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頼朝さまを取り巻く女たち 亀の前とは誰なのか   吾妻鏡の今風景33


 歴史上の有名人は公人なので、プライバシーなどない。頼朝さまの女遍歴もすでに暴かれている。なにやら週刊誌スキャンダルを追いかけるライターの所業のような気分ではありますが。
 
 まずは伊豆の流人時代に侍女として仕えていたという利根局。出自は波多野経家の三女(養女)。のちに中原親能(大江広元の兄)の妻になるが、この時、息子の能直(よしなお)をつれて嫁ぐ。当然、能直には頼朝の御落胤説がある。能直は、この時代にあって出生年月日が判明している人物なのであります。承安二年一月三日(1172年1月29日)。
 能直は、相模国足柄上郡大友郷(小田原市上曽我)の所領を与えられ、大友能直と名乗った。そう、大友氏の祖。あの大友宗麟、ドン・フランシスコの祖先ですよ。
 『吾妻鏡』によれば、能直は頼朝の「無双の寵仁(並ぶ者のないお気に入り)」で、曽我兄弟の打ち入りでは、曾我時致から頼朝を守った。
 能直の父は相模の役人の古庄能成という説もある。しかし出生年月日が判明しているのは、たいてい身分の高い家の生まれ、ということから考えると、これはもしや、もしかして?(公式には、能直は頼朝の息子であるということにはなっていません。)
 
 伊東八重。承安三年(1173年)、2人の間に生まれた子が千鶴丸、(ただし、詳しい生年月日は不明)、八重の父の伊東祐親は流人の頼朝と娘の仲を認めず、郎党に命じて千鶴丸を松川に沈めさせた。安元元年(1175年)、千鶴丸数え3歳。祐親は頼朝をも殺害しようとしたが、祐親の次男、祐清(八重姫の兄弟)が頼朝を走湯権現に逃がす。さすがに八重との仲はそこでオシマイになり、のちに八重は北条義時と再婚。
 
 丹後内侍。源頼朝の乳母の比企尼の長女、つまり頼朝の乳姉妹という間柄。丹後内侍と頼朝の間の子が島津忠久、という言い伝えが島津家にはある。ただし、これは島津家限定ですが。それによれば忠久の生年月日は治承三年(1179年)十二月三十日。
 のちに丹後の内侍は公家の惟宗広言(これむねのひろこと)、後白河法皇の側近であった人物に嫁ぐが、離縁。
 忠久出生については安元三年(1177年)説があり、これは奥州合戦時に畠山重忠を烏帽子親として13歳で元服したという記載がることから。奥州合戦は文治五年(1189年)だから、その記載が正しいとなると忠久は安元三年生まれ。しかし島津家の言い伝えが正しいとするなら、数え11歳で奥州合戦に参加したことになる。まあ、ない話ではないけれど。
 丹後内侍は、のちに安達盛長の妻となり、その娘(亀御前)が源範頼の妻となった。忠久は鎌倉幕府御家人として、文治元年(1185年)に摂関家領島津荘下司職に任命された。

 そして、北条政子。政子との間には大姫(三島神社の旗揚げの時、すでに大姫がおり、大姫出生は1176年~1178年頃)。寿永元年(1182年)八月十二日に万寿(頼家)、文治二年(1186年)に三幡(乙姫)、建久三年(1192年)八月九日巳の刻、千幡(実朝)。大姫と三幡は若くして病没。頼家、実朝は殺害された。
 
