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戦いのお日柄選びと、富士川の合戦  吾妻鏡の今風景15

治承四年(1180年)旧八月十七日の頼朝旗揚げの知らせが福原の清盛のところに届いたのは旧九月一日。頼朝挙兵の知らせを受けた福原では、さっそく源氏討伐軍が組織される。
総大将は、清盛の孫の維盛(これもり)。光源氏の再来と噂されたほどの美男子で、この時、23歳。出陣の姿はというと、赤地錦の直垂(ひたたれ)、萌黄の大鎧。馬は連銭葦毛(グレーのまだら馬)。そして金覆輪の鞍、これは前後を金で縁取りしたという、大変に豪華な鞍。
副将軍の忠度(ただのり)は平清盛の異母弟で、こちらは紺の直垂(ひたたれ)、黒糸おどしの鎧。馬は黒毛。沃懸地(いかけじ)の鞍。沃懸地(いかけじ)とは、漆地に金銀粉をちりばめた、つまりラメ。
ビジュアル系の2人が贅を尽くしたファッションで並んだ姿はそれはそれは美しく、絵にもかけない美しさであったという。だからなのか、絵は残っていない。


平家が逃げていった、と伝わる場所。平家越え。
 

討伐軍は、旧暦九月二十二日に福原を出立。(この段階でかなり時間がかかっていると思われるが)、ようやく京に入り、さあ東国に向けて出立! と思ったら、ちょっと待った~。維盛の乳父(めのと)、つまり守り役の藤原忠清が、出陣のお日柄を選ぶべきと主張、しかし日取りはなかなか決まらなかった。

お日柄、暦占。貴族たちが使っていた具注暦(ぐちゅうれき)は、日付の下に日の吉凶を書き込んだ、今風にいうならデイリー占いカレンダー。
討伐のような重要イベントには、凶日を避け、吉日を選ぶことが大切なのはいうまでもない。
日の吉凶なんて迷信じゃん?そう、迷信ですよ。が、現代社会にあってさえ、仏滅の結婚式は少ない。なぜか。仏滅に結婚したら不幸になると信じているからではない。社会的なイベントにおいて、身内の不安を煽らず、招待客が訝しがるようなこともせずという配慮の結果、仏滅を避ける人たちが現代でも大勢いるということだ。(注・平安時代には六曜はなかったので、仏滅もないんだけど。)
 
戦でも同様、たとえ大将が凶日を気にしていなくても、兵たちは気にする。凶日だが気にせず戦え、ではなく、吉日だから安心して戦え!と言ってこそ、士気は高まる。

 

ここが戦いのあった浮島が原。日本吸血住虫の生息地でもあったので、注意。

が、暦占には圧倒的に凶日が多い。平安時代の凶日はざっと以下のような感じ。

1・受死日(じゅしび)。黒日とも言い、最悪の大凶日とされる。
2・十死日(じゅうしび)。
3・帰忌日(きいみび)。天棓星(てんぼうせい)の精が地上に降りてきて門前で帰宅を妨害するという、とんでもない日、遠出や嫁取り、出兵はNG。
4・血忌日(ちいみび) 殺戮の気を司る梗河星(こうがせい)の精が地上に降りてくる日で、この日に血を見ることはNG。猛獣かよ。
5・凶会日(くえび)。「くゑ」。陰陽二気の調和がうまく行かず、忌むべき日であるが、さまざまな種類があるので、いちがいに戦ダメともいえない。
6・絶命日(ぜつめいび)。出陣には凶。だって絶命ですよ、、、
7・往亡日(おうもうにち)。「往(ゆ)きて亡ぶ日」の意味で、行軍や遠行はNG。
8・三箇の悪日。生年の十二支によって占うもので、大禍日、狼藉日、滅門日がある。
9・天一神遊行(てんいちじんゆぎょう)。天一神は北極星の精、天一神が巡る方位は方忌みとして避ける。
10・大敗日。読んで字のごとく、戦いに敗ける日、兵忌日とも。普通はこの日には戦いしない。(普通はね。


平家越え交差点

治承四年の旧暦九月は、ユリウス暦では10月後半、二十四節気では寒露、霜降の頃、つまり戌月。暦占の多くは節切で、戌月の凶日に相当する日は以下。(注・宣明暦は平気法。定気法の二十四気ではないので、エフェメリスの太陽黄経は使用できない。ここがちょっとややこしい。)
注・5・凶会日はすべてが凶というわけではなく、なにをするかによるが、戦いにはあまり関係ない。9.10については節切ではないので省略します。

1・受死日(じゅしび)→戌月寅日
2・十死日(じゅうしび)→戌月丑日
3・帰忌日(きいみび)→戌月子日
4・血忌日(ちいみび)→戌月巳日
5・凶会日(くえび)→戦いには関係ないので省略(弔いには関係あり)
6・絶命日(ぜつめいび)→亥日・寅日
7・往亡日(おうもうにち)→節入りから27日め。
8・三箇の悪日については大将の生年の十二支による。頼朝は久安3年旧4月8日、年支は卯。維盛は平治元年で年支は卯。卯年生まれの12歳違いという関係性で、いずれも大禍日は午日、狼藉日は卯日、滅門日は子日。滅門日は、一族がことごとく滅亡するというたいへんに縁起の悪い日。まあ結果的には、頼朝の一族も平家も滅んでしまったわけですが。

次に、吉日もチェックはしておくが。
A・兵杖吉日。鎧や武器を装備するのに良い日。室町時代は重視されたが平安時代はどうだったのか?
戌月は、己巳 己酉 己卯 壬申 壬午 壬辰 壬子 壬寅 癸卯 癸酉 癸丑 戊寅 戊申 戊戌
B・天赦日(てんしゃび)。戌月の天赦日は戊申日。
C・神吉日(かみよしび)。ただし神吉日は縁起日なので、関係ない時には関係ない。
D・大明日(だいみょうにち)。不断。ただしたぶん関係ないので省略
E・十二直。戌月は、戌日を建として、建、除、満、平、定、執、破、危、成、納、開、閉の12サイクルで巡る。なお、戦いには破がよい。破軍星からの連想であろうと思われる。

治承四年旧暦九月二十三日から九月三十日までの日干支と十二直、上に記載した日の吉凶を実際に記入してみる。

9/23壬申 開 大敗日 兵杖吉日
9/24癸酉 閉 兵杖吉日
9/25甲戌 建 凶会 
9/26乙亥 除 絶命
9/27丙子 満 帰忌 
9/28丁丑 平 十死 
9/29戊寅 定 受死 凶会 絶命 兵杖吉日 
9/30己卯 執 兵杖吉日

実際に討伐軍が京を出立したのは治承四年旧9月29日であった。
9/29は受死(黒日)なのでどう考えてもよくない。お日柄間違っていない?と疑ってみたくなった頃に、『山槐記』に、お日柄の話があるのを発見。それによれば、忠清が9/28の十死日を問題にしたらしい。
十死は十死一生の日と称され、(九死に一生を得るではなく、十死に一生なので、九死よりも生き残る確率が低いということになり)、この時代、受死日(黒日)よりも忌み嫌われた日であったということになる。なるほど、暦占にも時代の流行があるらしい。

陰陽道のテキスト『簠簋内伝』に、十死は「酉巳丑酉巳丑酉巳丑酉巳丑」とある。つまり、節切九月には丑日が十死日となり、そこから9/28日はNGになったということ(らしい)。

というわけで、凶日を避けての出立であったというのに、富士川(浮島ヶ原)の戦いでは、平家軍は、戦わずして逃げてしまった。だからね、お日柄なんて、アテになりませんって。   (秋月さやか)


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