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武田氏のルーツ武田館(常陸国)を訪ねる    吾妻鏡の今風景18

富士川の戦いの源氏側の勢力は、武田軍(甲斐源氏)+頼朝連合軍。甲斐源氏もまた、以仁王の令旨によっての挙兵であった。甲斐源氏の頭領は武田太郎信義(たけだたろうのぶよし)、新羅三郎義光の曾孫。

なお、武田信義は源清光の次男であるが、双子の兄の逸見光長とともに太郎を名乗ったとされる。
出生は大治三年八月十五日(1128年9月11日)、『尊卑分賑』によれば「逸見冠者清光の子也、逸見太郎光長同日同胞二児出生、ヨッテ両人共、太郎ト号ス、逸見太郎光長ハ巳時、信義ハ午刻誕生」。つまり、光長は午前9時から11時の間、信義は11時から1時の間の生まれであるとする。実際双子はまったく同時に出生するわけではないし、2時間差ならアセンダントは異なる。
(9月11日0時は 太陽24乙女30 月29魚17 水星08乙女27 金星17獅子36 火星10蠍23 木星00蠍26 土星14天秤01 天王星19乙女32 ドラゴンヘッド26乙女45)

甲斐源氏は正しくは常陸源氏武田氏というべきかと。新羅三郎義光は、常陸国の権力者、平清幹の娘を娶り、長男の義業(よしなり)の息子の昌義(まさよし)に佐竹郷(常陸太田市)を、武田郷(ひたちなか市武田)を三男の義清に与えた。

義清パパと息子の清光。でもどっちがパパだかわかんない。マリオ兄弟の武者バージョン?

義清は武田郷から「武田冠者」を名乗る。義清は乱暴者で、さらにはその息子の清光(義光の孫)も乱暴者。さすが義光の血筋ではある。
が、大治五年(1130年)、土地の境界を巡って平清幹一族と争って負け、武田一族は甲斐国へ配流。(注・義光は大治二年十月二十日(1127年)に死没している。)

勝田駅前のビジネスホテル「みまるや」より武田館方面を臨む。「みまるや」のおばさん元気かな?

さて、私は中学生時代まで水戸近郊で育った。常磐線の勝田駅から歩いて20分ぐらいのところに武田という地名があり、そのあたりの農家は武田姓であった。クラスには各1~2人は武田姓がいた。中学校の社会科の授業中、「武田信玄の祖先って武田君のご先祖なのよね?」と、先生が突然、武田A君に聞いた。「え~と…わかんない…です。」と、普段からおとなしい武田A君がさらに小さな声で答える。「あら? 今度、おじいちゃんに聞いてごらんなさい。」
姓が同じだから先祖が同じというのはいくらなんでも。だって武田信玄、甲斐の国の人だよね? きっとあれは武田A君に、もっとしっかり勉強しろという意味で質問しただけなのだと私はそう思っていた。

那珂湊線。懐かしいといえば懐かしい。

しかしそれから20年ぐらい過ぎた頃、ひたちなか市武田に、武田氏館ができたというではないか。調べてみたらなんと。甲斐の武田氏のルーツは、常陸の武田郷だと書いてある。

北関東平野の夕陽。ひたちなか海浜公園近くにて。

というわけで、行ってみました武田氏館。勝田駅西口から南をめざし、セブンイレブンを越してさらに南へ進むと、武田氏館の看板が出てくるので、左へ入る。
この館、駅から歩くにはやや遠く、車だと道がわかりにくく、(当時の)カーナビでは畑の中の道なき道を進んでいると思ったら新築一戸建てに行く手を阻まれ、「この先行き止まり」でスイッチターンを繰り返しながら、カーナビを確認。初回は叔母と一緒にいったのだが、「大丈夫?武田館、もうなくなっちゃったんじゃないの?」と叔母は心配そうであった。
帰りは帰りで、なぜかもと来た道には戻れないという、摩訶不思議なぐるぐる迷路(ラビリンス)。結界か? 次に行く時は、勝田駅西口の駐車場に車を止めて歩こうっと。

こういう立地。線路は常磐線。

 
武田氏館は、小高い台地の南端に建ち、今は木立に囲まれてはいるが、南に那珂川と水戸の台地を臨むことができる。現在、南に広がっている田は、平安時代は沼、つまり那珂川の一部であったと思われる。那珂川の河口には、大洗と那珂湊。水戸周辺の地形は、低地と台地の連続で、台地の端の崖下からは水が湧いている。
常磐線に乗って水戸から勝田に向かうと、列車が那珂川を渡って水田を越え、小高い丘に入ってすぐ左側の木立の中が武田氏館。

が、武田一族は、甲斐に配流になったわけだから、のちに武田郷に住んで武田を名乗った人たちは、乱暴者の新羅三郎義光の子孫ではなかろう、と、あのおとなしい武田A君を思い出しながら私は思ったわけですが。  (秋月さやか)

水戸から勝田へ。このたんぼの中の道は、大雨が降ると水没します。武田館は右手奥。

 

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