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江の島(榎島)の弁財天と、北条のミツウロコ  吾妻鏡の今風景23

治承五年四月五日(1182年5/19)、『吾妻鏡』によれば、武衛(頼朝)は榎島へと出かけた。供は、北条時政、足利冠者、新田冠者、畠山次郎、結城七郎(朝光)、上総権之助(広常)、土肥次郎(実平)、佐々木太郎定綱、和田小太郎義盛、三浦十郎義連(佐原)、佐野太郎(基綱)、エトセトラ、大河ドラマさながらのメンバー。
 
榎嶋(えのきじま)とは江の島のこと。榎(えのき)は、湘南、三浦半島に多く見かける樹。キノコじゃないよ樹木。エノキダケ(キノコ)は、枯れた榎の根元に生えたのでエノキダケと呼ばれるようになったのだそう。
 現在、江の島にあるサムエル・コッキング苑は人工の庭園で、棕櫚なんてあとから植えたんだろうけれど、昔の江の島は、榎(えのき)に覆われていたのか。じゃあ、その根元にはエノキダケが・・・(生えていたのかもしれないけどね)


さてこの日、文覚上人が頼朝の武運を祈るために、弁財天を勧請し、供養の法会を初めておこなった、とある。
平家の祈願所である厳島権現は、三柱の女神、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を祀る。天照大神が、素戔嗚とのウケヒで生んだ三女神。宗像三女神。それに対抗して、弁財天を勧請したのかな、と。。
 
江の島の縁起によれば、欽明十三年(552年)四月十二日夜に大地震が発生、21日間大地が震動し、海底より砂が吹き出し、隆起して江ノ島ができたとされる。海の中から島が生まれる。そこは陸地から切り離された聖域、異界。蓬莱の島。高砂の爺婆がいる州浜台みたいなところ。
 
白鳳元年(672年)、役小角が霊場江ノ島を開き、弘仁五年(814年)、空海が岩屋本宮を創建し、仁寿三年(853年)、慈覚大師が上之宮を創建。慈覚大師とは円仁(えんにん)、第3代天台座主。江の島は、さまざまな宗派の聖地となる。


 太平記』によれば、北条時政は、幕府草創の始めに江の島へ参籠して子孫繁栄を祈ったとある。すでに治承五年三月九日、北条政子が懐妊し、安産祈願の「着帯の儀」が執り行われていた。

「鎌倉草創のはじめ、武家天下の北条四郎時政、榎嶋に参籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七(さんしち)日(二十一日)に当たりける夜、赤き袴に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来たつて、告げていはく、「汝が前生は箱根法師なり。六十六部の法華経を書写して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根によつて、再びこの土に生るる事を得たり。されば子孫永く日本の主と成つて、栄花に誇るべし。ただしその振舞ひ違ふ所あらば、七代を過ぐべからず。わが言ふ所不審あらば、国々に納めしところの霊地を見よ」と言ひ捨てて帰りたまふ。
時政が21日の参籠をして祈った(経文を唱え続けていたと思われるが)満願成就の夜、女房姿の女性があらわれて告げる。「そなたの前世は箱根権現の僧であった。(←これはこの手の話のお約束)、前世の功徳により、子孫は末永く日本の主となる。が、ふさわしくない行いがあったとするなら、7代までしか続かない。」そう言って、大蛇の姿になって、海中へと消えていってしまう。
 
あとには、大きな鱗が3つ残されていた。時政は「所願成就!」として、その3つの鱗を北条の旗の紋としたという。これがミツウロコ。しかし、それは蛇じゃないよね。蛇には鱗はあるけれど、鱗ごと脱皮してずるずる剥けていくので、鱗だけがはがれ落ちたりはしない。
 拾えるほど大きな鱗の魚、となると鯛。しかし、鯛の鱗で蛇みたいな魚となると・・・なんだろう。シーラカンス? 巨大人魚? スタバのセイレーンみたいな。


時政の江の島参籠話には続きがあり、『太平記』では、「されば今、高時は七代を超えて九代になった。榎嶋弁天の御利益も減じて亡ぶべき時になり、「かかる不思議の振舞ひをもさせられけるか」と思われた。」と、高時の時代の話になっていく。高時は鎌倉幕府第14代執権なので、数え方、間違ってるじゃん、と思いましたら、得宗(とくしゅう)、つまり北条氏惣領の家系では、北条時政が初代、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時までの9代を数えるのだそうです。

片瀬江ノ島駅。竜宮城のデザイン。


ところで家紋とは、もともとは貴族が牛車につけた目印。
武家の家紋は、源平合戦において、源氏が白旗、平氏が赤旗を掲げ、戦場での敵味方の区別をするために用いたもの。のちに、旗に一族の家紋を描くようになっていく。
となると、北条が家紋をミツウロコにしたのは、この頃だったのかもしれない。
『源平盛衰記』によれば、畠山重忠が無文の旗(つまり白い旗)を差上げて参陣し、これを頼朝が咎めると、重忠は「この旗は源氏に仕えた先祖より伝わったもの、源氏御祝の旗として大事にし、参上にあたり差してまいりました」と答えるが、頼朝は、畠山の旗印に、藍染の小紋模様のついた鹿皮を与えて掲げさせ、これが「村濃(むらご)紋」となる。村濃(むらご)って、読めませんでしたので、読み仮名を検索しました。なんか複雑な旗印だ。

『吾妻鏡』には、こののち文治五年(1189年)八月二十六日に、「佐竹四郎、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗、無文(紋)の白旗也。二品(源頼朝)咎めしめ給ふ。御旗と等しくすべからざるの故也。よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる」とあり、佐竹氏は清和源氏であるために白旗を掲げていたが、それでは頼朝が掲げている白旗と区別がつかないので、扇を与え、これを旗の上に付けよ、と言い渡す。のちに、佐竹氏は旗印に扇を描くようになる。それが、佐竹氏の「扇に月丸」の家紋。

その他、三浦氏は「三浦三つ引」、和田は「丸の内に三つ引」、結城氏が「三頭右巴」、土肥氏は「左三つ巴」。新田氏が「一つ引両(大中黒)」、足利氏が「二つ引き両」。佐々木氏は「目結紋(めゆいもん)」、これは鹿の子絞りの文様をもとにした家紋であるとされる。             (秋月さやか)

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