玄関を開けるとちょうど母親が仕事から帰ってきたとこだった。
なにかを言いよどんでいる私を見るとイラついた感じで問いかけてきた。
私は経緯と筑波万博に行くことを話した。母親の表情がみるみる怒りの表情に変わっていく。「怒られる!」と思い首をすくめた瞬間電話が鳴った。
相馬さんからだった。
私のことを心配した相馬さんが親に説明するために電話をよこしてくれたのだ。
電話口の相馬さんと余所行きの声で話す母親。軟化していく表情がなにか面白かった。
結局、両親ともに不承不承納得してくれた。

筑波への出発当日、午後8時。旅行代理店の前に止められたバスに乗り込むとすでに酒盛りが始まっているらしくアルコールの臭いが車内に充満していた。
どこに座ったらいいかわからず途方に暮れていると、相馬さんと受付の時のお姉さんが手招きしてくれた。「コーラでいいか?」相馬さんが飲み物を手渡してくれた。
私の後に2人乗りこみ、バスは出発した。
車内はまるで宴会場だった。酒が次々と消費され、耳をつんざくような笑い声のかたまりが反響しまくる。でも、12時をまわるくらいから少しずつ声が寝息へと変わっていく。午前5時に万博会場近くのドライブインに着いた時は、私と相馬さんと渡辺さんという人しか起きていなかった。まだ真っ暗な中、3人でトイレで連れションをした。ちょっと大人になった気分だった。

申し訳ないことだが、筑波万博自体のことはあまり覚えていない。パビリオンをいくつかハシゴし、15年後に着く自分宛の手紙を書き、お昼に相馬さんのおごりでステーキを食ったのを覚えているだけ。あ、巨大スクリーンにマリオが動いていたのも覚えてる。近くによって三原色を確認したっけ。

帰りのバスの中は私含めて全員爆睡。地元についたのは午後10時。みんなが気を使ってくれて、私の家の近くまでバスを向かわせてくれた。

合計約26時間。本当に楽しい1日とちょっとの時間だった。40年たった今でも詳細に覚えているのだから、当時の私にとってどれだけの衝撃だっただろうか。本当に相馬さんには感謝しかない。

そして後日談もある。筑波行きの約2カ月後。
中学3年になった私は修学旅行で北海道に行ったんだけど、その時の添乗員が相馬さんと旅行代理店のみんなだった。久しぶりの再会でみんなからもみくちゃにされた。学校の友人たちは怪訝そうな表情をしていたがまったく気にならなかった。
帰りの苫小牧からのフェリーは荒天の影響により大きく揺れたせいで死屍累々の地獄絵図状態。私はそこから逃げ出し添乗員用の部屋に行き、朝までずっとダベってた。正直、修学旅行よりもそっちの方が楽しかった。
その後もなにかと旅行を計画する際には、まず相馬さんに相談してから行くようになった。旅行する時のテクやいろんなことを教えてもらった。20歳をすぎてからは何度か飲みにも行ったりしていた。

24歳の2月。いつものように旅行代理店を訪れた私だったが、あいにく相馬さんはいなかった。近くの人に聞いてみると先月末で退職したらしい。
驚いた私は大きく「え!?」と声をあげていた。
その時、私を知る人が相馬さんから預かっていたという手紙を渡してくれた。
そこには短くこう書かれていた。
『いまさら恥ずかしいから別れの挨拶はしない。機会があればまた会おう。10年間楽しかったぞ。じゃあな』
もう11年たっちゃったよ。私は涙をこらえながらつぶやいた。

こうしてもう一つの旅も終わりを告げた。


#忘れられない旅

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