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八幡太郎は恐ろしや 期待のヒーロー、それともデストロイヤー? 吾妻鏡の今風景41

「鷲(おおとり)の棲む深山には、概(なべて)の鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」『梁塵秘抄』

 茨城ではイラガの幼虫を八幡さま、と呼ぶ地域がある。爺さまたちが、芋の葉の裏側をめくってイラガの幼虫をみつけると、「ありゃこら、八幡さまだっぺえ、触んじゃねえ」とか嫌そうな顔するわけですよ。イラガで検索してみてください。個性的でいかにも凶悪なルックスの毛虫。イガイガの毛には毒があり、触っちゃダメなやつ、触ると腫れるやつ。
 
 八幡さまとは八幡太郎義家のこと。軍神、八幡太郎義家。が、八幡太郎は病神でもあった。みんなから嫌われ、しかし強すぎるので誰も逆らえない。触らぬ神に祟りなし、触ったら祟る。それが八幡太郎義家。

 水戸に渡里という場所がある。水戸北インターチェンジの近く。水戸北インターチェンジは、何年か前に台風で那珂川が氾濫して水没したインターチェンジとして有名。機械が全部ダメになったんでしたっけね。

 那珂川沿いの高台に、昔、一盛長者という豪族が住んでいた。高台なので、台風がきても水没はしない。後三年の役で奥州に向かう源義家が、その一盛長者の屋敷に立ち寄った。長者は三日三晩の酒宴を開いて義家をもてなした。義家は奥州を平定した帰りに再び一盛長者の屋敷に立ち寄った。長者は再び義家をもてなした。しかし義家は考えた。このような富豪を野放しにしておいてはいけない。のちのち朝廷に叛くかもしれぬ。義家は長者の屋敷に火を放ち、矢を射かけた。長者は那珂川に身を投げた。


那珂川


正面の奥が高台、左手が那珂川流れている


畑の中にぽつんと。探すのに手間どった。


まあそういうわけで。読めますでしょうか。


 
 同様の言い伝えは、水戸の隣のひたちなか市にもある。そこは長者ヶ谷津という場所で、その屋敷に義家が立ち寄り、長者は義家の家来300人分の食事を出した。義家は、奥州討伐の帰りに、再び長者ケ谷津に立ち寄り、屋敷を滅ぼした。かつて長者ヶ谷津には、鉱泉旅館があったが、先日近くを通ったら、介護施設になっていた。

 さらには笠間にも同様の言い伝えがあり、場所は上安居、名前は持丸長者。引き連れていた家来は5万人、やはり奥州への往路に立ち寄り、帰路に滅ぼしたという話になっているところは同じ。たぶん、ゴルフ場のあるあたり。

 さらにさらに。常陸太田市、旧金砂郷村大里薬谷地区、名前は薬谷長者。
 当地には長者屋敷遺跡(ちょうじゃやしきいせき)と呼ばれる古墳があり、発掘したところ、奈良~平安時代の土器や瓦、炭化米などが出土したという。炭化米は、戦いなどで米蔵が燃えたところから出土する。つまりここにはかつて米蔵があり、焼き討ちにあった可能性が高い。
 道の駅ひたちおおたから車ですぐの場所。あたりには古墳が多い。那珂川の渡しが近い。笠間と常陸太田、水戸と常陸太田を結ぶ道があり、さらに高萩を経由して海に降り、勿来の関まで行く道が通じている。

 とにかく、八幡太郎義家が、常陸国の長者を滅ぼした、ということだけは間違いなさそう。
 


水郡線、瓜連(瓜連)駅、
戦国ファンにはおなじみ瓜連城近く。でも、平安時代末期には、まだ瓜連城はない(たぶん)。

「鷲(おおとり)の棲む深山には、概(なべて)の鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」

 鷲(おおとり)とはここでは八幡太郎義家のことであるが、本来、鷲(おおとり)は、ヤマトタケルノミコト。鷲(おおとり)神社は、ヤマトタケルノミコトが辿った場所に建てられている。
 足立区花畑の大鷲神社。そして茨城県那珂市にある鷲神社、(わしじんじゃ)と読ませるらしいのだが、地元の人は(おおとりさま)と言っている。言い伝えによれば、この地に大きな松の木があり、そこに毎年、大きな鳥がやってきていた。ある時(鳥の霊が?)土地の人にのりうつって「我は武尊神(タケルノミコトノカミ)である」と告げる。それが本当かどうか審神者(さにわ)が占いをしたところ(注・どんな占術かは不明であるが、鹿の肩甲骨を焼いたとか、まあそんな感じ)、三回占ったが同じ結果が出るので、本当だろうということになり、大同二年(807年)、神社を創建。
(注・那珂市の鷲神社は、水郡線の鴻巣の近く。茨城県植物園、古徳沼という白鳥飛来地が近くにある。)

 破壊神スサノオの分身がヤマトタケルノミコト、ヤマトタケルノミコトに習ったのが八幡太郎義家。八幡太郎義家は、ヤマトタケルノミコトの足跡を辿って奥州へと向かった。
 しかしだからといって、ヤマトタケルノミコトの破壊神の性質までをも真似ることはなかっただろうに。

 そして八幡太郎義家の子孫が頼朝。
 後三年の役は平安時代の永保3年(1083年)から寛治2年(1088年)にかけて。それから約100年後、奥州合戦は文治五年(1189年)、頼朝が奥州へと向かうことになる。

(注・今回、画像を整理してみて、あれ、写真撮ってなかった、というものが多かったです。次からは意識して写真を撮影して、整理をしていこうと思います。反省。
茨城の古い道をさんざん走り回っていたのに、「そのうち撮ろうね~」とか思っていたら、現地へ行く用事がなくなってしまいました。いつか、そのうち、ではなく、今やる!



茨城県庁展望台より、北の方角をのぞむ。常陸太田、八溝山、右手には日立の山塊、その先に高萩、勿来の関。

常陸太田の先、R461を通って高萩へ。八幡太郎義家の辿った道。横川温泉は八幡太郎の軍勢が逗留した場所。


サービス画像。横川温泉、たいへんよいお湯加減でございました。ちょっとぬるっとしている。



これが温泉の上流にある横川の滝。駐車場も、滝の途中まで降りていく階段もあります。
商用施設がまったくないのがよいです。


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