 亀の前が登場するのは頼朝が鎌倉に入ってから。頼朝は、亀を小坪の中原光家(なかはらみついえ)の屋敷に預けていたが、のちに逗子飯島の伏見広綱の屋敷に預ける。亀の実家については不明で(父の吉橋入道という人のことはよくわからず)、つまり力のある実家ではないということ。時政の後妻の牧の方が、政子に亀の存在を告げ口。牧の方って、ほんとに底意地が悪くて嫌な女だわ。牧の方がいなかったら、鎌倉幕府はもうちょっと安泰だったのではないか、とさえ思えますので。
 政子は牧宗親に命じて広綱の家を破壊するという事件に発展。これが寿永元年(1182年)。伏見邸を破壊され、亀は三浦義明の三男、大多和義久の葉山の鐙摺の居城に逃げ込む。頼朝は牧宗親を叱責し、懲戒。一方、伏見広綱はというと、こちらは政子の怒りに触れて遠江国に流罪。
 とまあ、ここまでは『吾妻鏡』に記載がある。が、問題はその後、亀がどうなったのかがよくわからないということ。『吾妻鏡』には欠落箇所があり、この亀御前事件の顛末が欠落箇所にあたる。一説によれば頼朝は亀のために三崎に椿御所を建て、度々、椿御所を訪れたという。
 頼朝が世を去ったのち、亀はその菩提を弔うために尼となり、椿御所跡に寺を建立。『新編相模風土記稿』には「法名大椿寺法円妙悟尼、寛喜二年(1230年)正月廿五日逝去す、宮川村に墓あり、寺記に妙悟尼は頼朝の室なりと云ふ、頼朝の夫人は政子にて事実卒年等も符合せず、こは全く鎌倉の侍女にて、後剃髪し此地に住せしならん。」とある。つまり尼になった亀の法名が妙悟尼、頼朝の室であったという記載に間違いはない。なお、宮川とは、三浦の宮川で、今はキャベツ畑が広がっている。
 鎌倉には、面掛行列(めんかけぎょうれつ)という行事がある。これは御霊神社で行われる行事で、「はらみっと行列」とも呼ばれる。はらみっとは「孕み女」、妊婦のこと。行列は、猿田彦(さるだひこ)を先頭に、爺(じい)、鬼、異形(いぎょう)、鼻長(はななが)、烏天狗(からすてんぐ)、翁(おきな)、火吹男(ひふきお)、福禄寿(ふくろくじゅ)、阿亀(おかめ)、女(産婆)の面を被った人物が行列するが、阿亀(おかめ)は大きな腹を抱えた妊婦の姿。
 この祭りの起源は、頼朝が長吏頭(非人たちの頭)の娘を寵愛し、その娘が子を授かったことに由来しているとされる。が、「おかめ」ですか。もしかして「おかめ」は亀? 屋敷を打ち壊した北条政子に対抗すべく、面掛行列(めんかけぎょうれつ)を行ったのではないか、などと考えてみたくもなるわけで。となると、妊婦のおかめが生んだ子とは、いったい誰? 
 
 大進局。常陸介藤原時長(常陸入道念西、伊達氏の祖)の娘で、大倉御所に仕えていた女房(女官)。
 文治二年(1186年)二月二十六日、人目を憚り、長門景遠宅で頼朝の子(男子)を出産。が、北条政子の勘気に触れ、出産の儀式を行うことができなかった。『吾妻鏡』によれば、出産場所を提供した長門景遠は、北条政子の勘気を蒙り、失職。
 大進局の生んだ男子は亀王丸と名付けられ、母子は深沢のあたりに隠れるように暮らしていたが、鎌倉にさえもいられなくなり、亀王丸は仁和寺に預けられ、出家して貞暁と名乗る。大進局もまた出家し、摂津国で暮らした。政子はさながらゼウスの妻のヘラのようであり、大進局は、ヘラに迫害されたレトのごとし。
 高野山の編年史『高野春秋』によれば、貞暁は北条義時に命を狙われ、承元二年(1208年)三月に高野山に移る。実朝暗殺ののち、北条政子が時房を伴って高野山を訪れ、貞暁に還俗して将軍になる意志を問うたところ、貞暁は片眼を潰して拒否の意志を伝えたとある。寛喜三年(1231年)二月、病により46歳で死去(自害説もある)。大進局が我が子に先立たれたことを深く嘆いたと『明月記』に記されている。
 
 と、並べてみると、なんか、哀しい話ばかり。権力者の周囲の女性って、幸せにはなれないのか。


伊東の音無神社。頼朝と八重姫の逢引の場所。


蛭が小島。背後の夜空に写っているのはからす座、その左の明るい星はスピカ。デジカメでもこのぐらいは写ります。


城ケ島大橋のたもと、向かって左側の高台が、かつて椿の御所があったとされる場所。右側は城ケ島へ。


せっかく三浦に来たので、よこすかJAの直売所すかなごっそで、マグロ切り落とし丼。たまには贅沢したい。


こちら、鎌倉の力餅家。ここを右に曲がれば御霊神社、まっすぐいくと極楽坂切通。

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