三浦城ケ島の楫三郎山神社、在りし日の風景 吾妻鏡の今風景46
三浦の守護神は藤原資盈(ふじわらのすけみつ)。海南神社に祀られている。
海南神社由緒によれば、
「御祭神・藤原資盈公は、天兒屋根之命の苗裔で、九州太宰少弐広嗣の5代の孫に当り、五十六代・清和天皇の御宇、皇位継承争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかった為、讒訴で追討の罪を蒙って筑紫の配所に航する途中、暴風に遭遇して貞観6年(864)11月1日父子3人、郎党53人は当地に着岸した。(公の嫡男は房総半島に漂着し、現在の鉈切大明神は資盈公の嫡子を祀ると伝えられる。)その後、資盈公は土地の長に推戴され、房総の海賊を平定し、郷民を教化して特に漁業の知を開き、文化の礎を築くなど福祉に努力したので、郷民の尊崇の念も篤く、貞観8年(866)に公が歿すると、其の亡骸を海に沈め、祠を花暮海岸に建立して祀った。後、花暮の祠を本宮として天元5年(982)に現地に社殿を造営し、三浦一郡の総社となる。」
また別の資料では、
「資盈は太宰大弐(だざいのだいに)(太宰府の副長官)廣嗣(ひろつぐ)四代の孫なり。貞観六年、伴大納言善男、左大臣源信を亡さんとの企ありて資盈を語らふ、資盈肯(した)がはず、善男怒りて資盈謀反の聞えありと讒す。此に於て資盈を追討すべきの勅あり、資盈九州に居ることを得ず、父子三人郎等五十三人を具して、海に浮び十一月一日、此地に着す、時に房総の海賊民家を煩はす、資盈是を討て、殃(わざわい)を除く、土民尊敬浅からず、同八年十一月一日夫婦郎等四人相共に没す、その死骸を海に沈め、祠を建て神に祀ると云ふ、按ずるに此の事、国史に所見なし、系図に拠に、廣嗣は宇合の子、天平十二年、謀叛の聞えありて誅に伏す。」
藤原資盈は藤原宇合(ふじわらのうまかい)の子、広嗣の子孫。
貞観六年、伴大納言善男は、左大臣源信を滅ぼそうとし、その企てに資盈を誘うが、資盈が従わなかったので、善男は資盈が謀反を企んでいると讒言する。
資盈は(九州に左遷されたのかもしれないが)、船で九州から脱出(もしくは九州へ行く途中に遭難し)、三浦の地に流れ着く。その頃の三浦は、房総の海賊が横行する物騒な地であり、資盈は海賊を滅ぼす。同八(866)年十一月一日夫婦郎等(郎党?)四人が亡くなり、祠を立てて神として祀った。
「夫婦郎等四人相共に没す」。資盈とその妻の盈渡姫、そして家臣4人の計6人が共に亡くなった、と読めてしまうのだが、これは房総の海賊との戦いで命を落としたということ?
家臣4人とは太郎、二郎、三郎、四郎。太郎は三浦の向ヶ崎諏訪神社(大椿寺よりも海南神社寄りの場所)に、二郎は三崎住吉神社(うらりから山のほうへと登る)に、三郎は西の小島に祀られた。その小島を楫三郎山という。楫は舵(かじ)、船の舵のこと。三郎は船乗りであった。楫三郎山はもとは陸から離れた小島で、長らく禁断の地であったが、大正の頃にその島の山に登ってみると、そこには墓石があったという。戦国時代に相模三浦氏の当主であった三浦時高ゆかりのものらしいが、そこに誰が眠っているのかはわからない。もしかしたら時高の墓の可能性もあるのだろうか。(時高は三浦道寸の養父) のちに関東大震災で海底が隆起し、楫三郎山(小島)は城ケ島に繋がった。
四郎は、石をかみ砕き、鉄を爪で切る勇猛大剛で「洲荒御前(すあらごぜん)」と称され、城ケ島の東に祀られて洲乃御前神社となった。
城ケ島には、頼朝も立ち寄り、島で酒宴を開いた。その頃は、城ケ島大橋はなかったので、城ケ島へは船で渡る。まさにアイランドリゾート!
かつて城ケ島にあった城ケ島京急ホテルは、新型コロナウイルス禍で2020年4月に休業、閉館。
2022年に城ケ島に行った時、楫三郎山神社の前の浜茶屋のような建物はすでに閉店して久しいらしかった。が。その古い建物どころか、神社もない、というではありませんか。海外資本がこの場所を買い取り、リゾートマンション建設のために、更地にする計画らしいです。(注・2024年9月、神社はすでにないが、山はまだあるらしい。今後どうなるかはわからない。) 在りし日の風景をここに残しておきます。
さて、伴善男(とものよしお)は伴大納言。貞観八年(866年)閏三月、応天門放火事件が起こる。これが「応天門の変」で、善男はその犯人を左大臣の源信であると告発。しかし八月、応天門の放火は善男とその息子らの陰謀とする密告があり、善男は伊豆国へ流罪。貞観十年(868年)伊豆で死去。
伊豆市吉奈の善名寺に「伴氏二親生霊 善魚 善足」の文字が刻まれた仏像があり、伴善男の子孫は、伊豆に土着し、国衙に勤務する官人になったとされる。吉奈温泉は神亀元年(724年)、行基が発見したとされる伊豆最古の湯。(吉奈温泉のことはまたあとで。)
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