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文覚上人、出家の真相スキャンダル 吾妻鏡の今風景04

文覚上人。保延5年(1139年)生まれ。頼朝よりも8歳年上。俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)。もしも遠藤藤遠(えんどうふじとお)だったら、上から読んでも下から読んでも同じだったのにね~。
 
 北面武士(御所の警護を務める役目、ベルサイユ宮なら近衛兵みたいなもの?)となるが、19歳で武士を辞めて出家、修験者に転職。
 
 修験者と僧侶は、平安時代はだいたい同じようなもので、出家して読経や勉学に励み、あるいは山中で修行して験力(げんりき)を会得する。僧侶は読経や勉学中心、修験者は験力(げんりき)を必要とするので修行がメインとなると考えるとわかりやすい。
 修験道とは、日本独自の宗教体系で、修験道の開祖は役小角(えんのおづぬ)、伊豆大島に流された人ね。山岳修行(峰入り)で荒行を行って験力を鍛えるのだが、滝行はその中の重要なプログラムの1つである。
 
 というわけで、盛遠が修験者をめざして最初に修行(荒行)に向かったのは極寒の那智山。那智の山は滝修行の本場で、今でいうなら、スピ系の聖地セドナで瞑想して宇宙との一体感を味わうようなもの、かもしれない。
 
 滝行の場所は、那智山の「那智四十八滝」の中の1つ、曽以の滝。
 
 それも二十四節気の大寒の頃で、雪が積もり、氷が張りつめる中、盛遠は滝壺に浸かり、(のうまくさんまんだざらだん、せんだまかろしやだ、そはたや、うんたらたかんまん、ナンタラカンタラ)と真言を唱え続ける。10日ほどして意識不明となり、生死の境をさまよっていたところ、天童が2人滝の上から降りてきて盛遠の命を救ったので、盛遠は21日間の滝行を成し遂げたということであります。
 意識不明の重体の中で天童の幻覚を見たということだと思うが、とにかく滝行を成し遂げ、その後は、日本各地の滝を巡って修行し、文覚上人として売り出すのでありました。

安達太良山近くの遠藤が滝。遠藤盛遠修行の地であります。


 
 修験者の仕事とはなにかといえば、開運成就や怨霊退散、調伏祈願。
 当時、病気は怨霊の仕業と考えられていたので、病人のいる家に招かれて怨霊退散の加持祈祷。お産では、怨霊が悪さをしないように、産屋の外で大音声(だいおんじょう)で真言を唱える。怨霊相手でも、声の大きいほうが勝つわけですよ。
 憎い相手を呪うという呪詛は、表向きには禁止とはいうものの、偉い人から呼ばれて「某大納言を失脚させたいのだが」と相談されることもあったかもしれない。

郡山駅の駅弁。器は会津塗、今も弁当箱に使っております。


 
 文覚は加持祈祷だけをしていたわけではなく、神社の復興などにも尽力し、神護寺(京都右京区高雄にある寺)を復興しようとして、後白河法皇の法住寺殿に押しかけて寄進を強要する。が、法皇の怒りを買って伊豆に流罪。これが1173年のこと。すでに伊豆に流されていた頼朝と親しくなるのも、自然な流れであったと思われる。


遠藤が滝上流


ここから女人禁制。

 
 『愚管抄』には、文覚は乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭るなどと書かれている。今風にいうなら、怪しげな超能力者がTVのワイドショーで大活躍といったところなので、話題になるための大法螺も吹いたであろう。(法螺吹きは、そもそも修験者が法螺貝をふいて大きな音を出すことから生まれた言葉)
 『愚管抄』の作者は、天台座主(ざす)の大僧正慈円(じえん)で、見どころのあるものはかわいがったとあるが、文覚のことは嫌いだったと思われる。

足柄の洒水の滝。この滝も、文覚上人の修行の地
洒水の滝。足柄山中は修験の地でもあった。


 
 『源平盛衰記』によれば、盛遠の出家の原因は、深刻な恋のトラブルであったとする。
 同僚で従兄弟の渡辺渡(わたなべわたる→なんと、上から読んでも下から読んでもわたなべわたる!)の妻の袈裟御前に横恋慕し、ストーカーまがいにつきまとい、困った袈裟御前が「では夫を殺害してくれたなら」と申し出、渡(わたる)殺害を計画。しかし袈裟御前は、渡の身代わりに殺されることを覚悟の上での申し出であり、その成り行きで愛しい女を殺めてしまった失意の盛遠が武士をやめて出家、というのが源平盛衰記のお話。
 いや、いくらなんでもこの話、裏の取れていない週刊誌ネタのようで、あまりにもえげつなくないですか? 道ならぬ恋に疲れ果てた2人が心中を誓ったものの、盛遠だけが死ねずに生き残ってやむなく出家、というようなケースではないか、と、推測してはみるのだが、それはそれで、やっぱりえげつないか。800年前の恋物語の真相や、いかに。   (秋月さやか)

修験者に滝行は必須。





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