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以仁王クーデター失敗後、頼政の首は東国へ 吾妻鏡の今風景02

   以仁王のクーデター計画はすぐに平家方に露見した。ま、そりゃね。諸国に令旨(りょうじ)を発した時点で、露見は時間の問題であったというべきで。
 
 クーデターの黒幕は源頼政(源三位頼政)、頼政は源氏一族の長老で、摂津源氏。まずは源氏一族の複雑な家系図をざっとチェックしておこう。
 
 清和天皇(せいわてんのう)→貞純親王(さだずみしんのう)→源経基(つねもと)が源氏のはじまり。経基の息子の満仲(みつなか)が源氏2代目、3代目で摂津源氏は頼光(よりみつ)が継ぎ、その弟の頼信(よりのぶ)が分家して河内源氏の初代となり、源氏は2つに分かれる。
 
 頼光が頭領の摂津源氏は、頼光(よりみつ)→頼国(よりくに)→頼綱(よりつな)→仲政(なかまさ)→頼政(よりまさ)。頼光は、大江山の鬼退治で有名、頼政は鵺退治で有名。つまり化け物相手の者たち。
 一方、頼光の弟の頼信(よりのぶ)からはじまった河内源氏は、頼信(よりのぶ)→頼義(よりよし)→義家(よしいえ)→義親(よしちか)→為義(ためよし)→義朝(よしとも)→頼朝(よりとも)と繋がり、こちらは人間相手の剛の者たち。
 
  クーデター計画が露見し、平家が以仁王を捕獲しようと出動した治承四年(1180年)旧暦五月二十一日夜、頼政は自邸に火を放ち、園城寺で以仁王と合流して挙兵! 
 南都興福寺へと向かうはずが、五月二十六日、途中の宇治平等院に留まったところを平知盛率いる追討軍に襲撃され、宇治川をはさんで合戦になり、頼政は平等院で自害。享年77。息子の仲綱も自害。享年55。

 頼政は自害にあたって、首を東国へ葬るように言い残した。東国とは、防人を出す東国(あずまのくに)のことで、古くは遠江(とおとうみ)、信濃(しなの)以東であったというが、(平安時代後期には)、甲斐、伊豆は東国ではないとされるようになり、足柄峠と碓氷峠の東を「坂東(ばんどう)」として、そこから勿来、白河までが東国ということになった。つまり、相模(さがみ)、武蔵(むさし)、下総(しもうさ)、上総(かずさ)、安房(あわ)、常陸(ひたち)、上野(こうづけ)、下野(しもつけ)。



 
 なぜ東国なのかといえば、つまりは平家の勢力が届かないところ、という意味なのだろう。では東国のどこに頼政の首塚があるのかというと、これが複数箇所ある。

 まずは千葉の印西市、結縁寺近くにある頼政塚。頼政の首を携えた従者は不眠不休で馬を走らせ、この地に差し掛かると、頼政の首が岩のように重くなったので、塚をもうけて祀ったとされる。下総は、頼政の父である仲政(なかまさ)知行国であり、頼政が少年時代に訪れた場所であったらしい。


 
 木下(きおろし)街道(千葉県道59号市川印西線)が、千葉県市川市と印西市を結ぶ。このあたりはかつて馬の産地で、頼政の息子の仲綱の馬が木下(このした)、たぶん、この地で育った馬だったのではないだろうか。この名馬を清盛の三男の宗盛が強引に奪い、しかもその馬に「仲綱」という名をつけて侮辱したのが、クーデターのきっかけとなった、というのは有名な話。「ナカツナ、もっと早く走れ」とかいいながら、馬を苛めていたんかい、宗盛め~。

 次は下総国葛飾郡古河の立崎(龍崎)、現在の龍ヶ崎市。龍ヶ崎は、常陸国になり、蚕飼河(小貝川)の流域でたびたび氾濫していたが、龍ヶ崎付近は台地であったらしい。


 頼政の首を携えた従者が不眠不休で馬を走らせ…あたりの伝承は同じで、龍ヶ崎駅近く、駐車場に隣接した狭い狭い場所に祀られている。かなり夜遅くに行ったので、なんか肝試しみたいですが、なにも出ませんでしたので。




 
 そして古河城下の頼政神社(首塚)。従者の下河辺総三郎が首を祀ったとされる。かつては古河城内にあり、城の改築に伴って、現在の場所に移されたとのこと。


 
 五月二十六日・・・といってもこれは旧暦で、治承四年は春分が旧暦二月二十三日だと思うので、五月二十六日は、たぶん夏至を過ぎた頃なのか。
まだ夏至前、芒種に入った頃のことではありましたが、印西、龍ヶ崎、筑波から結城を通って小山から古河へと、頼政伝説を追いかけて車で走ってみました。合掌。




 
 関東武士団も、かつてこの道を馬で走ったのだろう。地平線までを見渡しながら、筑波山を目印に走って行くことのできる、関東の湿地帯を。   (秋月さやか)





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