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坂東武者と馬たち 磨墨と池月   吾妻鏡の今風景34

 (平安時代の騎馬武者は)「駈けさせながら相手を射倒す騎射の術、馬上の組みうち術、一ツ所で蹄をかつかつ鳴らしながら馬を回転させる輪乗りなど、坂東武者のもっとも得意とするところであり、平家武者はつねにそれを恐怖していた。」(司馬遼太郎)
 
 馬。戦国武将にとっては、もしかして恋人(女性)よりも大切な存在!

 安房に逃れた頼朝が太夫崎(鴨川市江見太夫崎)の洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけ、「太夫黒(たゆうぐろ)」と名付けた。太夫とは領地を持つ豪族の呼称なので、ブラックロード(黒領主)といったところか。
 のちに頼朝は千葉夷隅市の長福寺で平家追討の書状をしたためるが、この時、寺に「硯山」の山号をつけ、また、1頭の馬に、その黒い毛並みから「磨墨」と名付けたとする言い伝えがある。硯に墨。「太夫黒」を「磨墨」と改名したのか、もう一頭、黒い馬を見つけたのか。
 (なお、義経が乗っていた馬も大夫黒で同名、こちらは奥州平泉を発つ時に藤原秀衡から贈られた馬。ある意味、黒い馬には、太夫黒という名前が好んでつけられたのか。いっそ、黒ラブに、太夫黒とか、磨墨とかつけてみたいよ~。)

 そして、隅田川を越えて、千束郷に陣を置いた時に出会ったのが池月であるとする。
 「折りからの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶く声、天地をふるはすばかり。郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。頼朝先に磨墨を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く掲げ歎声やまざりしとか。」(千束八幡神社「名馬池月発祥伝説」より)
 池月は、生唼(いけづき)、生食(いけづき)とも記載され、近づく馬には嚙みついたとされるほど気性の荒い馬。唼は齧るという意味の漢字。軍馬は気が荒いほどよいとされていた。
(噛み癖のある犬に生食(イケヅキ)、とかってつけるわけにはいかず。)

 しかし『吾妻鏡』には、安房から隅田川(墨田川)を越えて鎌倉へと入る途中、千束郷に立ち寄ったという記載はない。となると、池月をどこで手に入れたのか。千束郷に陣を置いたのはいつなのか。

 池月の故郷については諸説あり、たとえば下総国小金ヶ原。千葉県手賀沼沿岸から松戸市、流山市、野田市にかけての一帯。水戸街道に呼塚(よばつか)というところがあり、手賀沼に注ぐ大堀川と水戸街道の交点で、古くは野馬を呼び集める場所であったための地名。その呼び集められた野馬の中でも評判の名馬が池月であるとする。 野馬といっても、もともと日本に馬はいなかったので、大陸からつれてこられた馬が、脱柵組として野馬になったわけですが。

 池月は文献によれば、「青き毛並みに白き斑点を浮かべ」た馬とある。が、青き毛並みとは何色? 「青馬(あおうま)」とは、白い毛並みの馬を意味する。が、これが「青毛」となると、これは青光りするほどの黒い馬という意味で、つまりは黒馬となる。白なのか?黒なのか?
 『平家物語』では、池月は黒栗毛の馬と記されている。つまり、黒茶色の毛並み。白、黒、茶色。池月、いったいキミは何色だったのか? せめて白黒だけでもハッキリして欲しいんだが。

 白い斑点があるというところから、「芦毛(あしげ)」と呼ばれる馬であったかもしれない。芦毛は、生まれた頃は栗毛など黒っぽい色で、加齢に従って徐々に白く、つまり色が変わっていく。なるほど。池月はたぶん「芦毛」であったのだろう。
 
 頼朝は池月が超お気に入りで、義仲追討にあたって景季(梶原景時の息子)が池月を所望したが、これを断り、代わりに磨墨を与える。しかしそのあとで、佐々木四郎高綱に懇願されて、池月を与えてしまう。池月のことは景季には内緒だからな、と口止めするのでありましたが、いや、それは無理というもの。
 
