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義経のデビュー戦、一の谷への奇襲  吾妻鏡の今風景28

 義経、範頼の源氏軍は、都落ちした平家を追いかけて西へ。いったんは瀬戸内海を西へと逃げた平家軍であったが、瀬戸内海を制圧して数万騎の兵力を回復し、福原に集結。いまや、京を奪い返さん勢いであった。

 そして寿永三年(1184年)二月七日、一ノ谷の戦い。
 一ノ谷は、地図で見るなら福原よりも西、その背後は断崖絶壁で、海から攻めるしかないという場所。しかし平家軍の守りは堅く、海から攻めるのは難しい。そこで、源氏軍は、一の谷の背後の崖から攻める奇襲作戦を決行する。
 『平家物語』によれば、一の谷の背後に辿り着いた義経が、鞍を載せただけの馬を崖から落とし、足を挫く馬もいたが、数頭が無事に駆け下ったことを見届けると、先陣となって崖を駆け下ったとある。ああ、鵯越の逆落としね、と思われた方も多いかと思います。
 一の谷の背後にある(とされる)鵯越。その急峻な崖は、鵯(ヒヨドリ)が春と秋にこの崖を越す、鵯(ヒヨドリ)の渡りの場所であったことからの名称で、獣は猪、鹿、兎、狐の他は通ったことがない、とされる絶壁。が、言い換えれば、猪、鹿、兎、狐は通れるわけで、「鹿が通れるなら馬も!」と義経が主張したという有名な話。
 いや。鹿と馬は違いますって、蹄の数が。鹿は偶蹄類でチョキだけど、馬は奇蹄類、グーなのか?それともパーなのか?(正確には、馬は中指だけで立っているのだそう。トウシューズでのつま先立ちみたいなもの。で、それはグーなのか?パーなのか?)
 急峻な崖を馬で駆け下りることをためらう者がいれば、「三浦では朝夕このような所を駆けめぐっておるわ 」と佐原義連は一気に崖を駆け下り、畠山重忠は、大事な馬が足を折ってはいけないと、馬を担いで駆け下りる。(と言い伝えられていますが、たぶん創作。)


馬を担ぐ畠山重忠さま。といっても、この馬、サラブレッド。当時の日本にサラブレッドはいません。当時の武士が乗っていたのはもっと小さい木曽馬。でも担ぐのは無理だと思うが。


 まさか背後から攻められるとは思わなかった平家軍は総崩れとなり、結果は源氏軍圧勝。これが義経の華々しいデビュー戦であった。
 
 が、ここに重大な事実がある。それは、一の谷の背後には鵯越はない、ということ。地図を見るとわかるが、鵯越は福原(神戸)の背後の崖で、もしも鵯越を駆け下りたのなら、攻めたのは福原ということになる。一の谷は福原よりも西で、その背後にあるのは鉢伏山であって、鵯越ではない。
 
 『吾妻鏡』では、「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」と記しているので、一の谷の背後が鵯越、という認識になってしまったようですが、となると、さて、義経がかけ降りたのは、いったいどこであったのか。(その結論は出ておらず、多くの歴史学者が、いまだに、ああだこうだと論争しておられます。)

 しかし。数万騎ともされる平氏軍への奇襲作戦が成功したのには、もう1つ理由があった。合戦直前の2月6日、後白河法皇が平家に休戦命令の書状を出したこと。「和議もいたしかたなし」(これで戦が終わる)と平氏が思っていたところに、義経が奇襲をかけたというもの。不意打ちというべきか。
 寿永三年二月七日は、グレゴリオ暦でいうなら3月20日。つまり春分。当時の暦は宣明暦(平気法)で、中日(春分)は、実際の春分よりも2日ほど後にやってきていたが、仏への信仰が篤い平家のこと、福原で彼岸の法要の準備をしていたのかもしれない。

 源氏軍に敗れた平氏は海上へと逃げ去る。範頼は鎌倉へと引き上げ、義経は京に入った。

 義経は源平合戦のヒーローとして京で名を挙げる。白拍子の静御前と知り合ったのも、この頃か。8月6日、義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられ、9月には、頼朝が送ってよこした河越重頼の娘を正室に迎えた。義経が滞在した館は、京の堀川通り、河内源氏2代目頭領、源頼義(みなもとのよりよし)が築いたとされる源氏六条堀川邸。


イメージ画像。まあこんな感じで、貴族の館に呼ばれて宴会していたんでしょう。


2歳の牡鹿。角が生え始め。

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