 平家物語『宇治川の先陣』は「ころは睦月二十日あまりのことなれば〜」で始まる。睦月といえば立春過ぎからの寅月。二十日あまりといったら、グレゴリオ暦2月の末から3月にかけて。
 「平等院の丑寅、橘の小島が崎より武者二騎ひつ駆けひつ駆け出で来たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり。」
 梶原景季、佐々木高綱が池月に乗っているのを発見。その馬は…の問いかけに、頼朝さまの厩から盗んできた、と答える高綱。
 だからといって、景季も負けられない。先行したのは磨墨に乗った梶原景季。
 が、佐々木高綱も景季には負けられない事情がある。そこで策を用いる。「梶原殿! この川は西国一の大河。お気をつけくだされ。馬の腹帯が少し弛んでいるようにお見受けする。」景季は馬の腹帯を締めなおそうと立ち止まるが、その隙に高綱に先を越される。景季、高綱に先を越されたことに気付き、「佐々木殿!水の底には大綱があるかもしれぬ。気を付けられよ。」と声をかける。
 高綱は太刀を抜いて水底の大綱を切りながら進み、向こう岸にあがって「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男・・・」と名乗りを上げたのであります。しかし、先陣争いというのは、どうも内輪モメという感じでよろしくありませんなあ。
 
 池月は宇治川の戦いで矢傷を受け、五霞町の高綱の陣屋まで辿り着き、そこで息を引き取ったとされる。茨城県猿島郡五霞町にある幸主名馬尊(こうしゅめいばそん)は、池月を祀った場所。
 「生唼(池月)は高綱とともに合戦に参加しましたが、幸主にあった高綱の陣屋までたどり着いたとき、息を引きとってしまいました。高綱は生唼をまつるため塚をつくり、のちに拝殿が建立され名馬尊として信仰され、農耕馬が使われていた昭和の戦前までは多くの参拝者があり、祭礼はにぎやかなものでした。」(五霞町のサイトから)
 五霞町は日光街道と利根川が通っている交通の要所で、五霞インター近くの道の駅五霞には、大型トラックがずらずら並んでいる。

 しかし池月は宇治川の戦いののちも存命で、故郷の小金ヶ原に帰され、そこで天寿を全うしたという説もある。池月を埋葬した場所は「高塚」(千葉県松戸市高塚新田)であるとする。武蔵野線の東松戸…松戸から市川へと抜ける途中、畑と宅地が混在しているあたり。といっても、さて、どこに池月の墓があるのか、馬の墓というからには馬頭観音が祀ってあるはずだ、と思って探してみたが、よくわからない。
 
 一方の磨墨は、大田区南馬込の磨墨塚が有名ですが・・・。
 しかしここにあった屋敷は、梶原景時一族の屋敷ではなく、のちの北条家臣梶原氏の館であったようです。従ってここにある磨墨塚は、(宇治川の先陣争いをした)磨墨を葬った塚ではない。といっても、後世、磨墨と名付けられた馬がいた可能性はあり、となると、じゃないほうの磨墨塚というところなのか。
 では、元祖磨墨塚はというと、これは愛知県犬山市羽黒の磨墨塚。梶原景時一族が討ち死にしたのち、景時の次男景高の子、豊丸が羽黒の地に落ちのびて磨墨を葬った塚であるとする。豊丸は景親と名乗って館を構え、その子孫は織田信長に仕えたとされる。



洗足池。


青き毛並みに白い斑点。青ですか、青。そんな毛並みの馬はおりもうさん。


青というか、こりゃ緑だわ。洗足池のほとりにて。


4号線を北上中。


向こうに見えますのは4号線バイパス。


古い集落なので、道は狭い。4号線バイパスを越えると、道の駅。


かつて十九夜講が行われていたらしい。如意輪観音を祀り、女性たちが集まる念仏講。

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